影を食む理、灯を抱く人
――音が、消えた。
玉座圏に満ちていた斬撃の余韻も、魔力のうねりも、ひと呼吸ぶんだけ真空に吸い取られる。次の瞬間、黒い薄幕が落ち、世界が“内側”へ折れた。
魔王アトラ・ザルクの無言の一手。言葉はない。ただ、目に見えぬ深度から心だけを狙い澄ます、理知の波。
視界が二重に揺らぎ、仲間たちの足許が微かに沈む。
アルトの前に、倒壊した城門が現れた。――幼い日の記憶。守れなかった背中。
レオンの周囲に、水底のような静けさがひろがる。――救えなかった民の瞳が、泡になって消える。
ジークの耳を、あの夜の泣き声がひっかく。――握っていたはずの手が、するりと抜け落ちる。
エリスティアの指先が冷える。――森が燃える。緑が灰に換わる。息の根を断たれる精霊たち。
(――やめろ)
胸の奥で、誰もがそう叫んだ。身体は戦える。だが心は、どれだけ鍛えても脆いままだ。
その隙を、黒い理が食べに来る。
「――みんな、息を」
カイルの声が落ちた。優しく、しかし揺るがず、祭壇の灯のように低く。杖先に淡緑の輝きがともり、祈りの輪が広がる。
「半拍、遅らせて。息を吸って……いま」
彼が刻むのは攻撃でも結界でもない。呼吸だ。
波に飲まれそうな意識の縁に、ひとつ灯りを置く。
目の前の“幻の痛み”と、足の裏の石の“確かな硬さ”。カイルは両者を結ぶ細い橋を、祈りで架ける。
「……っ、助かった」
アルトが拳を握り直す。レオンが目を細め、足幅をわずかに広げる。ジークの歯噛みが、徐々に呼吸の拍に合ってゆく。
その横で、ミナは短く言った。
「だいじょうぶ」
それだけ。だが、そのひと言に合わせて、彼女の肩口の徽章――叡智の精霊ロゴスの紋が、糸を一本増やした。
目には見えぬ“観測の糸”が、黒い波の表面をすくい取る。
魔王の“吸い込み”の縁が、ほんのわずかに遅れる。半呼吸、いや四分の一拍ほど。
(――入った)
ミナは唇を噛まず、笑わず、ただ顎でうなずく。
ファエリアに習った“無駄のない動き”。ブリューナに叩き込まれた“迷いを残さぬ視線”。
それらが彼女の全身から力を削ぎ落とし、たった一本の合図だけを、仲間の鼓動へ届ける。
「レオン殿下、流れを――アルト、揺れを止めて」
言葉はそれだけで足りた。
レオンの槍が半円を描き、水脈が黒い波の縁を払い落とす。
アルトの盾剣が地脈に触れ、足場の“沈み”を止める。
足裏が戻る。手の中の重みが現実に帰る。
「……見えているな」
祈りの輪の内で、カイルが小さく微笑んだ。
彼の祈りは高らかな聖句ではない。記憶を柔らかく結び直す糸。
「大丈夫だ」と言えるだけの根拠を、人の身体に思い出させる術だ。
黒い幕が、わずかに薄くなる。
「いまのほころび、縫います」
エリスティアの声が念話に流れた。神樹の糸が彼女の指先からすっと伸び、結界の裂け目を“刺繍する”ように渡っていく。
外へは何も明かさない。だが内輪だけは知っている。彼女が神樹の姫として、この場所の「破れ」を縫うことができる、と。
(ほどける速度より、結ぶ速度を速く――)
針目が通るたび、黒い波の張りが鈍る。
ミナの観測糸が“ほどけ”の速度を測り、カイルの半拍祈りが“呼吸”の足場を守り、レオンとアルトの双柱が“舞台”を固定する。
ジークはその前面で、押し返す槌となって斧を振るい、押し寄せる影を粉砕し続けた。
「――人の心は」
ふいに、誰の口にもならず、庵で聞いた言葉が胸をよぎる。
戦術の外側にある。計算の外に灯る。
信じ、笑い、手を伸ばすその癖が、闇に食われにくい形をしている。
黒い薄幕が、ぱり――と細い音を立てた。
◇
高窓の向こう、視界の端を二つの光が交差した。
金と銀――一瞬だけ重なり、すぐ離れる。
誰かが見間違いだと思うほどの刹那。けれど分かる者には分かる。
(アマネ……リュシア)
エリスティアが息を呑む。レオンとアルトが、視線だけで潮目を合わせる。
まだ撃たない。まだ遠い。だが、そこに在る。
「――来る」
ミナが小さく言い、ロゴスがさらに一本、観測の糸を増やした。
遅延の手応えが、四分の一拍から半拍へ。
黒い波はなおも理にかなって迫る。だが、こちらは人の拍子を取り戻した。
「押し返すぞ」
ジークが吠え、炎をまとった斧が床を割る。
レオンの水が冷たく流れ、アルトの大地が揺れを殺す。
カイルの祈りが背骨を通り、エリスティアの糸が破れ目を結ぶ。
ミナのひと言で、全員の動きが同じ一拍に収束する。
闇は“心”から先に食む。
ならば、心から先に抱き直せばいい。
「大丈夫だ。俺たちは――ここにいる」
レオンが静かに告げ、アルトがうなずく。
「そして、“帰る場所”も、ここにある」
魔王は黙したまま、観察をやめない。深淵の眼に、微かな興味が灯る。
理は、まだこちらの灯を食べ尽くせない。
灯は、まだ理の外側で燃えている。
――音が、戻る。
戦場の呼吸が繋がった。
遠い空の金と銀の弧は消えた。だが、誰もが確かに予感を抱いた。
この拍子の先に、決めの一手がある、と。
「さあ、行こう」
ミナの合図に、仲間たちは一斉に踏み出した。
影を食む理のただ中で、人は灯を抱いて進む。
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