神樹の芽
世界樹を護る深き森は、未だ戦火の余韻を拭えずにいた。枝葉の一部は焦げ、地に伏した守り人たちの傷口からは血の匂いが漂っている。夜風が吹き抜けるたびに、かつては清らかな歌声のように響いていた精霊の囁きが、かすれた呻きに変わって森全体を覆っていた。
長老格の守り人は、白銀に近い髪を編み、深い皺を刻んだ顔で静かに立ち上がった。彼の手には、青白く淡い光を放つ小さな結晶――まるで命の鼓動をそのまま閉じ込めたかのような「神樹の芽」が握られていた。それは世界樹からごく稀に分かたれる、未来を託すための欠片。森が滅びを覚悟する時、あるいは新たな契機を求める時にだけ現れるものだった。
「……この芽を、託す時が来たのだ」
長老の声は震えていたが、その瞳は迷いを知らなかった。傍らに控える若い守り人たちが顔を上げ、息を呑む。彼らの視線は結晶に吸い寄せられ、その神秘的な輝きに胸を熱くしていた。
「選ばれし者よ。フローラ女王のもとへ、そして……あの娘のもとへ。この芽を届けよ」
その言葉に、三人の若き守り人が膝をついた。弓を背負う少女、双剣を佩く青年、そして小柄だが鋭い眼差しを持つ魔術師の少年。彼らはそれぞれ胸に手を当て、無言で覚悟を示した。
◇
その瞬間、ソレイユの街外れで休息を取っていたアマネたちの頭に、澄んだ声が響いた。念話である。しかもエリスティアだけではなく、仲間全員に同時に伝わってきていた。
『世界樹の子らよ……聞こえるか』
全員が顔を見合わせる。アマネは瞬時に杖を構え、リュシアは炎の揺らめきを手のひらに灯した。エリスティアは強く眉を寄せ、その声を正面から受け止める。
『森は傷ついた。魔の手は我らの大樹に迫っている。だが、まだ終わりではない。
今こそ“神樹の芽”を託す時。これを女王と……お前たちのもとへ届ける。守り人たちが数名、そちらへ向かうだろう』
「……神樹の芽?」カイルが低く呟く。
「世界樹の欠片……伝承の中だけで語られてきたものです」ミナが息を呑みながら答える。「まさか本当に……」
仲間の間に緊張が走った。伝説が現実に姿を見せる時、それは常に世界の均衡が揺らぐ時でもある。
『気をつけよ。魔王軍はすでに世界樹を嗅ぎつけつつある。おそらく、芽を託す旅路にも影は迫ろう。……どうか護ってくれ。お前たちの未来を守るためにも』
声は次第に薄れ、やがて風の中に消えていった。
◇
残された静寂の中で、エリスティアが最初に口を開いた。矢筒を抱えたまま、真っ直ぐに仲間を見回す。
「……これは、私だけでは背負えない。皆で聞いたわね。森が助けを求めているの。神樹の芽を託されることは、女王様だけじゃなく……私たちにとっても、大きな意味を持つはず」
その声には、以前のような迷いはなかった。仲間に共有し、共に動く――その意志がはっきりと込められていた。
アマネが一歩前に出て、にっと笑った。「当然でしょ。精霊の根源を狙うなんて、放っておけるわけないもの。私たちで守ろう!」
アルトも頷き、剣に手を置いた。「ソレイユも、ルナリアも、亜人たちの未来も……すべては繋がっている。ここで退けば、世界が崩れるだろう。俺たちが支えるしかない」
リュシアはほんのり頬を赤らめながらも、静かに笑った。「女王様に頼られてばかりじゃなく、私たちが踏み出す時なのね。……不思議と、怖くはないわ」
その言葉に、ジークとミナも肩を並べる。ジークは大きな手を腰に当て、「村を守った時と同じだ。誰も泣かせねぇために、俺は剣を振るうだけだ」と言い、ミナは胸元の魔導器をぎゅっと握りしめ、「芽が未来を繋ぐなら……絶対に失わせない」と強く宣言した。
最後にエリスティアが深く息を吐いた。彼女の中で、かつて抱え込もうとした不安が、今は確かな仲間との絆に変わっている。窓の外、夜空に瞬く星々を見上げながら、彼女は心に誓った。
(――必ず護る。この芽を。大樹を。そして女王様と、仲間たちの未来を)
◇
一方その頃、森の奥。選ばれた三人の守り人は、長老から神樹の芽を受け取り、夜の帳を裂くように走り出していた。淡い光を宿す芽は、彼らの胸元で静かに脈打ち、行く先を照らしていた。
だがその道の先には、既に禍々しい影が忍び寄っていた。腐敗の匂いを漂わせる魔の眷属たち。四天王バロルの命を受けた黒き獣群が、森を這うように動き出していたのである。
「……急げ。我らの未来は、お前たちの肩に懸かっている」
長老の祈りが、夜空へと溶けていった。
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