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どんでん返しの私の人生

作者: 入多麗夜

「セリーナ、縁談を受けなさい。」


父親の冷たい声が背後から響く。後ろを振り返ると彼は無表情で封筒を手渡してきた。封筒には北方の侯爵、ローズ家の家紋が刻まれていた。


家の都合で決まった縁談―― つまり、政略結婚という物だった。


「北方の辺境だなんて、まるで追放されるようなものだわ。」


「ぷぷぷ、北方ですって。あの野蛮な地域に一体何がありますの?」


姉達が冷たく笑いながら呟く声が、セリーナの耳に届いた。この家、ウェルフェンズ家での扱いは今に始まった訳ではなかった。


二人の姉、長女マリーと次女アントネアは、はしたない態度や礼儀を欠き、目に余る行動を繰り返していた。母親が亡くなってから、彼女たちの言動はますます容赦なくなり、馬鹿や阿呆、出来損ないといった淑女として相応しくない発言を平然と言い放つことが増えた。


しかし そんな彼女達の横暴に対し、周りの人は言い返す事も出来なかった。


それは彼女達がウェルフェンズ家だからだ。

ウェルフェンズ家は侯爵ではあるが、曽祖父の代から王国の中でも重職に付いており、国内であれば、公爵や大公爵をも退けるほどの影響力と発言力を持っていた。


今代のウェルフェンズ家は、男児には恵まれなかったものの、姉のマリーやアントネアは大公爵と結婚することはほぼ決まっているような物であった。


そんな中での縁談だ。私の縁談は本来なら姉達より後の2年先のはずだ。余程この家にいて欲しくないのが見え見えだった。


「わかりました、お受けします。」


セリーナは、ローズ家との縁談が家からの事実上の絶縁だと理解していたが、それこそが彼女の救いだった。姉たちに虐げられ、父の冷たい視線に耐え続けてきた日々から解放される――それは一種の希望だった。



もしお母様がいれば、こんな事にはならなかったのだろうか。母が生きていた時は、唯一の味方として守ってくれた。


しかし、母が亡くなったその瞬間から、彼女の運命は決まっていたのかもしれない。


彼女にとって、この家を出ることは唯一の解放でもあった。父の冷たい目や姉たちの嘲笑に耐え続けてきたが、もはや限界だった。


使用人たちの「優しさ」は、母が残した唯一の家の善意と言える部分だった。母は使用人一人一人の名前を覚えては、細かなことにも感謝の言葉を忘れなかった。


彼女の影響を受けた使用人たちは、その優しさを今でも忘れずにセリーナに向けてくれていた。


その中でも使用人のルナは、セリーナの事をよく慕っていた。例え立場が違えど、2人の間の関係性は親友のようでもあり、姉妹に近い物であった。


「えーーー!!北方ですか!?結婚!?あの辺境にどうしてそんなことに……?」


ルナにこの事を話すと、彼女は予想通り驚いた表情を見せた。


無理もない、私自身も何の前触れもなく告げられたのだから。しかも、一度も会ったことも見たこともない相手との結婚話だなんて。


「私も驚いたけど、仕方がないの。もう決まったことだから。」


「でも、セリーナ様、そんな知らない相手と結婚なんて……それにローズ家って……!」


セリーナは深く息をつきながら、ルナの心配そうな顔を見つめていた。


確かにローズ家はただの侯爵ではなかった。


ローズ家の正式名称は、「ヴィル・アストレイン・ローズ侯爵家」。


白い薔薇と交差する銀の剣を中心に、青と金の縦縞模様をした家紋である。


数世紀前、南北戦争で北方の盟主を務め、戦況を左右した名門だ。北方の地で勢力を誇り、最終的には南方に敗北してしまい、北方は悪だと決めつけられてしまった。しかし、ローズ家は戦後もその影響力を完全に失うことはなく、一定の勢力を保ち続けていた。


しかし、彼女にとってローズ家がどれほどの名門であるかよりも、北方そのものが未知の世界だった。


 南方で生まれ育ったセリーナにとって、北方とはまるで別世界のように思える場所だったのだ。南北間の交流はほとんどなく、どのような風土なのか、どんな人々が暮らしているのか、噂以上のことは何も知らなかった。


「ええ、分かっているわ。でも、こんな家にいるよりは嫁ぐ方がまだマシだもの。」

「セリーナ様………」


ルナは心配そうな表情でセリーナを見つめた。


「でも……ローズ家のこと、ほとんど知らないじゃないですか……」


「もちろん不安はあるわ。でも、私にはもう戻る場所はないもの。行くしかないのよ。それに分からないからこそ、希望が持てるのよ。」


ルナはしばらく黙っていたが、やがて再び口を開いた。


「……セリーナ様がどんな決断をしても、私はあなたについていきます。例え北方の辺境であっても、どこにでも!!」


「ダメよルナ!」


 セリーナは友を危険な地へ巻き込むことに、強い不安を感じていた。しかし、ルナの表情には強い決意があり、彼女を止める術はなかった。長年の忠誠と友情が、ルナをここまで駆り立てているのだと、セリーナは胸の中で理解していた。


