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心臓への一矢

砕けた殻の向こう、黒い“心臓”が露わになっていた。幾千の黒糸が脈打ち、裂けた外殻を縫い戻そうともがく。さきほど叩き込んだ双獅と双竜――二重の終唱の余韻がまだ空間を震わせているのに、魔王はなお、世界を喰らう理を編み直そうとしていた。

熱が渦巻き、冷たい風が逆流し、天蓋に走る亀裂から月光にも似た光がこぼれる。倒れた破片がゆっくりと浮き上がり、また落ちる。重力すら、魔王の領域では一定ではない。

「……外殻は割れている」

レオンが短く息を整え、槍を構えた。青い水脈が螺旋を描いて走り、舞台全体の温度がすっと下がる。

「地脚は固定する。揺らすな」

アルトが盾剣を地面へと突き立て、戦域の“内”と“外”を反転させた。地の気が柱となってせり上がり、ひと呼吸ぶん、黒糸の脈動が鈍る。

「……今が、細い細い“間”です」

カイルが静かに祈りを置く。風が隊の呼吸を一拍分そろえ、薄い氷が痛みだけを受け止めて流した。

ジークが踏み込む。「道は俺が割る!」炎斧が焔の楔となって黒糸の束を叩き割り、わずかな開口をこじ開ける。

ミナの片目の奥で、無数の微光が瞬いた。「星印、固定……照準、確定。――今!」

その合図に、アマネとリュシアが遠くで同時に頷く。ふたりは更なる追撃を堪えて、ただ一点、黒糸の“窓”が閉じないよう、見えない線を重ねた。アマネの刃が空気の縫い目を結び、リュシアの杖が反転の拍子をもう一段、薄く刻む。

そして――

「エリスティア」

レオンの声に、彼女は一歩、前へ出た。

精霊弓アウロラが彼女の手で静かに形を成す。弦はない。だが、そこに確かに“張力”が宿る。世界のどこにも見えない糸――神樹の糸が、彼女の指先に触れる者だけに感じ取れる。

胸の奥で、一陣のざわめきが広がった。呼び声ではない。問いかけでもない。たしかな“応答”。

――待っていた。

(……ええ。受け取りました)

エリスティアは深く息を吸った。瞳は揺れない。だが、その頬に一瞬、微かな熱が昇る。胸の内で、シルヴァ・ユグドが風に揺れる梢のようにそっと頷いた。

「この一矢は――奪うためじゃない。返すための矢」

彼女は右手を引いた。見えない弦がたわみ、光の筋が一本、彼女の手の中に集まる。芽吹きの色を帯びた微光。芽はやがて穂先となり、矢は枝葉を纏った“若木”のように形を変えた。

黒糸がざわめく。魔王の心臓が、嫌悪と恐怖の混じった脈をひとつ刻む。

「潮目、合わせる」

レオンが水を鎖へ変え、灼けた空気の熱を奪い去る。青い鎖が黒糸の周りを何重にも巡り、過熱した修復反応を冷却する。

「揺れ、止める」

アルトの大地の柱が、玉座圏の振幅を押し戻す。足場が“地”を思い出し、揺らいでいた視界が安定を取り戻した。

「皆、帰るために」

カイルの祈りが半拍遅れて全員の胸に触れ、痛みと恐れを薄く解いていく。

ジークの斧がもう一度、焔の道を開く。「押し通れ!」

ミナが頷く。「向こうまで、通ってる。――行ける!」

エリスティアは頷き返すと、ゆっくりと指を離した。

矢が放たれた。

それは飛沫ではなく、帰還の流れだった。矢は直線を描かない。失われた“名前”や“記憶”の断片を拾い集めながら、最短で、最良の曲線を選び続ける。軌跡に沿って、小さな春が連鎖する。焦土の片隅に薄緑が芽吹き、誰かが忘れていた誰かの名が、遠い街角でふと口にされる。奪われた灯りが、居場所へ――返っていく。

「――――!」

黒糸が一斉に悲鳴をあげた。魔王の心臓が、返還の理を受け入れられずに痙攣する。

その刹那、アマネが見えない空へ一本の線を引き、リュシアが半拍ずらして同じ場所へ光を置いた。言葉はない。だが、その行為ははっきりと語っている。

(人の心は、闇の栄養にならない)

