歪む修道院—囚われの聖女
その夜、修道院の鐘は確かに鳴ったはずだった。
だが耳に届いたのは、厚い布で包んだような鈍い音だけ。
礼拝堂の扉は半ば開き、廊下を渡る冷気は甘い香にねじ曲げられている。
リュシアは、呼び出しの書き付けを握りしめていた。
『夜祈に参列のこと。聖歌の確認を行う』
差し出したのは伯母のマリア。視線は冷ややかに、言葉は端的だった。
「聖女候補としての務めを忘れないように。――形式は、あなたを守る唯一の盾です」
「……はい」
返事は短かったが、胸の奥で何かがざわめく。
(形式は盾。――でも、あの時、私は……)
廊下の角を曲がると、審問官の二人が立っていた。
いつもより無表情で、しかし拒む気配はない。
リュシアが礼拝堂に足を踏み入れると、空気が変わった。
祭壇の前に立つのは、コルネリア。
白い修道服は黒い光のほつれに縁取られ、輪郭がぼやけて見える。
彼女の周りに、十数人の修道女が静かに並んでいた。
全員、同じ表情で、同じ角度で首を垂れている。
「ようこそ、リュシア・カーディナル」
コルネリアの声は澄んでいた。けれど、その底に冷たい石のような硬さがある。
リュシアは自然と祈りの姿勢を取った。
身体が覚えた型は、考えるより先に動く。
「あなたの聖歌を、もう一度聞かせて」
「……私の、聖歌」
「ええ。あなたが“聖女”として選ばれたのなら、躊躇いはないはず。
ここで示して。形式通りに、正しく、清く」
――聖女は己の声を持たぬ者。
伯母に繰り返し教え込まれた定義が、胸の内側で文字になって浮かぶ。
(でも私は……)
迷いが、祈りの手をわずかに震わせた。
その一瞬を、コルネリアの目が捕らえる。
「やはり、あなたは“揺れる”のね」
黒い聖光が、足元で花のように開いた。
光は花弁の形をしているのに、色は影。
それがするりと伸び、リュシアの足首に絡みついた。
「……っ!」
冷たさでも熱さでもない、理屈の外側の感触。
全身の力が抜け、膝が床に触れる。
鎖のような光が、腰、胸、手首へとつながっていく。
「怖がらないで。これは“正しさ”よ。
――私が戻るべき場所に戻るための、正しさ」
コルネリアの瞳が、嬉しそうに細められる。
その喜び方が、どこか子どもに似ていて、痛ましい。
(違う……それは、誰かの言葉……)
リュシアは、縛られた手をそれでも組んだ。
ゆっくりと、呼気を整える。
祈りの言葉が喉まで来て、しばらく留まった。
「私は……」
彼女自身の声が、かすかに出た。
誰の文言でもない、たどたどしい一語。
黒い光が一瞬だけ、薄くなる。
コルネリアの眉が跳ねた。
「黙って」
花弁の鎖が強く締まる。
リュシアの肩が震え、床に影の輪が広がった。
「聖女は己の声を持たぬ者――それが、私たちの救い。
あなたが揺らぎを見せるなら、私が“正す”。
そうすれば、神はきっと……私を選ぶ」
言い聞かせるように、祈るように、コルネリアは言葉を重ねる。
祭壇の蝋燭が青く燃え、ステンドグラスの聖人の輪郭が黒ずむ。
並んだ修道女たちの唇が、同じタイミングで祈りをなぞり始めた。
リュシアは目を閉じた。
胸の深いところで、別の灯を探す。
庵の風の匂い、アサヒのぬくもり、カグヤの尾の柔らかさ――そして、仲間の笑い声。
(……私は、私でいても、いいのですか)
そのささやきは、誰にも届かないほど小さかった。
けれど黒い鎖が、またほんのわずかに緩む。
コルネリアは歯を噛み、祈祷の節を一段階強めた。
影の花弁が増え、礼拝堂全体が淡く軋む。
扉の外で、審問官の一人が拳を握る音がした。
だが彼は動かない。動けない。
この場で何かをすれば、自分たちの職務が崩れると知っているから。
そして、誰かが外で動いていることも、彼らは薄々察していた。
(……カイル)
名を呼ぶ声は、祈りのかたちの中に沈んだ。
礼拝堂の外で、遠い鐘の音が、今度ははっきりと鳴りはじめる。
黒い聖光は、雪解け水の逆流のように祭壇へと集まり――夜が、深く落ちた。
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