「あなたを巻き込みたくないの!私だけで十分よ。あなたにはこの家で安定した生活があるはずなのにどうして……」


 ルナは一歩近づき、セリーナの手をそっと握った。


「私にとって大切なのは、セリーナ様と一緒にいることなんです!どうか私を置いていかないでください!」


ルナの熱弁に気合い負けしてしまっていた。セリーナは暫く唸っていた。


「…分かったわ、ルナ。あなたがそこまで言うのなら、一緒に行きましょう。」

「あ、ありがとうございます!」


 ルナは喜びを抑えきれずに声を弾ませた。彼女の忠誠心を超えた友情は本物であり、それは何よりも嬉しいことだった。


しかし、セリーナは複雑な心境だった。ルナを巻き込んでしまっているのではないかと。そして重荷を背負わせてしまっているのではないかと。


「ルナ……気持ちは本当に嬉しいけれど、どうしてそこまで……?」


「セリーナ様、私にとって一番大事なのは、あなたのそばにいることなんです。それが私の幸せなんです!それだけなんです。」


ルナはキッパリと、そして笑顔で答える。


これ以上引き止める理由は見つかない。


ルナの強い決意と笑顔を見たセリーナは、もう何も言い返せなかった。


「それじゃあ、すぐに準備を始めましょう。出発は1週間後よ。私は片付けを。ルナは諸々の引き継ぎをお願い。」


セリーナはテキパキと指示を出しながら、自分も準備を進めるために動き出した。


「わかりました。セリーナ様!すぐに取りかかります!」


ルナはセリーナに背を向け、急ぎ足で部屋を出ていく。


ルナは準備期間中に使用人達と何か話しているようであったが、セリーナは気にかける暇もなく、荷物をまとめる。丁寧に服をたたみ、本や小物を傷つけないように慎重に包む。荷物は次々と詰められていく。数日経つ頃には、トランクはいっぱいになっていた。最後に、セリーナは首にかけていたペンダントを外し、そっとトランクの隅に入れた。


1週間後、約束通り馬車がやってくる。


 この間もマリーとアントネアは、グチグチと小言で何か言っているようであったが、セリーナは聞かないようにしていた。 これを聞くのも最後なのだから。


しかし、悪い事ばかりではなかった。ルナの粋な計らいのお陰で、セリーナの部屋には毎時間誰かが尋ね、結婚祝いと称したささやかなプレゼントが多く贈られた。

北方の厳しい気候に合わせた物が多く、暖かな毛皮のマントや手袋、冷風を遮るための厚手のショール等。セリーナはプレゼントを受け取る度に1人1人お礼をした。


出発が迫る中、セリーナは御者に向かって歩み寄り尋ねた。


「すみません。この馬車にもう一人、使用人のルナを連れて行ってもよろしいでしょうか?」


白髪交じりで背がピンとしている御者は一瞬考え込むように視線を落としたが、すぐに顔を上げて答えた。


「ええ、構いませんよ。お二人乗っても問題はありません。きっと旦那様も喜ぶ事でしょう。」


セリーナは安堵の表情を浮かべ、御者に軽く礼を言って馬車へと入った。


「私は大丈夫ですよ!使用人ですので歩いてついていきます!」


その言葉にセリーナは驚き、すぐに振り返った。ルナは笑顔を浮かべていたが、少し遠慮している顔だった。


「ルナ。ウェルフェンズ家の使用人は辞めたじゃない。今は私と対等な友達よ。一緒に馬車に乗りましょう。」


とセリーナはルナの手を引っ張りながら段差へと登る。


馬車に乗り込む瞬間、彼女は窓越しにふと屋敷の方へ目を向けた。すると、そこには声を出さずに手を振って見送る多くの使用人たちの姿があった。彼らはセリーナに向けて静かに手を振り、別れを惜しんでいるようであった。


そこには、父やマリー、アントネアの姿はなかった。実の家族であるはずの彼らが、最後の別れの場にすら現れないのだ。


セリーナは窓の外を見つめ、使用人たちの温かい見送りにだけ心を寄せながら、馬車が動き出す音を聞く。家族との絆はすでに断ち切れたも同然だったが、そのことがかえって彼女の新たな人生の原動力となったのだった。


******


「こちらでございます。ようこそローズ家へ。」


出発してから数ヶ月が経とうとしていた。季節は春から秋へ移り変わっていた。


ウェルフェンズ家とローズ家は大陸の反対側に位置しており、旅が長くなるとは予想していたものの、想像以上の気が長くなるような遠さだった。


それにこんな距離を走行すると運送費や食費がかかるだろうに、ローズ家にとっては、さほど痛手にはならない出費なのだろう。


ルナがずっと歩いていたら大変だったかもしれない。と心の中で思いながら、窓を覗く。


北方の秋は、南方とは違い、涼しい風が吹いていた。夏は涼しく冬は寒いといった感じだ。葉を落とした木々が並び、その枝が乾いた風に揺れる音がかすかに聞こえてくる。地面には、黄金色に染まった枯葉が散っているが、全体的にどこか荒涼感があった。そして、秋とはいえ、すでに冬が近づいているような肌寒さだった。


