双竜、頁を焚く
瘴気の城の奥底に、遠い鐘のような響きが三度、小さく連なった。
――同時。
城下の三線で仕掛けられた“刻合わせ”が、寸分違わず決まったのだ。
黒い残滓は、吸い上げられる直前で“遅れ”、細く痙攣してほどけてゆく。神樹の姫が編んだ結界線、ミナの遅延術、アルトの戦域のふち――幾重もの手で“黒糸”は裂かれ、魔王への流入は今だけは細い。
(――今が、最大の好機)
アマネは息を詰め、足を半歩だけ送った。目の前、剣帝ヴォルク・エクシスの黒紋が、無機質に点滅している。
「終いに――」
「――しないよ」
言葉が重なる。刃はまだ交わらない。二人の間にあるのは、わずかな拍の揺れだけだ。
(リュシア)
見えないところにある、もうひとつの決戦へ意識を投げる。返るのは、きっぱりと澄んだ気配。
――任せて。そっちを終わらせる。
◇
黒い書架が、空間の縁から縁へと円環を描いていた。頁は風もないのにめくれ、白と黒とが幾度も裏返る。
術帝サレ・アナテマは、黒書を片手に微笑している。
「終楽章を知らない楽士の、なんと勇ましいこと」
「――じゃあ、教えてあげる。貴方の楽譜にない音で」
リュシアは継杖を立て、すう、と吐息を整える。衣に編み込まれた“宵衣”の糸が微かに震え、胸の奥の月が満ちていく。足元に敷いた光律聖陣は二重、三重に薄く重ね、触れれば散るほど繊細な“楔”を浮かべた。
――反転の拍は、一つじゃない。
――頁が返る、半拍前と四分の一拍前、そのさらに“迷い”の瞬間。
「星炎氷閃」
呼吸とともに、炎と氷の光条が水平に走る。真向からぶつけず、半拍ずらして重ねる。二つは殺し合わず、干渉の“静けさ”だけを残した。そこへ杖先で“刻み”を落とす。
ぱしん、と乾いた音が、禁域の表皮に皹を入れた。
サレの微笑は崩れない。だが、黒書の頁が一枚、鈍く鳴る。
「……正面から来ない、と言ったね。ならばこちらも」
指が二度、弾かれた。白が黒に、黑が白に。反転の位相がずらされ、リュシアの“楔”を避けてくる。
(読まれている――けど、追いつける)
彼女は視線を落とした。最初に習った祈りの形、アマネと並んで研いだ“合わせ”の感覚。
――遠く離れていても、拍は合わせられる。
(太陽の気配、今は届かない。それでも“道”は重ねられる)
「光律聖陣、第三層」
足元の幾何が深く沈み、胸郭の奥にあった“音”が輪郭を持った。杖が軽くなる。身体の振動が杖へ、杖の震えが空間へと伝播していく。
「――ルナ・セレーネ、見ていて。エレメンタリア、手を貸して」
月の精霊と、全属性の統合を象る精霊。二つの気配が、ひどく穏やかに揺れた。
サレの黒書がぱたりと閉じる。笑みの角度だけがわずかに変わった。
「では、君の“合奏”を聴こう」
◇
アマネは、ヴォルクの足首のわずかな角度の変化を見た。
(右)
黒紋が点滅し、断界の線が“檻”ではなく“弧”へと変わる。輪の内側で全てを削ぎ落とし、最後の一点を刺し貫く型――王手。
(来る)
刃を下段に沈め、呼吸をひとつ。
「星護結界」
薄く編んだ守りを、あえて正面に置く。破らせる。弾ける拍に、流星斬の尾を重ねる。細い尾がいくつも、王手の軌道へ噛みつき、速度をわずかに削ぐ。
「――甘い」
静謐な声とともに、ヴォルクの刃が“音”の芯を突いた。世界が縦に割られる。
(割らせない。私は“ひとつ”で切る)
アマネは体の隅々を一本の線に束ねていく。恐怖も、帰りたい気持ちも、愛おしさも――全部、刃の背に載せる。
「星閃一刀!」
弧が弧を縫い、裂け目の縁を“縛る”。金と銀のふたつの弧が、背へ薄く浮かび、獅子の横顔の影を作った。
ヴォルクの視線が、紙一枚ぶん沈む。
「見せてみろ。君の“終い”を」
(まだだよ。そっちは、彼女が先に行く)
アマネは、遠くの“拍”に耳を澄ました。
◇
サレの禁域が、渦のように濃くなった。
「禁域葬送」
黒書の頁が無数に開き、白と黒の雨が降る。属性は混ざり、回転は反転し、座標は溶ける。立っているだけで心の輪郭が剥がされていくような圧。
(ここで、切り替える)
リュシアは杖を軽く掲げた。
「――黎明翔光」
