真形・第二換装
――音が、薄皮一枚ぶん遠のいた。
天蓋のひびから垂れる黒糸は、もはや“雨”ではない。落ちる前に向きを変え、空中で自重を忘れた蛇のように撓み、互いの影と絡み合って“縄”になる。触れた床紋はひと呼吸で沈み、玉座圏そのものが別の脈動を始めた。
「――来る、第二段」
ミナが短く告げる。掌で弾いた解析円盤が、黒糸の“目”を二つ、三つと示す。合図に合わせ、仲間の呼吸が一斉に揃った。
レオンは槍を半身に構え、床下へ蒼を染み込ませる。水脈がぐるりと遠心に走り、吸い寄せられるはずの糸流を“洗い落とす”ように迂回させる。アルトは同時に盾剣を押し出し、地の紋を踏み固めた。四隅から伸びた柱がさらに太り、揺さぶりの余白を殺す。――王家双柱、維持。
「前、開ける!」
ジークが一足で間を食い、ヴァルガルムを肩から落とす。炎が杭になって柱脚の隙間へ深々と刺さり、進入の道を灼いて潰す。カイルの祈りが半拍遅れでその熱を包み、ヴェント・スピリトの風で暴れを鎮め、ヴァルディア・フェンリル由来の冷気で締めて固定した。
「上――二つ!」
アマネの声。天井裏、理の外側から開くはずの“窓”に、エリスティアが弓の弦をそっと掛ける。シルヴァ・ユグドの葉脈が彼女の指先に滲み、見えない縫い糸がほつれへ走る。ひと綴じ、ふた綴じ――黒糸の吸い込みが、一拍、また一拍と鈍った。
「第二層、張り直す――!」
リュシアが継杖を立てる。光律が二重に回り、片輪が癒し、もう片輪が“反転の揺れ”だけを受け取る網になる。ページはない。だが、世界が“裏返る瞬間”は確かにある。そこへ、杖先を差し込む。ぱん、と乾いた音――縁で黒が欠けた。
アマネは一度だけ息を詰め、刃を斜めに滑らせる。星閃一刀。斬光が黒糸の縫い目へ返し縫いのように走り、断界めいた継ぎ目をひとつ、ほどく。その背で、金と銀の弧がごく薄く重なった。呼びたい衝動はある。だが、まだ“決め手”の拍ではない。
(もう一枚、奥へ――)
黒殻がきしむ。背棘が二本、角度を変えて伸び、胸郭の節々が“別の骨格”へ組み替わっていく。第一換装で露出した構造が、今度は自分を内側から“食う”。魔王はなお喋らない。だが、観察の気配は濃く、冷たい。
「下層、割れる!」
ミナの声で、アルトが即応して地の紋を二重に踏む。床の格子が微細に震え、見えない落とし穴の縁が“鈍る”。ジークの二打目がそこに杭を打ち増し、レオンの水螺旋が冷やして締める。
「――今」
エリスティアの矢が走った。音がしない。薄布のような光が真上から真下へ、ほころびを通して縫い絞り、窓枠の“遊び”を消し込む。アマネはその瞬間、流星雨で残った目を洗い流した。
手応え。黒糸の束が、もう一つ、千切れた。
だが次の瞬間、玉座圏の影は“全体で”呼吸を変えた。天井と床の遠近が入れ替わり、左右の圧が逆流する。立っているはずの足裏が、たしかに滑った錯覚を覚える。
「――内外反転……!」
リュシアの睫毛がかすかに震え、すぐに静かになる。彼女は第三層の“刻み”を薄く起こし、反転の半拍前に“点”を置いた。そこへ、カイルの祈りが遅れて落ちる。半拍の遅延は、いまや全員の生命線だ。
「まだ張れる!」
ミナの合図に、仲間の返事は短い。
「取る!」(ジーク)
「固定!」(アルト)
「流す!」(レオン)
「縫う!」(エリスティア)
「治す!」(カイル)
「刻む!」(リュシア)
「斬る!」(アマネ)
――拍が、ひとつになる。
黒糸の奔流は太い。だが、理を凌駕する数に対して、人の側は“息”で抗う。息は目に見えない。だからこそ、壊されにくい。庵で教わったことは、戦場の中央でなお確かだった。
魔王の殻に、もう一度大きな鳴動。第二換装が“形”を持ちかける。背の棘が増え、角の根元が伸び、胸郭の“窓”が別配置で開く――が、すべてが一拍遅い。八人の遅延が、魔王の換装そのものに“薄いノイズ”を混ぜ始めていた。
「……見えてきた」
レオンが低く言い、槍を半回転させる。蒼が床下の“溜まり”を剥ぎ、アルトの地柱に流し込む。柱は重く、だがしなやかにたわみ、圧を逃がす舞台になる。二人の立てる影は、いつもより長く、揺るぎがない。
「前、もう一枚!」
ジークの斧が火花を撒き、カイルの祈りが裂け目の“痛み”だけを抜いて縫合を助ける。エリスティアの指は迷わない。ミナが投げた薄円盤が、次の眼を示す。
「右上、三!」
アマネは刃を上へ、リュシアは杖を下へ――互い違いに差し込む。太陽と月、金と銀、上下左右。二人の線は交差せず、絡まず、ただ拍だけで繋がる。
(――行ける)
アマネの胸でソル・イグニスが熱を強め、背でオムニアの囁きが無数の小さな命の呼吸と重なる。リュシアの宵衣には静かな冷光が満ち、エレメンタリアの調べが属性の輪郭を薄くしていく。
「――第二換装、阻害域まで」
ミナが息を吐く。言葉は合図に過ぎない。けれど、その一言で全員の鼓動が同じ深さまで沈む。
魔王の外殻が、未完成のまま固着した。棘は増えたが角度が甘く、胸郭の窓は開いたままの“盲点”を残す。黒糸はなお蠢く。が、最初のような一方通行ではない。
ほんの、刹那。
玉座上の影が、初めてこちらを“測らずに”見た気がした。
――人の息で、理が狂う。
その無言の驚きを、誰もが同時に嗅ぎ取った。
「ここから、詰める」
アルトが盾剣を押し出す。レオンの槍が流れを撥ね、ジークが杭を打ち増し、カイルが半拍祈りで命綱を太くする。エリスティアがほころびを綴じ、ミナが次の“窓”を指す。アマネは星の線を重ね、リュシアは反転の縁を削る。
――第二換装、完了。だが、それはこちらの拍で終わった。
魔王は言葉を持たない。けれど、闇の鼓動は確かに乱れを見せた。
「次で――持っていく」
アマネの囁きに、リュシアが短く頷く。
太陽と月はまだ呼ばない。呼ぶのは、次の一拍だ。
◇
玉座圏に、短い静寂が落ちた。
誰も、油断しない。けれど、誰も、恐れだけで立ってはいない。
庵で覚えたこと――人らしくあることが、闇に呑まれない術。それは、剣でも祈りでもない。呼吸と拍で、いま確かに形を持った。
「さあ――第三へ」
ミナの声が、火の粉のように軽やかに跳ねた。
――決着の拍は、もう指先に届いている。
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