アルト様はどうしたい?
仮設の小屋は、森の湿気をそのまま抱え込んでいた。
梁には濡れた外套が吊られ、焚き火の煙が低く漂っている。鉄鍋で薬草が煮え、青い匂いが室内を満たしていた。
リュシアが両手を重ね、淡い光をアマネの腕に落とす。
骨のずれは戻した。血も止めた。けれど痛みだけは、頑固に居座っていた。
「……もう、十分だよ。ありがと」
アマネは汗ばんだ額を振り、笑ってみせた。
リュシアは小さく首を振る。
「……ごめんなさい」
「ちがうよ。私のほうこそ、ちゃんと避けられたはずだから」
素朴な声。けれど、その芯は折れていなかった。
ジークは黙って薪を割り続け、乾いた音が重苦しさを裂いた。
ミナは布巾を湯に浸し、効率よく絞ってアマネの指先に当てる。
「痛いときは我慢しないでね。我慢は非効率だから」
いつもの調子を無理やり保ちながら。
カイルは包帯と板を整えながら、ちらりとアルトを見やった。
アルトは入口近く、焚き火から半歩離れた場所に座っていた。剣は鞘にあるのに、瞳は抜き身の刃のように危うい。
(俺のせいだ……)
勇者候補だから、と焦って前に出た。
その判断の結果、アマネは傷ついた。
自分の判断ミスで仲間を傷つけたのだ。
「……アルト殿下」
カイルが呼ぶ。反応はない。ジークが薪割りを止め、こちらを見る。
「なあ、殿下。今日はもう――」
「やめて」リュシアが穏やかな声で遮った。
「少し、待ってください」
彼女はアマネの包帯の端を結び、そっと結び目を撫でた。
火の粉が舞う。
リュシアは皆を見回し、微笑む。
「私は、外の見張りをしてきます。他にも手当てが必要な人がいるかもしれないから」
それは理由であって、同時にそっと場から退く判断でもあった。
彼女は音を立てないよう扉を開け、夜風へ消える。
残されたのは、焚き火のぱちぱちという音と、気まずい沈黙。
「……アルト様」
沈黙を破ったのは、痛みに顔をしかめながらも微笑んだアマネだった。
彼女は焚き火越しに、まっすぐアルトの目を見据える。
その瞬間、空気がわずかに変わった。
「アルト様は……アルト様はどうしたいの?」
焚き火の揺らめきが二人の間で息を潜める。
その一言が、刃よりも鋭く、胸に深く落ちた
「俺は……」
喉が乾いていた。
答えはいつも決まっている――勇者候補として、王族として、国のために。
だが、その言葉を舌に乗せかけて、止まった。
(それは役目の答えだ。俺自身の、じゃない)
アマネは追い詰めない。焚き火越しに、ただ待っている。
庵でルシアンがよくしていたように。けれどその響きは彼女自身の声だった。
震えていても真っ直ぐで、傷の上から差し出される温もりがあった。
「……俺は、間違えた。前に出ることが正しいと思って。アマネが傷ついて……やっと気づいた。俺は“勇者候補だから”を言い訳にしてた」
言葉が小さくなっていく。
「勇者じゃなくても、王子じゃなくても」
アマネが息を整えながら笑う。
「アルト様が、どうしたいか、だよ」
瞼を閉じる。
暗闇の奥に浮かぶのは、遠い日の縁側。母に連れられて訪れた小さな庵。庭で木剣を振って笑っていた黒髪の子――名は思い出せない。
ただ、問いだけが残っていた。
――で、あなたはどうしたいの?
(俺は……)
目を開く。焚き火の光が戻ってくる。
向こうにいるのは、痛みを抱えながらも笑ってくれるアマネ。
「……俺は、皆と歩きたい」
言ってから顔が熱くなった。幼稚だと思う。もっと立派な言い回しはあったはずだ。
けれど、それしか出てこなかった。
「勇者だからじゃない。王子だからでもない。俺として、皆と一緒に、前へ進みたい」
アマネの瞳が輝いた。
「うん。じゃあ、そうしよ。私はついていくから」
その簡単さが、重荷を軽やかに変えていく。
「殿下」
カイルが眼鏡を押し上げた。
「“皆で歩む”のは戦術的にも正しい。個の力より、持続可能性が高い」
「言い方が堅すぎ!」
ミナが笑い、湯を差し出す。
「決意の後は水分補給。効率は正義!」
ジークは鼻で笑った。
「前に出たいときは声かけろ。俺が盾やる。殿下が倒れたら効率どころじゃねえ」
「ありがとう」
アルトは湯を飲み、熱さに目を細めた。
「皆……ほんとにありがとう」
そのとき、扉が叩かれた。リュシアが戻ってきたのだ。
「交代してきました。……少し顔色が良くなりましたね」
アマネが手を振る。
「大丈夫。アルト様、自分の言葉で言えたんだよ」
リュシアは驚き、すぐに微笑みに変えた。
「……よかった」
その二音は、聖女としての正解ではなく、人としての声だった。
⸻
やがて仲間たちは横になり、眠りにつく。
アルトは最後に鞘へ手を触れた。刃は眠っている。
焦りも、少しだけ眠った。
(俺は――俺として進む)
夜は深い。けれどもう、真っ黒ではない。
かすかな光を、皆で分け合っていた。
“役目”ではなく“自分の言葉”。ここが転機です。不定期・毎日目標。




