黒き聖光の芽吹き
年の瀬の冷気が、石造りの修道院ごと骨身にしみていた。
礼拝堂には霜の匂いと古い香の残り香。冬の斜陽がステンドグラスをくぐり、青と紅の光を床に落とす。
コルネリア・フォン・ラウレンツは、ひざまずいたまま動かない。
両手を強く組み、唇だけが絶えず動いていた。
――主よ、どうか、どうかお応えを。
返ってくるのは、冷たい静寂だけ。
十歳のあの日から変わらない、空のような無音。
“神の声は続かない”と告げられた瞬間に凍りついた時間が、今も胸の奥で鳴っている。
祭壇の脇には、今朝「上より下賜」として届けられた木箱があった。
銀糸で縁取られた白布、祈祷に用いるはずの聖具、その底に一枚の羊皮紙。
『浄祓補助式』――そう題された小さな式文には、正式な祈りの文言に似ているが、いくつかの節回しが微妙に違う“記号”が紛れていた。
(力を示せば、再び選ばれることもある――)
耳に残る教皇の囁きが、ページの文字を光らせる。
“あなたは捨てられたのではない、試されたのだ”
その言葉が、凍りついていた何かを動かした。
コルネリアは箱から白布を取り、祭壇にそっと掛ける。
羊皮紙を胸に当て、深く息を吸い、式文をなぞった。
「……サンクトゥス、ルクス……私に降り、私を満たし……」
最初は、いつもの淡い光だった。
掌の上に乗る小さな灯。
だが、次の節を唱えた時――灯の縁が、墨のように滲んだ。
「……え?」
滲みは細い糸になって空へ立ちのぼり、天井の肋骨のような梁を這う。
燭台の炎が、青白く舌を震わせ、礼拝堂に影の縞模様が増えていく。
ステンドグラスの聖人の顔に、薄い影が走った。
(違う……これは、違う……?)
胸の奥で、かすかな警鐘が鳴る。
同時に、別の声が甘く覆いかぶさった。
――進め。恐れるな。お前は見られている。
――示せ。お前こそが正しいのだ。
式文の次の節を、彼女は噛まずに言えた。
今まで何度もつっかえた言葉が、今は滑るように喉を降りていく。
それが嬉しくて、怖かった。
足元の光の輪が、黒いレースに変わる。
蔵出しの葡萄酒のように濃い影が、床石の目地に染み込み、祭壇の段を縫うように広がった。
「コルネリア姉妹……?」
扉の隙間から覗いた若い修道女が、声をかけた。
振り向いたコルネリアの瞳を見た瞬間、彼女は言葉を失う。
灰色だったはずの瞳が、冷たい光を宿していた。
「大丈夫よ」コルネリアは微笑んだ。
「ようやく、応えがあったの。――見ていて」
黒い糸が修道女の足首にまとわりつく。
彼女は小さく息を呑み、やがて瞼を伏せた。
膝を折り、祭壇の方へと歩き出す。まるで導かれるように。
礼拝堂の壁に掛かった聖具がひとつ、またひとつと微かに鳴った。
それは鐘の前触れのようで、葬送の合図のようでもあった。
(私は捨てられていない。試されていたのだ。
今度こそ、示してみせる。私の祈りが正しいと――)
コルネリアは、もう一節、深く唱えた。
黒い聖光が波紋になって広がり、礼拝堂の空気は、冬よりも冷たく、甘い匂いを帯び始めた。
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