勇者候補の影—アルトの葛藤
模擬演習から数日。
学園はいつもの規則正しい日々を取り戻しつつあったが、どこか浮ついた空気が残っていた。影狼討伐の話題は、まだ校内を駆け巡っている。
「アルト殿下、影狼の件、実に見事でしたな」
「さすが勇者候補。聖女リュシア様との並び、まさに“絵になる”」
廊下を歩けば、教師や上級生が笑顔で立ち止まり、口々に声をかけてくる。握手を求める者、肩に触れる者までいた。
どれも悪意はない。むしろ善意ばかりだ。
けれど、それらが重なれば、やわらかな網のように絡みついてくる。
「ありがとうございます」
アルトは笑みを崩さず礼を返した。
角度や頷きの深さ、視線を合わせる秒数。
王宮で仕込まれた“正しい応答”を守れば、場は穏やかに流れる。
だが――その穏やかさの底で、ざらりと何かが擦れた。
(最後に斬ったのは確かに僕だ。けど――)
ジークの踏ん張り、カイルの指示、ミナの仕掛け、リュシアの祈り。
そして、ヒナタの光がなければ、刃は届かなかった。
それでも、評価は“僕ひとり”。胸の内に違和感が積もっていく。
「アルト殿下、明日の特別講義でぜひご挨拶を。勇者の心得を、後輩たちへ」
教師の声が弾んだ。
「……心得、ですか」
「ええ。『困難に立ち向かう勇気』など、分かりやすければ十分。殿下が語れば、それが正解となりましょう」
正解。
その一言に、心臓がひときわ強く打った。
人はこんなにも容易く、誰かの言葉を“正解”に仕立ててしまうのか。
「承知しました」
笑顔を崩さず返事をしたが、胸のざらりは幅を広げるばかりだった。
講義棟を出ると、中庭の噴水で仲間たちが騒いでいた。
「殿下! 見て見て! 狼の脚の動きを再現中!」ミナが手を振る。
「やめろ、飼育舎の魔猪が暴れるぞ」カイルが嘆息。
「暴れたら俺が止める」ジークが豪快に胸を叩く。
くだらないやりとり。
けれど、その「特別扱いしない空気」が、アルトを救っていた。
「殿下、顔色が悪いぞ」ジークが覗き込む。
「……少し、考え事をしていた」
「考えすぎんな。勝ったんだ、飯食って寝ろ。悩むのはそのあとでいい」
粗い慰めが、胸の真ん中に届く。
カイルも静かに言葉を添えた。
「最後に斬ったのはあなたです。でも“皆のおかげ”と口にできるのもまた、事実です。――どちらかを捨てず、両方抱えればいい」
「……ありがとう」
仲間にそう言えることが、どれほど心を軽くするか。
その時、回廊の柱の陰に立つリュシアが目に入った。
いつもの整った微笑み。けれど、わずかに柔らかさが宿っていた。
「殿下。ご機嫌麗しゅう」
「……麗しくはないよ。少なくとも僕の胸の中は」
冗談めかすと、リュシアは小さく目を伏せた。
「もし君が、僕に何かを言うとしたら……今は?」
自分でも驚く問い。求めているのか、試しているのか。
リュシアは首を横に振った。
「今は、申し上げません」
短い返事。だが、そこに意志があった。
“人形”の応答ではない。
図書館での言葉――「自分のことを考えてみます」――その続きが、ここにあった。
「殿下が、殿下の言葉で選ぶべきことです。それを……邪魔したくありません」
胸の奥が痛く、同時に軽くなる。不思議な感覚に包まれた。
人気のない回廊。夕陽に染まる窓。
アルトは静かに口を開いた。
「……俺は」
その言葉に、自分で息を呑む。
王子としての「私」ではなく、等身の「俺」。
その響きがわずかに震え、リュシアの耳に届いたはずだ。
「俺は、本当に勇者なのか?」
茜色の雲が風に流れ、影が床を渡る。
リュシアは答えない。だが、沈黙の中に「待つ」という意志が確かにあった。
アルトは目を閉じ、息を吐く。
違和感は消えない。けれど輪郭ははっきりした。
(――この違和感は、捨ててはいけない)
夕鐘が鳴る。影が長く伸び、二人の影が一度重なり、また離れた。
その夜。
王宮の旗を掲げた馬車が、学園の門をくぐる。
まだ誰も気づかない。
その車輪の音が、新たな波紋を広げていくことに――。
小さな違和感を抱えたまま進む回でした。更新は不定期・毎日目標。ブクマ&感想お願いします。




