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依代の兆し

街の広場は、今日も難民たちで溢れていた。

瓦礫のような荷物を抱え、疲れ切った顔で列に並ぶ者。

子どもの手を握り、必死に前を向こうとする母親。

人も獣人も竜人も、肩を寄せ合いながら居場所を求めていた。

「次、名を告げてください」

帳簿を持ったカイルが、一人ひとりの名と出身を記録していく。

声は静かだが、揺るぎない調子で。

彼の隣にはリュシアが立ち、祈りのように視線を配っていた。

疲弊した人々に向けられるその微笑みは、ただの聖女ではなく――

一人の女性として寄り添おうとする温もりを帯びていた。

「……うっ……あああああ!」

突然、列の中の亜人の青年が頭を抱え、地面に膝をついた。

獣人の耳が痙攣し、瞳は濁り、口から黒い息が漏れる。

周囲がざわめき、恐怖が伝播していく。

「やめろ!」「もう依代に取り憑かれてる!」

「追い出せ、手遅れになる前に!」

怯えた叫びが次々と上がり、場の空気が一瞬で敵意に変わった。

カイルはすぐに青年の前に立ちふさがった。

「待て! 彼はまだ完全に飲まれてはいない!」

だが押し寄せる群衆の声は強い。

「見ろよ! あの目……もう人じゃない!」

「ここで止めなきゃ街が危ない!」

誰もが恐怖に突き動かされていた。

リュシアが一歩踏み出した。

彼女の杖が淡く光り、揺れる影を払うように広場を照らす。

「……聞こえていますか?」

地に伏した青年の傍に膝をつき、声を落とした。

その響きは聖女としての威厳を宿しながらも、母が子に語りかけるような柔らかさを帯びていた。

「あなたの心は、まだここにある。

恐れなくていい。帰る場所が――ここにあるのです」

青年の濁った瞳が一瞬だけ揺らいだ。

カイルは横で素早く言葉を重ねる。

「悪魔は心の隙を突くだけだ。罪ではない。

お前が弱いからでもない。ただ、疲れて迷っただけだ。

ならば――取り戻せる!」

黒い糸のような影が青年の身体を締め上げる。

呻き声と共に腕が暴れ、周囲の者が思わず後ずさった。

リュシアはその手を恐れず掴んだ。

白い光が彼女の掌から流れ込み、黒の糸を裂いていく。

「信じて。あなたは独りではない」

青年の喉から獣のような唸り声が漏れた。

だが、その奥にかすかな震えがあった。

「……た、助けて……俺は……!」

カイルが低く言い切る。

「そうだ、その声だ。

その意志がある限り、魔はお前を奪えない!」

一瞬、広場全体が静まり返った。

黒い靄がふっと消え、青年の瞳から濁りが抜けていく。

汗に濡れた顔が苦しげに伏せられ、震える息が吐き出された。

「……俺は……俺で……いいのか……?」

リュシアは微笑んで頷いた。

「もちろん。私たちが、そう証明します」

青年は嗚咽を漏らし、涙を流した。

周囲の難民が戸惑いの表情を見せる。

「……救えたのか……?」

「本当に、戻ったのか……?」

カイルは全員を見渡し、声を張った。

「悪魔に触れたからといって、すべてが終わるわけではない!

恐れに負ければ、誰もが依代になる。

だが――支え合えば、取り戻せる!」

静寂のあと、どこからともなく拍手が起こった。

やがて安堵の波が広がり、人々は青年を抱き起こした。

だが、カイルの眉はわずかに寄せられていた。

(……今回のように一人ならば救える。

だが、数十、数百と押し寄せてきたら……?)

隣でリュシアもまた、胸に手を当てていた。

「救う力はある。けれど……選ばなければならない時が来るかもしれない」

二人は目を合わせ、言葉なくうなずき合った。

その瞳には、救いへの確信と同時に、迫る試練への覚悟が宿っていた。


お読みいただきありがとうございます。いけるところまで連続投稿!(不定期ですが毎日目標)。

面白かったらブクマ&感想で応援いただけると嬉しいです。


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