聖女と学者—揺れる頁
学園の図書棟は、昼間でもひんやりと薄暗い。
高い窓から差し込む光が、埃を帯びて細い筋を作っていた。紙とインクの匂いが重なり合い、ここだけ時間がゆっくりと流れているようだ。
机の上に分厚い書物を並べ、カイルが眼鏡を押し上げる。
リュシアはその隣に座り、静かに頁を覗き込んだ。
「……これが、“聖女史”ですか」
淡々とした声。けれどわずかに、響きが硬い。
「ええ。王国の記録に残る聖女たちの系譜です」
カイルは指先で文字をなぞる。「ですが――どの記録も“勇者を導く伴侶”という役割に終始している。個人としての思想や行動は、ほとんど省かれています」
リュシアの長い睫毛が一度だけ揺れた。
「……伴侶。それが、聖女の本質、ということですね」
「制度上は、そうでしょう」
カイルの答えは冷静だった。声色に温度を込めず、ただ事実だけを差し出す。
数行先を読み進めたところで、リュシアが小さく呟いた。
「私は……聖女である前に、一人の人間なのでしょうか」
カイルの手が止まる。ペン先が紙を擦り、かすかな音を立てた。
「……どういう意味ですか」
「いつも“聖女”と呼ばれ、勇者の伴侶として育てられてきました。けれど……自分が何を望んでいるのか、考えたことがなくて」
言葉は淡々としている。それでも、その奥には触れれば砕けそうな脆さが潜んでいた。
カイルは短く息を整えると、眼鏡を外し、机に置いた。
「――制度や役割は外から与えられます。ですが、“心”は与えられません。自分で決めなければ、空白のままです」
「……空白」
リュシアの瞳が、ほんのわずかに揺れた。
沈黙が落ちる。
やがてリュシアは、どこか確かめるように問いを重ねた。
「……私は、選んでもいいのでしょうか」
「選ぶべきです」
カイルは迷わず答える。その声音は相変わらず冷静だったが、わずかに芯が強かった。
「聖女としての役割以前に、一人の人として。望むものも、恐れるものも。決めるのは他者ではなく、あなた自身です」
リュシアは瞬きをした。
その頬に浮かんだ色は淡く、本人すら気づいていないかもしれない。
だが確かに――人形の仮面に、髪の毛一本ほどの“揺らぎ”が走った。
図書棟を出ると、夕陽が赤く校舎を染めていた。
長い廊下を二人並んで歩く。
リュシアは窓の外を見つめたまま、囁くように言った。
「……少し、考えてみます。自分のことを」
「それが最も理にかなっています」
カイルは淡々と頷いた。
一瞬、彼女の横顔が柔らかさを帯びたように見えたが――カイルはそれを“光の加減”としか思わなかった。
彼女の心に芽生えた小さな変化を、まだ誰も知らない。
けれど確かに、“芽”は植えられたのだった。
リュシアの内面に小さな変化。不定期・毎日目標で更新します。