その名を口にすると、遠い太陽の記憶が、胸の奥でやわらかく灯る。二人で重ねたあの光――“ひとりでも、遠隔で届く”合唱。
「双竜終唱」
杖先から、金と銀の細い粒が舞い上がった。一粒ずつが小さな“音”。金はあたたかく、銀は澄んで冷たい。二つは瞬く間に数を増やし、尾を引いて空へ昇っていく。
(焦らない、焦らない)
炎と氷、風と雷、水と土――全属性の“旋律”を、半拍ずらして重ね合わせる。直接ぶつけない。干渉項だけを残し、静けさを膨らませる。
「……そこにあるのは、無音」
サレの声が低くなった。黒書の頁が戦慄く。
「音のない音で、譜面を焚くの」
一瞬、沈黙。
次の瞬間――
天井のない天が、裂けた。
金の竜と、銀の竜。
一本の月光から“胚”のように生まれ、金は右へ、銀は左へ。互いを包むように螺旋を描いて昇る。ひと巻き、ふた巻き――三巻き目で、ふいに二体は“入れ替わる”。金が冷を、銀が熱を纏い、反転の位相に“楔”を打ち込んだ。
「行きなさい」
リュシアが囁くと、双竜は頁の雨を“食む”ように駆けた。黒書の禁域は反転の位相で支えられている。その位相の継ぎ目――たった一瞬生まれる“無音”の谷間へ、竜の牙が沈む。
ぱきん、と硬い音。
見えない壁が、目に見えないまま“割れた”。
サレの笑みが薄れる。黒書の頁がばらばらに舞い、指が一瞬、中空を探った。
「……なるほど」
それは、ほんの少しの感嘆だった。
「終いです」
リュシアは杖を大きく振り下ろした。双竜が重なり、巨大なひとつの輪となる。輪は光の槍に変わり、禁域の核へ突き刺さった。
「黎明翔光――双竜終唱!」
黒書が爆ぜた。頁が灰になり、術帝の肩口を白い閃光が裂く。サレの体が半歩、沈む。
「まだ、終楽章が――」
「書き換えたわ」
彼女は静かに告げ、杖先で最後の“留めの刻み”を落とした。
光が引く。
残ったのは、崩れ落ちる黒い粒――吸収へ向かう“残滓”。
だが、今は遅い。エリスティアの結界線の端が、ここまで伸びている。残滓は結界に触れ、質量を落として“薄い影”になり、流れを鈍らせる。
(あと少しだけ、稼げる)
「……ありがとう、皆」
息を吐き、リュシアは目を閉じた。ほんの、ほんの一瞬だけ。
そして――彼女は顔を上げる。
(アマネ、次は、あなたの番)
◇
回廊。
ヴォルクの黒紋が明滅し、質量のない風が、質量のある刃のように頬を掠めた。
「終わりにしよう、勇者」
「うん。終わらせに、来た」
継星刀を、両手で握る。
背に薄く、金と銀の弧。
太陽の精霊ソル・イグニスが、熱を背骨へ縫い付ける。
森羅万象の精霊オムニアが、足裏へ道を示す。
――届いている。
遠いところから、月の拍が、確かに重なっている。
「黎明翔光――」
アマネは、刃を胸元の高さで止める。
「双獅――」
息が、ひとつ。
心が、ひとつ。
刃と体と願いが、ひとつ。
「――終唱!」
金の獅子と、銀の獅子。
片や咆哮で空間を押し、片や息吹で線の連鎖を“鈍らせる”。ふたつは互いの尾をくわえ、円環になって駆けた。断界の輪に、獅子の輪。円と円がぶつかり、重なり、ひとつがもうひとつを“食む”。
ヴォルクの刃が鳴る。
黒紋が、明滅を止めた。
「――良い」
剣帝の目に、初めて温度が宿る。
「それが、君の終いか」
「ううん。これは“始まり”」
アマネは踏み込む。
獅子が吠え、星が閃く。
二つの輪が重なる一点――王手の貫入点へ、継星刀が差し込まれた。
光が、回廊を満たす。
(アルト。みんな。――見てて)
――一閃。
*
薄まりながらも、黒い残滓が天井のない天へ昇ろうとする。
だが、その流れにはまだ鈍い“重り”が噛んでいた。
同時討伐で裂かれた経路、遅延と結界で“減衰”した吸収。
――今のうちに、決め切る。
光が消える頃、回廊には二つの影が向き合っていた。
片方は、刃を下げた少女。
もう片方は――
剣帝の影が、静かに揺らぐ。
(終いまで、あと半歩)
アマネは呼吸を整え、刃を握り直した。
その横顔に、迷いはない。
お読みいただきありがとうございます。いけるところまで連続投稿!(不定期ですが毎日目標)。
面白かったらブクマ&感想で応援いただけると嬉しいです。