矢は核心へ届く。若木の穂先が黒い心臓に触れた瞬間、硬質な音が遅れて響いた。突き刺す音ではない。根が土へ入る音だ。矢は“傷”ではなく“通路”を穿ち、そこから白い光が逆流を始める。

「今だ、冷やせ!」

レオンの水螺旋が一気に回転数を上げ、露出したコア周辺の温度を奪う。沸騰する負の反応が鈍り、黒糸の結び目がほどける。

「揺らすな――止める!」

アルトの戦域が“内外”をもう一度反転し、魔王自身の圧縮が逆圧となって押し返される。大地の四柱がきしみながらも、空間の歪みを抱え込んだ。

「みんな、もう少しだけ……!」

カイルの祈りが痛覚の鋭さだけをさらってゆく。誰も倒れない。誰も手を離さない。

ジークは吼えた。「斧は道、心は灯! 押せぇッ!」焔がもう一段、深い赤へ変わり、黒糸の束が千切れる。

ミナは息を殺し、指先で空間の“揺れ”をなぞる。「ズレ、ゼロ。照準維持」彼女の声は小さいが、確かな導きだった。

エリスティアは弓を下ろさない。放った矢は一本きりだが、彼女の内で続けざまに“返還”が紡がれる。刺し込んだ若木の道を通って、黒に閉じ込められていた灯りが、次々と還ってくる。そのたび、魔王の心臓は色を失い、鼓動はひとつ、またひとつと浅くなる。

(もう少し。――届いて)

矢の中で、小さな芽がゆっくりと枝を増やし、光の葉をひとつ、またひとつと広げた。やがて枝葉は黒い核の外へも伸び、そこに絡みついていた黒糸をほどく。

「割れるぞ!」

レオンが叫ぶのと、外殻の亀裂が一気に走るのは同時だった。黒い心臓の表面に網の目のひびが広がり、そこから白い息が漏れる。冷却された破片が脆く砕け、アルトの柱がそれを受け止める。

アマネとリュシアは、遠くでそっと視線を交わした。言葉はいらない。彼女たちはただ、矢が穿った“道”を守る――奪わせないために。

黒糸が最後の抵抗で蠢いた。だが、ほどけ始めた結び目は戻らない。返還の流れは、もう世界の側の自然として確立してしまった。

「終いだ」

エリスティアが囁く。耳元で、木霊のように梢が揺れた。

彼女は弓手をそっと前へ押した。矢――若木は、最後のひと押しで核心を貫通し、背面へと白い光を芽吹かせる。黒い心臓がひときわ大きく痙攣し、次いで――静まった。

沈黙。直後、轟音。

外殻が崩れ、黒糸が雨のようにほどけ落ちる。返還の光はなお流れ続け、遠いどこかで誰かが誰かの名前を呼ぶ声が、ほんの一瞬だけ、戦場にも届いた気がした。

「……やった、のか?」

ジークが肩で息をしながら、斧を下ろす。

「まだ気を抜かないで」

ミナがすぐに制した。指先の微光がなお揺れている。「残り火がある。回収して……世界へ戻す」

カイルが頷き、短い祈りで仲間たちの胸に穏やかな鼓動を繋ぎ直す。「誰も欠けない。最後まで」

レオンは槍を下ろし、アルトは盾を肩へ寄せた。ふたりが同時に、エリスティアへ視線を向ける。

「見事だ、エリスティア」

「……ありがとう。戻すべきものを、返してくれた」

彼女は小さく首を振った。「皆さんが、道をくれたから」

アマネの声が、遠くから届く。「あと少し――崩落に気をつけて!」

リュシアの念が重なる。「返還の流れを保ちつつ、退路を確保します。――帰りましょう」

エリスティアは弓を解き、胸の前でそっと手を合わせた。黒の残り滓が最後の一片まで白に融け切るのを見届けてから、彼女は深く頭を垂れる。

(人は、闇に喰われない。灯りは、必ず帰れる)

玉座圏に、ひとときの静けさが戻った。だが空はまだ、夜の色のままだ。遠くで、崩れた天蓋が軋む。

レオンが短く命じる。「退避路、確保。全員、無事に――帰る」

誰も異を唱えなかった。八人は、互いの顔を見、頷き合う。

朝は、まだ来ない。けれど、その名残は、もう確かにここにあった。


お読みいただきありがとうございます。いけるところまで連続投稿!(不定期ですが毎日目標)。

面白かったらブクマ&感想で応援いただけると嬉しいです。


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