依代の兆し
街の広場は、今日も難民たちで溢れていた。
瓦礫のような荷物を抱え、疲れ切った顔で列に並ぶ者。
子どもの手を握り、必死に前を向こうとする母親。
人も獣人も竜人も、肩を寄せ合いながら居場所を求めていた。
「次、名を告げてください」
帳簿を持ったカイルが、一人ひとりの名と出身を記録していく。
声は静かだが、揺るぎない調子で。
彼の隣にはリュシアが立ち、祈りのように視線を配っていた。
疲弊した人々に向けられるその微笑みは、ただの聖女ではなく――
一人の女性として寄り添おうとする温もりを帯びていた。
◇
「……うっ……あああああ!」
突然、列の中の亜人の青年が頭を抱え、地面に膝をついた。
獣人の耳が痙攣し、瞳は濁り、口から黒い息が漏れる。
周囲がざわめき、恐怖が伝播していく。
「やめろ!」「もう依代に取り憑かれてる!」
「追い出せ、手遅れになる前に!」
怯えた叫びが次々と上がり、場の空気が一瞬で敵意に変わった。
カイルはすぐに青年の前に立ちふさがった。
「待て! 彼はまだ完全に飲まれてはいない!」
だが押し寄せる群衆の声は強い。
「見ろよ! あの目……もう人じゃない!」
「ここで止めなきゃ街が危ない!」
誰もが恐怖に突き動かされていた。
◇
リュシアが一歩踏み出した。
彼女の杖が淡く光り、揺れる影を払うように広場を照らす。
「……聞こえていますか?」
地に伏した青年の傍に膝をつき、声を落とした。
その響きは聖女としての威厳を宿しながらも、母が子に語りかけるような柔らかさを帯びていた。
「あなたの心は、まだここにある。
恐れなくていい。帰る場所が――ここにあるのです」
青年の濁った瞳が一瞬だけ揺らいだ。
カイルは横で素早く言葉を重ねる。
「悪魔は心の隙を突くだけだ。罪ではない。
お前が弱いからでもない。ただ、疲れて迷っただけだ。
ならば――取り戻せる!」
◇
黒い糸のような影が青年の身体を締め上げる。
呻き声と共に腕が暴れ、周囲の者が思わず後ずさった。
リュシアはその手を恐れず掴んだ。
白い光が彼女の掌から流れ込み、黒の糸を裂いていく。
「信じて。あなたは独りではない」
青年の喉から獣のような唸り声が漏れた。
だが、その奥にかすかな震えがあった。
「……た、助けて……俺は……!」
カイルが低く言い切る。
「そうだ、その声だ。
その意志がある限り、魔はお前を奪えない!」
◇
一瞬、広場全体が静まり返った。
黒い靄がふっと消え、青年の瞳から濁りが抜けていく。
汗に濡れた顔が苦しげに伏せられ、震える息が吐き出された。
「……俺は……俺で……いいのか……?」
リュシアは微笑んで頷いた。
「もちろん。私たちが、そう証明します」
青年は嗚咽を漏らし、涙を流した。
周囲の難民が戸惑いの表情を見せる。
「……救えたのか……?」
「本当に、戻ったのか……?」
カイルは全員を見渡し、声を張った。
「悪魔に触れたからといって、すべてが終わるわけではない!
恐れに負ければ、誰もが依代になる。
だが――支え合えば、取り戻せる!」
◇
静寂のあと、どこからともなく拍手が起こった。
やがて安堵の波が広がり、人々は青年を抱き起こした。
だが、カイルの眉はわずかに寄せられていた。
(……今回のように一人ならば救える。
だが、数十、数百と押し寄せてきたら……?)
隣でリュシアもまた、胸に手を当てていた。
「救う力はある。けれど……選ばなければならない時が来るかもしれない」
二人は目を合わせ、言葉なくうなずき合った。
その瞳には、救いへの確信と同時に、迫る試練への覚悟が宿っていた。
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