二人だけの灯
共生街の夜は、まだ落ち着かない。
仮設の住居や焚き火の周りでは、人々が行き交い、眠れぬ子どもの泣き声や、疲れを隠せない大人たちのため息が絶え間なく漏れていた。
昼間に広場で「譲り合い」を訴えたカイルは、ようやくその騒ぎが収まったのを見届けて、ふらりと人目の少ない路地へと歩き出していた。
夜風はまだ冷たく、祭服の裾を揺らす。篝火の光が遠のき、暗がりに沈むほど、胸の奥でざわめく不安の声は強くなった。
(……本当に、これでよかったんだろうか)
人々は拍手してくれた。若い神官の言葉に感心してくれた。
それでも――胸の奥には、足りないという感覚が残っていた。
(僕はただ、正しそうなことを口にしただけだ。もし、次に争いが起きたら? もし、譲り合いが形にならなければ?)
肩が重くなる。人々の希望を預かったはずなのに、その重さに押し潰されそうだった。
足を止めた先は、小さな広場の片隅。火がひとつだけ灯っている。
その明かりの前に、すでに誰かが座っていた。
「……リュシア」
振り返った彼女は、聖女として人々に向けるものとは違う笑みを浮かべた。
柔らかく、どこか安堵を滲ませた微笑み。
「来ると思ってた。あなた、今日はずっと気を張ってたでしょう?」
◇
カイルは隣に腰を下ろす。
焚き火の火が二人の影を揺らす。人々の喧噪は遠ざかり、ここだけが別世界のように静かだった。
「皆の前じゃ、強い顔をしてたけど……」
リュシアが小声で囁く。
「今は、弱くてもいいんだよ」
その言葉に、胸の奥の壁が一気に崩れそうになった。
「……怖かったんだ」
カイルは炎を見つめながら、吐き出すように言った。
「人々の前に立って、声を張った瞬間、膝が震えてた。皆が僕を見てくれてるのが、嬉しいよりも怖かった。……失望させたくないって、そればかり考えてた」
「……」
「僕なんかに、導く力があるのかって。……本当は自信なんて、ほとんどなかったんだ」
自分の声が、夜に吸い込まれる。
それでもリュシアの隣だから言えた。誰よりも強く見える彼女の前で、自分の弱さをさらけ出すことができた。
◇
「カイル」
リュシアが小さく名を呼ぶ。
炎に照らされるその横顔は、聖女としての厳粛さではなく、ひとりの女性の優しさで彩られていた。
「私も、怖かったんだよ」
「……え?」
「聖女って呼ばれて、祈りを捧げて、みんなの前では笑顔でいる。
でも、本当は聖女のリュシアじゃなくて、ただの私を見てほしいって、ずっと思ってた」
火の粉が小さく弾ける。
リュシアは視線を落とし、膝の上で手を組んだ。
「役割に縛られてるのは、私も同じ。……だからこそ、あなたが『譲り合おう』って言った時、心が震えた。
ああ、この人は、立場や役割を越えて、一人ひとりを見てくれてるんだって」
「リュシア……」
「私も、あなたを支えたい。聖女だからじゃなくて、ただのリュシアとして。
あなたが一人で震えてるなら、私も隣で震える。あなたが声を張るなら、私も一緒に声を張る。……そうやって歩いていきたい」
◇
胸の奥に溜まっていたものが、すっと軽くなる。
カイルは彼女を見た。
聖女としてではなく、同じ未来を見つめる恋人としてのリュシアを。
「ありがとう。……やっとわかったよ」
「なにが?」
「僕は、一人で導かなきゃって思い込んでた。でも違う。
僕たちは、一緒に支え合うために出会ったんだ」
焚き火の明かりが揺れる。
カイルはそっとリュシアの手に触れる。彼女もためらわず握り返した。
指先から伝わる温もりは、言葉以上の誓いだった。
◇
夜は更けていく。
人々の不安はまだ消えない。明日も、きっと新しい問題が起きるだろう。
けれどこの片隅では、二人の灯が確かにともっていた。
聖女と神官ではなく、リュシアとカイルという二人の若者として。
その光は小さくても、闇を裂くように温かかった。
お読みいただきありがとうございます。いけるところまで連続投稿!(不定期ですが毎日目標)。
面白かったらブクマ&感想で応援いただけると嬉しいです。




