幕間:魔王、降誕
夜を裂くように瘴気が溢れ出していた。かつて封印の地と呼ばれた場所は、いまや黒き脈動に覆われ、あらゆる生命の気配を押し潰している。冷たい風が吹き抜けるたび、枯れた木々が悲鳴のような音を立てた。
「……あ、あれは……」
ルナリア王セドリックは震える足をどうにか支えようとした。だが、王冠は泥に落ち、衣は裂け、かつての威厳は影も形もない。玉座ではなく泥濘に膝をつきながら、彼は目の前に立ち上がる影を見た。
それは巨人のようにそびえ立ち、甲殻に似た漆黒の装甲を身にまとっていた。月光を拒むようにその身から瘴気が滴り落ち、地面を黒く染めていく。闇の核より生まれし存在――魔王、アトラ・ザルク。
その眼窩に光はなく、ただ底なしの闇が渦を巻いていた。言葉はなく、ただ存在するだけで魂を削るような恐怖をもたらす。セドリックは喉の奥で叫びを押し殺し、後ずさった。
「……わ、私は……そのために……」
彼は必死に言葉を紡いだ。永遠を求め、権力にしがみつき、宰相や教皇の甘言に縋ってきた。しかし、いまやその誰もが傍らにいない。残されたのは己一人。追い求めた夢が、いかなる結末に辿り着くのかを知る時が訪れた。
魔王の手に握られた長剣が微かに震え、瘴気の波が大気を切り裂いた。その黒き脈動がセドリックの胸を貫く。
「――ひっ!」
絶叫。次の瞬間、彼の肉体は引き裂かれることなく、血肉も骨も王冠すらも瘴気に絡め取られて吸い込まれていく。焼かれるような痛みとともに、存在そのものが削ぎ落とされていく感覚に抗う術はなかった。
「や、やめ……! 誰か……!」
断末魔の叫びすら瘴気に呑まれ、虚ろな瞳だけを残して消え失せた。セドリック王の意志は掻き消え、魂は永遠に囚われ、存在そのものがこの世から跡形もなく消失したのだ。
◇
重苦しい沈黙を破って、四つの影が進み出る。大地を揺るがす巨躯――バロル・グラウス。紅蓮の狂気を纏うザガン・ルシフェル。氷の支配者モラクス・ディアス。そして幻惑の策士ネビロス・ヴェイル。
彼らは一様に膝を折り、魔王の前に忠誠を示した。圧倒的な存在感に抗う術はなく、ただ頭を垂れるのみであった。
「……ついに」ネビロスが口の端を歪める。「この時が来たのですね」
魔王は言葉を発さなかった。ただ長剣が低く脈動を響かせる。それだけで大地は軋み、森は枯れ、遠方の空が裂ける。
「世界を――」モラクスが冷たい息を吐いた。「我らが主が馴染まれれば、人間どもなど容易く支配できる」
「ハッ!」バロルは吠えるように笑った。「まずは城塞を踏み潰す。人間どもが震えあがる様を楽しみにしていよう!」
ザガンの紅い瞳が狂気に揺らめいた。「焼き尽くす……すべてを……!」
ネビロスは笑みを深める。「人間界はすでに終わりだ。我らが主が完全にこの身を馴染ませれば、抵抗は無意味となりましょう」
しかし魔王は依然として無言であった。その歩みはなお重く、揺らぎを残していた。復活を果たしたとはいえ、まだ完全ではない。肉体に瘴気が馴染むには時間が必要だった。
それでも、一歩を踏み出すたびに世界は震えた。夜空を覆う瘴気の雲が渦を巻き、東の大地へと流れていく。その動きに目的はない。ただ存在するだけで、自然は崩れ、秩序が歪むのだ。
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