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学園への扉

朝の山は白くけぶり、川の水面に吐いた息が映る。

桶を抱えて庵に戻ると、戸口から香ばしい茶の匂いが漏れてきた。

私の居場所の匂いだ。

ルシアンさんは湯を扱い、アサヒさんは布を絞る。いつもと同じ穏やかな朝。

けれど今日は椅子を三つ用意しろとアサヒさんに言われた。常連は二人くらいしかいないのに。

戸が控えめに二度、叩かれる。

私が戸を引くと、冷えた空気の中に柔らかな香りが流れ込んだ。

「お久しぶりね、アマネ」

見慣れた気品ある女性――セレスさん。アサヒさんの友人で、何度か庵に顔を出している。

お菓子をくれたり、大きくなったと笑ったりしてくれる人だ。

「あっ、セレスさん! この前のお菓子、美味しかったです!」

「ふふ。良かったわ。……あら、本当にまた背が伸びたわね」

頭をそっと撫でられて、思わず頬が熱くなる。

何度も来ているのに、庵が一気に華やぐのはどうしてだろう。

ルシアンさんが静かに湯を注ぎ、器を差し出す。セレスさんは微笑み、茶を口に含んだ。

「やっぱり落ち着く味ね」

「道は大丈夫だった?」とアサヒさんが聞く。

「ええ。……でも今日は少し、お願いがあって」

革袋から封のされた紙を取り出す。蝋が光る。

紹介状――王都の学園に宛てられたもの。

「アマネ。あなたに見てほしいの」

心臓が跳ねた。学園なんて、縁遠い言葉のはずなのに。

「わ、私ですか……?」

セレスさんは私をまっすぐに見た。

「あなたの目を見たとき、そう思ったの。ここで育ったなら、きっと、学ぶことを自分のために使える子だって」

ここで育った。庵の板の節、擦り切れた敷物、薪の匂い――全部が私の背中を押すみたいにざわつく。

嬉しい、怖い、寂しい、期待。四つの言葉が足首に絡まって、前にも後ろにも動けなくなる。

どうして私なんだろう。もっと相応しい子がいるはずだ。読み書きはアサヒさんに習ったけど、王都の子たちのほうがきっとずっと上手だ。

でも、学園。知らない世界の音が、耳の中で遠雷みたいに鳴る。

セレスさんは封書をそっとテーブルに戻し、器を持ち直した。

「すぐに返事はいらないわ。……ただ、あなたの言葉で決めてほしいの」

――あなたの言葉で。

その言い回しは、庵の言葉だ。人からもらう答えは、ここでは答えじゃない。

ルシアンさんが、器を置く小さな音を立てた。静かな視線が私に向く。

逃げ道を塞ぐ視線じゃない。けれど、曖昧なまま抜ける道も残さない視線。

「……で、アマネ。お前はどうしたい?」

来た。庵の核心。私がここで一番苦手で、一番好きな問い。

私は深呼吸して、指先の震えをひとつ数える。

王都――遠い。学園――眩しい。庵――あったかい。アサヒさんの笑顔、ルシアンさんの沈黙。

知らない道、知っている椅子。どちらも私の中にある。

「……行きたい、です」

口が、先に走った。言葉に追い抜かれた心が、慌てて後ろから追いついてくる。

行きたい。怖い。でも、行きたい。怖いのは、たぶん、行きたいからだ。

言ってしまってから、耳が熱くなる。アサヒさんが、息を弾ませない程度の喜び方で、そっと頷く。

セレスさんは少し目を細めた。安心の色が、一瞬だけ深く差した気がする。

「ありがとう。……では、準備の段取りを」

彼女が封を解こうとしたとき、ルシアンさんが掌を軽く上げた。止める、じゃない。間をつくる仕草。

「決めたなら、言葉にしてごらん」

私は姿勢を正した。言い直しじゃない。さっきのは、勢いだったから。

今度は、私の言葉で。

「――私、行きます。ここで教わったことを、もっと使えるようになりたい。怖いけど、でも、行きたいから行きます」

言い終えて、肩の力が抜ける。器の茶は、さっきよりも甘い。

セレスさんが微笑んで、封書を私の前に押しやった。蝋の印が、もう怖くない。

「いい返事ね。あなたのその言葉を、書き添えておくわ」

従者と思しき人影が、音もなく一礼して下がる。セレスさんは手袋を取り、再び指先で器を温めた。

「アマネ、準備は手伝うからね」

アサヒさんが私の背を撫でる。温かい掌。私は、やっと笑えた。

戸口の外の山は、さっきより少しだけ明るい。

庵の屋根に落ちてくる光の粒が、目に見えるくらい大きくなっていく。

私はそれを見上げながら、胸の中で何度も繰り返した。

行く。私の言葉で。私の足で。

そして、いつか戻ってきたとき、ここに置いていった私の「怖い」を、笑って話せるように。

セレスさんは帰り際にふとこちらを見た。

「道中で困ったら、学園の寮母さんにこの名を告げなさい。必ず力になるわ」

名? 彼女は一拍だけ、いたずらみたいに目を細めた。

「……それは、着いてからのお楽しみ」

戸が閉まる。庵に、茶の香りと、少しだけ新しい空気が残った。

ルシアンさんが、空の器を回収しながら言う。

「怖いのは、悪くない」

「え?」

「怖いのに動けるなら、それは、お前の力だ」

私は、こくりと頷いた。頷きながら、心のどこかで、小さな旗が立つ音を聞いた気がした。

それがどこの国の旗なのかは、まだ知らない。

けれど――きっと、私が選ぶ色になる。


お読みいただきありがとうございます。

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