月隠れの湯煙・前篇
月隠れの洞窟。その奥に進むと、鍛冶場の熱気とは別のぬくもりが漂っていた。岩肌を削って造られた大きな湯船、天井から滴る水が湯面に落ち、静かな波紋を描いている。炉の排熱を利用した温泉は、湧き水と混じり合い、ほどよい温度に整えられていた。壁には光苔が淡く輝き、湯気の中に幻想的な光を散らしている。
「どうだ、悪くないだろう?」ブリューナが胸を張る。「鍛冶の炉と水脈を組み合わせて造った、私の自慢の風呂さ」
「すごい……」リュシアが感嘆の声を上げ、湯面を覗き込む。白い蒸気が頬を赤らめ、彼女の表情をやわらかにしていた。
「精霊は清らかな水を好みます」ファエリアが香草の束を取り出し、湯に浮かべた。ほのかに甘い香りが立ち上り、湯気に混じって広がっていく。「この香りには清めと癒やしの効力があります。旅の疲れを和らげてくれるでしょう」
エリスティアが一歩進み、湯面を見つめた。「フローラ様にも、この湯を勧めたい。湯治をなされば、きっと心身が整うはず……」その声音には従者としての真心がにじんでいた。
アマネは髪を解きながら、少し照れくさそうに笑った。「なんか、お父さんだったら『風呂でも気を抜くな』とか言いそうだなぁ」
リュシアがくすくすと笑う。「アマネのお父さんらしいわ」
「ほんとだよ。せっかくのお風呂くらい、ゆっくりさせてくれてもいいのに!」アマネが頬を膨らませると、ブリューナが豪快に笑った。
「ははっ! だが、風呂も鍛冶場と同じさ。熱して、冷まして、また熱して……その繰り返しで鉄も人も強くなるんだ」
「なるほど……」アマネは首を傾げつつも、どこか納得した表情を見せる。
「その言葉、ちょっと勇者様らしく聞こえますね」エリスティアが微笑みを浮かべた。
◇
湯に浸かった瞬間、全身の疲労がほぐれていく。アマネは思わず長い息を吐いた。「ふぅ……生き返る……」
「旅の緊張が解けていくわね」リュシアも目を細め、湯面に浮かぶ香草の葉をすくい上げた。「月の光を映したみたいにきれい」
ミナは肩まで浸かりながら、ブリューナを見上げる。「ねえ……私、本当に弟子入りしてもいいの?」
ブリューナは顎に手を当て、にやりと笑った。「お前さんの目を見りゃ分かるさ。本気だろう? だが、炉の熱に耐えられる根性があるかどうかは、これからだ」
ファエリアも横で頷く。「理を紡ぐ光を見せたあなたなら、道を歩む資格はあります。ただ、知識を形にするには時間が必要。それでもよければ」
「はい!」ミナは力強く頷いた。頬を赤らめているのは湯気のせいだけではなかった。
◇
やがて、湯気の中で自然と会話が弾んだ。アマネが「庵での訓練ってきつかったよね」と笑えば、リュシアが「でも、そのおかげでここまで来られた」と返す。エリスティアは控えめに微笑みながら、王妃に仕える覚悟を口にし、ミナは新たな学びへの決意を語った。
ファエリアは湯に浮かぶ花びらを指で撫でながら呟いた。「人も精霊も、こうして心を開いた時にもっとも強く結び合うのです。清らかな水は、その手助けをしてくれる」
アマネは頷き、仲間たちの顔を見渡した。ここにいる全員が、それぞれの光を見出し、これからの道を歩む準備をしている。父からは教えてもらえなかった答えが、今はこうして仲間との会話の中にあるのだと感じた。
「……いいね、こういうの」アマネが笑みを浮かべる。「難しいこと考えるより、こうやって一緒にいられるのが、一番大事なのかも」
その言葉に、湯気の中で誰もが静かに頷いた。岩風呂の湯は温かく、外の夜風さえ心地よく感じられた。仲間たちの絆は、炎と水のように異なる力が交わり、確かに強くなり始めていた。
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