双獅・双竜—前奏
瘴気が低く唸り、玉座の間に垂れ込める黒が“脈動”した。壁面のレリーフに走る亀裂が、呼吸するように開いては閉じ、まるで城全体がひとつの心臓になったかのようだ。
魔王アトラ・ザルクは玉座に凭れ、瞼の奥で薄い光だけを転がす。語らない。だが“観て”いる。吸収の黒糸が床下で微かに鳴り、すでに幾度かの形態換装を経た外殻が、鈍色の光沢で歪みを隠した。
「……潮が引く」
レオンが槍を傾けて囁いた。刃の根元で、水脈が静かに回る。アルトは隣で盾剣を半身に構え、足裏へ地脈の重みを通していく。
「なら、柱を立てる」
短い合図だけで、二人の呼吸が合った。音にならない拍が床面に降りて、玉座圏の“舞台”がわずかに水平へ戻る。カイルはその拍に半歩遅れて祈りを挟み、全員の鼓動を同じ“息継ぎ”へと導いた。
ミナは口を結んだまま、アルキメイアの側面を指先で二度、軽く叩く。ロゴスが視界の端に薄い観測線を数本生み、吸収の窓に滲む“開閉の癖”をすくい上げる。
(あと、三拍)
彼女は誰にも聞こえない速さで数え、視線だけでエリスティアへ。
エリスティアは頷くと、弓を胸の前に立てた。神樹の糸が見えない輪郭で彼女の肩から指先へ渡り、一本の矢が静かに生まれる。風の粒子が矢羽根に宿り、月の気配がそこに薄く触れた。
「合図は——この一本」
囁きは仲間の念話網にだけ落ちる。誰も余計な言葉を足さない。必要な位置へ、必要な角度で、足と視線が滑る。
アマネは継星刀を下段に沈めた。暁衣がふわりと揺れ、背中に金の弧が微かに灯る。太陽の獅子が“息を潜める”姿だ。呼びたい衝動を喉で抑え込み、ただ、刃と鼓動と足裏を一本に束ねていく。
リュシアは対角へ身を置き、継杖の環を指先で撫でた。銀の弧が肩越しに流れ、月の竜が鱗を伏せて身を丸める。炎と氷はまだ歌わない。だが、どちらも“立ち上がる拍”を待っている。
「……来るぞ」
レオンの声が低く落ちた。水脈の輪が一瞬だけ緩み、逆に凝縮する。“潮目”だ。
「戦域展開——内と外、入れ替える」
アルトが宣した。セラフィードの盾面が地脈の揺れを吸い、反転の縫い目を床に走らせる。玉座圏の外に押し出されていた“人の息”が内側へ戻り、逆に魔王の圧がわずかに滲み出て、境界で留まる。
エリスティアが弓弦に矢を載せる。彼女の視界で、神樹の糸が黒の窓の縁に絡み、ほんの一瞬だけ“吸収の口”が締まる。
「今——」
ミナの一言が落ちる。言葉と同時、彼女の観測線が一本だけ太くなる。ロゴスが世界の“呼吸”を可視に変え、全員の足が同時に床を掴んだ。
矢が放たれる。音はない。光が走り、矢は黒の窓の縁を縫い止め、吸収の歯車が半拍遅れで噛み損ねる。
その刹那を、仲間が一斉に奪い合った。
ジークの斧が前面の“装甲層”を叩き割り、レオンは水のうねりで熱を奪う。アルトが揺れを柱で殺し、カイルは落下の衝撃を祈りで拭う。結界のほころびはエリスティアが糸で縫い、ミナは観測の照準をさらに狭めた。
「アマネ!」
「ええ!」
——距離はある。だが、届く。
アマネは刃を胸前へ起こし、金の弧を“獅子の鬣”に変えた。リュシアが銀の弧を立ち上げ、伏せていた竜に細い息を吹き込む。
双獅終唱/双竜終唱——二つの大技が、まだ“前奏”の姿で呼吸を合わせはじめる。
魔王の外殻が、ぐ、と鳴った。玉座の背後で空間がわずかに凹み、音が落ちる。圧縮。世界そのものの“余白”が削られ、足音も衣擦れも、矢の尾羽の震えまでもが吸い込まれていく。
「音が……」
レオンが息を呑む。アルトは顎を引き、視線でパターンをなぞった。圧縮は中心へ寄る。寄った分だけ、必ず“戻る”。
(その“戻り”を合図に——)
リュシアは杖先で目に見えない“刻み”を宙へ描く。アマネは刃に指先で二度、リズムを打った。太陽の獅子が金の息を増やし、月の竜が銀の鱗を整える。
エリスティアの念話が静かに滑る。
《——もう一本、縫います。戻りに合わせて》
《任せて》
ミナは額の汗を拭いもせず、頷いた。観測線がさらに一本増え、黒の窓の“呼吸”が明瞭になる。
魔王は沈黙を崩さない。だが、玉座の肘掛けに置かれた指が、ほんの僅かに動いた。圧縮が一段深くなる。空気が軋んだ瞬間、ジークが低く吠え、レオンが槍を捻る。
「——今だ!」
「今しかない!」
二つの声が重なった。
エリスティアの矢がもう一度、光だけを残して吸収の縁を縫い止める。アルトは戦域の“裏表”をもう一段反転させ、レオンは水脈で“戻り”の拍を膨らませた。カイルの祈りが全員の肺へ新しい空気を送り、ミナの照準が一点に収束する。
遠くで、獅子が地を蹴った。別の遠くで、竜が胸を膨らませた。離れた二つの気配が、見えない橋を渡って互いの“拍”を合わせる。
(——届いてる)
アマネの胸に、アルトの笑顔が過ぎる。リュシアの耳に、カイルの息遣いが触れる。帰るべき音が、二人の中心で重なる。
「——」
声にはしない。前奏は、まだ前奏のままがいい。引き絞った弦の震えが、今はただ甘い。
圧縮の極点が、玉座の間に落ちた。すべての音が、いったん消える。
次の瞬間に続くべき“最初の一音”だけが、世界のどこにもない。
アマネは目を閉じ、リュシアは瞼を伏せる。二人の弧が、金と銀の一筋になって重なった。
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