宰相ヴァレンティスの策謀
ルナリア王城の最奥、宰相執務室。
分厚いカーテンが重苦しく垂れ下がり、夜でもないのに昼の光を遮っている。燭台に揺れる炎が、壁にかけられた地図や無数の報告書を淡く照らし出していた。
机に向かうヴァレンティス宰相は、長い指で羊皮紙をめくるたび、口元に冷ややかな笑みを浮かべた。
「……また、ひとつ村が混乱に陥ったか」
報告書に記されたのは、辺境の亜人集落で突如として発生した暴走事件。
村人の一人が依代の実験体とされ、制御を失って異形と化したのだ。
結果として村は荒れ、近隣に逃げ出す者も現れた。
宰相は羽ペンを取り、滑らかな字で赤字を引いた。
《被害規模:小 → 拡大の余地あり》
その横顔に、同席していた男が口を開いた。
「失敗と呼ぶには些末にすぎましょう。恐怖の種は、こうして少しずつ大地に蒔かれていく。いずれ芽吹き、民は“救済”を求めざるを得なくなる」
低く響く声。黒衣を纏った教皇の使者、司教セラフィーノである。
老獪な微笑を浮かべるその姿は、宰相と並んで闇を見つめるにふさわしかった。
「救済か……」
ヴァレンティスはわずかに口角を上げ、椅子にもたれた。
「勇者や聖女とやらは、表向きは人々を導く光とされているが、所詮は一組の若造に過ぎん。あれらが各地を駆け回れるわけでもあるまい」
「ギルドなるものも、いずれ我らの計画を妨げようとするでしょうが……」
セラフィーノが一瞬視線を落とす。
「潰すは容易い」
宰相はすぐに切り捨てた。
「まだ制度と呼ぶにも程遠い。王宮と教会に睨まれれば、形ばかりの集団など砂の城よ」
静まり返った室内に、羽ペンの擦れる音だけが響く。
やがて、宰相の手が止まり、窓の外へと目が向けられた。
カーテンの隙間からわずかに覗くのは、王城を背にそびえ立つ巨大な影。
――世界樹。
ルナリアの中心、すべての生命を見守るように根を張る聖域。
その姿を見た途端、ヴァレンティスの瞳に宿る光が冷徹さを増した。
「だが、あれを手に入れぬ限り、我らの勝利は半ばにすぎぬ」
小さく洩らした言葉に、セラフィーノがわずかに眉をひそめる。
「世界樹は民の信仰そのもの。下手に手を伸ばせば、反発は必至……」
「だからこそだ」
宰相は机に指をトントンと打ちつけ、声を低める。
「小さな混乱を積み重ねればいい。村が荒れ、街が疲弊し、民が絶望に沈む。そのとき“救済”を示せば、王であろうと縋りつかざるを得まい」
彼は冷笑を浮かべ、報告書の山を見下ろした。
そこに記される一つ一つの悲劇は、彼にとって盤上の駒でしかなかった。
「世界樹は最後の切り札……民の信仰を逆手に取って支配するための。今は時を待つ。勇者どもがいくら動こうと、疲弊するのはあちらだ」
その声音には、揺るぎない自信と冷徹な計算が滲んでいた。
燭台の炎が揺れるたび、宰相の影は壁に伸び、まるで世界樹を掴もうとするかのように広がっていく。
「ヴァレンティス殿……やはりあなたは、この国を変える御方だ」
セラフィーノが恍惚としたように言葉を漏らす。
「変える、か」
宰相はわずかに目を細めた。
「愚かな王も、従順な民も、そして勇者さえも……すべては“新たな秩序”を築く礎にすぎん」
机上の地図に置かれた彼の手は、じわじわと国境を越え、隣国ソレイユへと伸びていった。
その先に描かれた印――勇者の存在を示す紋章を、指先で押し潰すように押さえ込む。
冷酷な笑みを浮かべたまま、ヴァレンティスは心の内で確信する。
――すべての道は、やがて世界樹へと通じる。
第46話:揺らぐ王国の影
ルナリア王国の王城は、冬を迎えた冷気を遮る石壁の奥で、かえって重苦しい熱を帯びていた。各地から舞い込む報告は、決して看過できないものばかりだ。
