詰みの一拍
聴こえないはずの鐘が、またひとつ遠くで鳴った。
三線同時討伐――王都の地上、神樹の結界、そしてこの瘴気の城。その拍が、まだ辛うじて重なっている合図だ。黒い残滓は細り、流れは鈍る。エリスティアの編んだ結界線とミナの遅延術式が、わずかな“猶予”を噛ませている。
(ここで決める――)
回廊には、斬線の雨。
剣帝――ヴォルク・エクシスの右肩の黒紋が明滅し、結界が格子に割けていく。
「終いにしよう、勇者」
「ううん――始まりにする」
アマネは継星刀を下段へ。足裏で石を掴み、呼吸と心音と視線を一本に束ねる。怖れはある。だが、それも含めて“ひとつ”にする。
「星護結界」
薄く張った守りを、正面であえて折る。弾ける拍に“流星斬”の尾を重ね、断界の針先から速度を盗む。続けざまに“流星雨”――微粒の光が降り、連鎖に連鎖を掛けて“輪”の縫い目へ潜り込んだ。
(見えた)
金の弧。銀の弧。背で交わった二本の軌が、一瞬だけ“獅子”の横顔を描く。
ヴォルクの視線が、紙一枚ぶんだけ沈む。
「その影――呼ぶ気だね」
「ええ。――ここ」
刃先を跳ね上げ、胸腔の太陽に指を伸ばす。ソル・イグニスの熱が背を押し、オムニアのささやきが筋肉の一本一本に道を示す。そのさらに奥、遠いところで、やわらかな“月”が確かに息づいた。
(リュシア、届いてる)
「黎明翔光――」
踏み込む。彼女の影が伸び、回廊の闇と重なる。
「双獅終唱!」
獅子が顕れた。ひとつは金、ひとつは銀。金は燃え、銀は静かに凍る。咆哮はない。ただ“圧”が世界を満たす。金は断界の連鎖を喰い破り、銀は王手の芯を“噛み止める”。
ヴォルクの突きが、はじめて揺れた。
「……美しい」
「終わりだよ、剣帝」
アマネは獅子のたてがみの流れに身を沿わせ、星閃一刀で“結び目”を断つ。金と銀が交差し、黒紋の明滅が一拍だけ止まった。
弾ける白。
細い静寂。
ヴォルク・エクシスの影が、紙片のように薄く裂け、黒の粒となって天へ逃げようとする。
「――行かせない」
アマネが掌を開いた。星護結界の“裏側”を反転させ、黒糸の流れに継ぎ目を作る。遠くで、神樹の姫が張った線と、ミナの遅延術式が共鳴した。黒は痩せ、速度を失う。
(あと少し、稼いだ。――任せたよ)
彼女は刀を納めず、静かに息を吐く。
◇
上下のない空に、円環の書架。
術帝――サレ・アナテマの黒書が開閉するたび、世界は白と黒を裏返す。禁域葬送。
リュシアは継杖を立て、光律聖陣を二重、三重に敷いた。片方は癒やし、片方は反転の“揺れ”だけを捕まえる。さらにもう一層――“刻み”の糸を薄く通す。
「あなたは多い。だから、奪うのが楽だ」
サレは穏やかに告げる。頁がまた一枚、音もなく増えた。
「多いから、重ねられるの」
リュシアは微笑む。炎と氷、風と雷、水と土――同時ではなく、半拍ずつずらして重ねる。互いを殺さない配置で、静けさだけを増幅する。
「――黎明翔光」
「遅い」
「いいえ、間に合うわ」
月が満ちた。胸奥でルナ・セレーネが澄み、すぐそばでエレメンタリアが息づく。彼女は杖先で空をなぞり、白い“竜の胚”をいくつも生ませる。
「双竜終唱」
金と銀の竜が、螺旋で昇る。三巻き目で役目を入れ替え、金が冷を、銀が熱を帯びる。“反転”を“反転”で縫い止める楔。
サレの黒書が音を立てた。頁の背がきしみ、装丁が割れる。周囲の禁域が一瞬、呼吸を忘れる。
「終楽章は――」
「もう、書き換えた」
双竜は輪となり、光の槍へ。リュシアは躊躇なく投じる。槍は禁域の核を穿ち、黒書を縫い付けた。
沈黙。続いて、崩落。
術帝の影がほどけ、残滓が空へ浮く。だが、その流れはすぐに鈍った。遠くの結界線が、風の向きを変える。黒はやせ細り、細い糸へと落ちていく。
(ありがとう。――アマネ、そっちも)
彼女は小さく首肯き、杖を握り直した。
◇
回廊に戻れば、斬線は止み、空気は澄んでいた。ヴォルクの気配は薄く、ただ黒い粒だけが天井のない天へちらついている。アマネは肩で息をしながら、その行方を見上げた。
「間に合ったね」
囁けば、遠いところから笑みが返ってくる気がした。
彼女は掌を胸に当てる。
(アルト。――帰るから)
◇
同時刻、禁域の跡で。
リュシアは破れた頁の雪の中に立ち尽くしていた。宵衣の糸が微かに震え、彼女の体温を守る。杖を支えに一呼吸、ふと目を閉じる。
(カイル。――無事でいて)
風が頬を撫でた。返事のように、優しい温もりが胸に広がる。
◇
黒い残滓は、結界と遅延に絡め取られている――とはいえ、ゼロではない。かろうじて抜けた微量が、黒い線となって遠い空へと消えていく。
その先は、ただ一つ。
ルナリア城、玉座下の“魔王領域”。
そこに座すアトラ・ザルクが、わずかに首を傾げた。重力のような瘴気が、ほんの少しだけ深まる。
「……ヴォルク・エクシス、サレ・アナテマ」
声はない。ただ、脈動が応じた。静かな愉悦か、飢えか。
◇
回廊の天へ、アマネは刃を掲げた。
「終わったよ」
同じ言葉が、書架の空でも囁かれた。
「ええ。――行きましょう」
互いの姿は見えない。だが、拍は揃っている。二人は同じ方角へと、軽く身を返した。
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