魔王、真形へ
黒糸が、空を裂いて還っていく。
廊の果て、崩れた塔の陰、凍てついた庭園――三つの戦場から立ちのぼった“残滓”は、ミナの遅延術で千々にほどけ、エリスティアの神樹結界で何度も撓められながらも、最後の数条だけは細く細く絞られて、同じ一点へ流れ込んだ。
ルナリア城・玉座下――“魔王領域”。
石の天井が脈動し、床は静脈のようにうねる。玉座の背後、闇が縦に割れ、そこに立つ影がゆっくりと息を吸った。
魔王――アトラ・ザルク。
甲殻めいた黒の装甲は、ただの闇ではなかった。吸い込まれた残滓が層を増やし、輪郭はより人に似て、それでいて人から遠のく。長剣の刃は低く歌い、周囲の重力がわずかに歪む。言葉はない。ただ、理のような脈動だけが座す者の存在を示していた。
(……間に合わなかった分だけ、力を持ち帰られた)
エリスティアの睫毛がふるえる。結界の端で、神樹のさざめきがかすかに警鐘を鳴らした。
「でも、全部は行かせなかったわ」ミナが肩で息をしながら頷く。「遅延、限界まで引き伸ばした。いける、今ならまだ――」
「今、終わらせるために来た」
アマネが前を見据え、継星刀を握り直した。傷だらけの暁衣が音もなく揺れる。すぐ隣でリュシアが杖を支え、彼女の呼吸に合わせて光律の薄膜を重ねた。
「皆、揃ったな」
水の帳をまとってレオンが進み出る。蒼が走り、彼の背に《アクア・レグルス》の意志が澄み渡る。対して、アルトの足下には土脈が太く通い、《テラ・ドミヌス》の低い唸りが戦域の基礎を固めた。
ジークが斧を肩に担ぎ、短く笑う。「相手がでかくなるほど燃えるタチでな。なぁ、ミナ」
「了解。私の“遊び”も、そろそろ本番だよ」ミナは指先で弾丸――小さな魔導核をはじき、周囲の座標に見えない楔を刺していく。「吸収阻害、再展開。合図を待って」
カイルはルーメナスの頁を撫で、祈りと術式をひとつに束ねた。「治癒線を戦域の内側に。誰が倒れても、即座に立て直す」
エリスティアは一度だけ目を閉じ、胸に手を当てる。「……見守ってください、神樹よ。ここは、渡しません」
彼女の背後で、緑金の風がさやさやと葉擦れを奏で、見えない根が床の奥へ潜っていく。
八人は互いを確かめ合い、ほんの短い微笑を交わした。そこには台詞も演説もいらない。――この旅の長さが、充分な言葉の代わりだった。
(人としての心を、捨てない)
アマネが心の底でつぶやく。同時に、リュシアも。
(人としての心を、灯したまま勝つ)
玉座の闇が、瞬きをした。
長剣がわずかに傾き、同時に領域の密度が増す。瘴気ではない。秩序を裏返したような“重さ”だ。空気が軋み、石柱が音もなく圧搾され、粉のまま宙に留まる。アトラ・ザルクは初めて微かな声を漏らした。
「……呼吸が、要るのか」
それは問いではなく、観察だ。世界という実験器の中で生命という反応を眺める研究者のような、冷たい好奇心。だが、次の一拍でその声色に極細の怒りが混じった。玉座の間の隅――四天王が立った場所に、もはや誰もいないことを、彼も理解している。
「欠けた。――なら、補う」
闇が塔のように立ち上がり、装甲の継ぎ目へ吸い込まれる。肩、胸郭、こめかみ――黒い結晶が生体のように脈打ち、長剣の刃文は夜に沈んだ。真形への到達。理知の脈動が、ひと段深くなる。
「――来るぞ!」
アルトの号令に、全員が一斉に前傾した。戦域のラインが床に描かれ、カイルの癒しが縦糸に、ミナの遅延楔が横糸に織り込まれる。レオンの水流が足場を滑らかにし、エリスティアの根がその下で支える。ジークは先頭で火柱を立て、アマネとリュシアは左右に開いて角度を取った。
魔王が立つ。玉座は崩れない。代わりに“玉座という概念”が彼の背に羽織られ、周囲の空間が王の間として従属する。一本、長剣が振られた。
静寂が落ちる――刹那、八方で破裂音。
見えない断層が走り、視界が三度、色を変えた。青→黒→無音。アルトの戦域がきしむのを、カイルが祈りで抱え込む。ミナの楔が三本弾け、残りが歪みの縁をとらえ直す。レオンの水が淡い膜となって衝撃を散らし、エリスティアの結界が寸前で“命”だけを抜き上げる。
「大丈夫――まだ掴める!」
リュシアが杖先で光律を走らせ、反転の拍を刻む。「半拍、ズレる。私が合図を――アマネ!」
「任せて!」
アマネは刃を低く構え、足裏で床の呼吸を読む。心臓の鼓動――彼女自身の、仲間の、そして目の前の“理知の鼓動”。三つの拍を一つに束ね、刃の芯へ沈めていく。
「行くよ、みんな!」
ジークの炎が咆哮し、斧が地を割る。ミナの魔導核が弾け、宙に見えない歯車が噛み合わさる。レオンの潮が引き、次の波を高め、アルトの陣が収束を受け止める。カイルの祈りが全員の呼吸を同じ高さに整え、エリスティアの森が“生”の側へ引き寄せる。
魔王が、ほんの僅かに首を傾けた。
「――価値」
その一言で、玉座の間の密度がさらに加算される。床が緩く傾き、奥行きが伸び、八人の距離が“均等”に散らされる。分断の誘いだ。
「離されるな!」
レオンが水紋で手をつなぎ直し、エリスティアが根の糸でそれを縫い止める。ミナが遅延陣の座標を上書きし、アルトが戦域を“再定義”する。ジークが前を割り、カイルが後を編み、アマネとリュシアが左右の縁を押し返す。
――なお、足りない。
吸い込みは止まらない。遅延しても、ゼロにはできない。黒糸は微量でも流入し、魔王の真形はわずかずつ完成へ近づく。
(ここで迷えば、飲まれる)
アマネは一瞬だけ目を閉じた。アルトの気配、皆の気配、そして――自分の中の太陽と森羅万象の囁き。そのすべてが「行け」と背を押した。
「終わらせよう、アトラ・ザルク」
彼女は静かに言って、一歩、踏み出した。
「終わらせに来たわ、あなたの“領域”で」
リュシアもまた前へ。月が満ち、杖先に白い音が灯る。
魔王は長剣を持ち直し、今度こそ、はっきりと応じた。
「――来い」
玉座の間が、戦場へと“確定”する。
八人は互いの背を預け合うように薄く円を描き、同時に一歩、前へ出た。
ここからが、本番だ。
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