人々が突如として姿を変え、理性を失い、凶暴な魔物へと変貌する――「依代化」。その事例が王国全土で急増していた。
「また北方の村で……」「西の交易路も封鎖されたと……」
報告を読み上げる文官の声が震えるたび、広間の空気は重く沈んでいく。しかし玉座に座るセドリック王は、苛立ちを隠そうともせずに吐き捨てた。
「たかが辺境の混乱だ! 大げさに騒ぎ立て、民心を乱すほうが余程の害ではないか!」
その声音に、場の誰もが口をつぐむ。誰もが、王の怒気と、覆い隠そうとする弱さに気づいていたが――正面から否を唱えられる者は限られていた。
沈黙を破ったのは、王妃フローラだった。
「陛下。――この印の散らばり方をご覧くださいませ」
「ふん?」
「点ではなく、環のように国土を囲うように広がっております。まるで……王都へと迫っているかのように」
フローラの声音には、かつて教師として生徒に諭したときと同じ熱があった。だがセドリックは苦々しげに目を逸らす。
「そなたまで戯言を。……民を惑わす言葉は慎め」
その一言に、広間にいた者たちは視線を伏せた。だがフローラは怯まない。彼女の隣に控えるエルフの女性、エリスティアもまた、毅然と前に進み出る。
「陛下、王妃様のお言葉は真実です」
「……ほう?」
「私と、わずかに残る同胞が王都近郊で異変を監視しておりますが……状況は明らかに拡大しています。散り散りになった仲間は多く、今はほんの少数で持ちこたえているのみ。かつての守りは、形ばかりになっております」
玉座の間に再びざわめきが走る。王都を守るとされてきた“世界樹の守り人”が、その力をほとんど失っているという事実。だがセドリックは顔を歪め、苦虫を噛み潰したように言葉を返した。
「黙れ……! それはお前たちの怠慢だ! 王都の安全を疑うなど、民を惑わす反逆に等しい!」
エリスティアは拳を握りしめ、しかし一歩も退かずに王を見据える。彼女の誇り高き瞳には、屈辱と悔しさ、そして強い覚悟が宿っていた。だが、その肩にそっと置かれた手があった。
「エリスティア。……あなた一人で背負うことはありません」
フローラの穏やかな声に、彼女の硬さがわずかに揺らぐ。王妃は王へ向き直り、凛とした声で告げた。
「陛下。散り散りになった守り人たちを、呼び戻しましょう。彼らを再び集め、皆で世界樹を守るのです」
「フローラ、そなたは……!」
「民はただ恐れるばかりではありません。希望があれば、立ち上がる勇気を持てるのです。王妃として、私はその姿を示したい」
広間に漂う沈黙の中、フローラの言葉は静かな火となって広がっていった。貴族たちは顔を見合わせ、口々に囁く。反発もある。しかし、その眼差しの多くが、フローラへと引き寄せられていた。
エリスティアは小さく息をつき、深く頭を垂れた。
「……王妃様。もし散り散りの同胞が戻るなら、私はその先頭に立ちましょう。誇りを取り戻すために」
その言葉にフローラは微笑みを返す。彼女の表情は柔らかく、けれど確固たる意志に満ちていた。
「ええ。必ず道を開きます。あなたの誇りを、一人きりにさせはしません」
そのやりとりを見つめながら、セドリックは唇を噛んだ。彼は理解していた――民はフローラに心を寄せつつあることを。だが、己の威厳を揺るがすその現実を、認めることはできなかった。
「……好きにせよ。ただし王都の安全を脅かすようであれば、私は断固として処断する」
絞り出すような王の声。その裏にある焦りと苛立ちは、王城に仕える者たちには痛いほど伝わっていた。
フローラは深く一礼し、エリスティアと視線を交わした。二人の間に、言葉にはならぬ強い絆が芽生えつつあった。
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