密約—影が選ぶ器
宰相ヴァレンティスの執務室。
分厚い帳簿と外交文書に囲まれた机の上に、一通の羊皮紙が置かれていた。
「……ラインハルトの件は、勇者候補たちの結束を強めただけに終わったか」
低く呟くその声音に、悔恨の響きはない。
むしろ口元に浮かんでいたのは、冷ややかな笑みだった。
「だが、失敗は次への布石だ」
視線を落とした先――机に置かれた羊皮紙には、教会の紋章が刻まれている。
王国の権威さえ揺るがす聖印。
そこには次の一手を示す密書が記されていた。
ヴァレンティスの瞳が細められ、深い闇を宿す。
「……あの者を使うか。ならば面白い」
◇
その夜。
大聖堂の奥、蝋燭が淡く揺れる祈りの間。
静寂の中で、教皇 ヴィクトルが祈りを捧げる姿があった。
長い沈黙を破るように、柔らかな足音が近づく。
一人の少女――コルネリア・フォン・ラウレンツ。
修道女の衣を纏い、銀髪が揺れる。
彼女がひざまずくと、教皇はゆっくりと目を開いた。
その瞳は深い闇を宿し、慈愛の仮面を纏っている。
「聖女は、まだ定まってはいない」
穏やかに告げられた声に、コルネリアの肩が揺れた。
「……ですが、聖女は……リュシアが選ばれたはずでは」
「ふふ……神の声は一度きりではない」
教皇の口元に浮かんだ笑みは、温かさではなく冷徹な確信を滲ませていた。
「勇者が現れていないのだから、その伴侶たる聖女もまた未確定だ」
コルネリアの胸にざわめきが走る。
幼少期に啓示を受けながらも、十歳で落とされ――その日から「なぜ自分は選ばれなかったのか」という問いが消えたことはなかった。
「……それでは、私にもまだ……可能性が?」
「お前は捨てられたのではない。試されたのだ」
教皇の声が低く甘く、耳元に絡みつく。
「己の力で証明してみせよ。お前が真の聖女であることを」
「……」
「そのための“道”を……我が授けよう」
コルネリアの瞳が大きく見開かれる。
失われたはずの希望が、嫉妬と共に胸を満たしていく。
「……私に、その道が……?」
教皇はゆっくりと頷いた。
「そうだ。示すのだ、コルネリア。己の力を――神の器として」
その言葉が祈りの間に深く沈む。
遠くで鐘が鳴り、夜の帳が降りていく。
コルネリアの唇が、小さく震えながらも微笑みに歪んだ。
それは救いを願う少女の笑みではなく、渇望に取り憑かれた者のそれだった。
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