ルナは先に馬車から降り、セリーナが降りやすいように手を差し出した。


「ありがとう、ルナ。」


セリーナはその手を取り、ゆっくりと馬車から降りる。


「ここがローズ家のお屋敷なんですね〜!」


と、ルナは感嘆の声を上げながら建物を見上げる。


目の前に広がるのは、辺境とは思えないほど広大な敷地と、荘厳な屋敷。しかし、その美しさとは裏腹に、周囲は静まり返り人の気配はほとんどなかった。異様な静けさに、セリーナはかすかな不安を覚えた。


手入れされた庭があるにもかかわらず、そこを行き交う者はほとんどいなかったのだ。


「ここに誰かが来ることはありません。小さな町はポツポツとありますが、それでもこの辺りはほとんど人が訪れない場所です。」


「そう……」


セリーナは少し緊張しながら答える。ここは賑やかさとは無縁の、孤立した環境だった。


「それに旦那様は、使用人も私を含め、ほんの数人しか雇っていません。」


御者はそう答える。数人にしては よく庭を維持しているなと感心をする。



「しかしながら、セリーナ様。ローズ家は、多くの土地を持っています。当主は季節が変わる度、つまり3ヶ月に1回は領土の巡回の為に、多くの場所に屋敷を建てており、それらを拠点として移動されています。」


御者はやけに家の内情に詳しかった。使用人の中でも古参なのだろうか?それにしてはローズ家の行程を知りすぎていた。


「失礼ですがあなたは………?」


「申し遅れました。私はこの家、『最北の管理人』家令のオズリック・ハーゲンと申します。


家令――それは通常の使用人とは異なり、当主に代わって領地の管理を任される立場にある者だ。オズリックがローズ家の内情に詳しいのも、納得できる理由だった。


するとルナが興味深げに尋ねる。


「『最北の管理人』?他の土地はオズリックさんが管理されているのですか?」


「私が担当しているのはこの地域だけです。しかし私は ローズ家に長く仕えている身、多少は他の領地についても把握しております。」


「そのような方がわざわざウェルフェンズ家まで……本当にありがとうございます。」


 セリーナは頭を下げる。それに続いてルナも一緒に頭を下げた。


「いえいえ、お気になさらずに。旦那様の指示ですので。」


とオズリックは謙遜をする。


彼の立ち振る舞いと礼儀正しい態度は、ウェルフェンズ家のマリーやアントネアとは大違いであった。


 セリーナは改めて思う。紳士淑女とは、こうあるべきものだと。


 しかし、姉たちの非人道的な振る舞いは、そんな理想からは遠くかけ離れていた。マリーとアントネアは、身分や家柄に頼り、他人を見下すことしか知らない。彼女たちにとって、使用人や妹であるセリーナは、単なる道具か障害物でしかなかった。


「それではこちらへどうぞ。セリーナ様、ルナ様。」

「私に 『様 』なんて付けなくていいですよ〜 オズリックさんの方が身分は上ですから。」


 オズリックは屋敷の奥へと案内を始めた。2人荷物を持ちながら、彼の後を追った。


 そうしてセリーナとルナはローズ家の屋敷の内部へと足を踏み入れていった。



「旦那様、セリーナ・ウェルフェンズ侯爵令嬢をお迎えに行きました。」


「………ご苦労だったオズリック。今日はもう上がって結構だ。」


 オズリックは一礼し、静かに部屋を後にする。セリーナとルナはその場に残された。


 すると、階段奥の扉から足音が近づいてきた。やがて、 扉がゆっくりと開き、向こうから一人の男性が姿を現した。


「ようこそ、ローズ家へ。私はヴィル・アストレイン・ローズだ。君を迎えられて光栄に思う。」


 セリーナは、その姿を見て、思わず心の中で驚いた。彼女の中では、もっと年配の人物を想像していたが、目の前に立つ彼は予想よりもずっと若々しかった。


 引き締まった体格に整った顔立ち、肩まで伸びた黒髪が風に揺れ、太陽の反射光が彼の青い瞳に反射していた。その姿は、貴族というよりも、戦場を駆け抜けてきた騎士のような雰囲気だった。


「お招きいただき、ありがとうございます。セリーナ・ウェルフェンズです。これからどうぞよろしくお願いいたします。」


ヴィルは少し微笑んだまま、セリーナの隣に立つルナに視線を向けた。


「そちらの方は……?」


「は、はい!初めまして!私はルナと申します!セリーナ様のお世話をさせていただいております。どうぞよろしくお願いいたします!!」


ルナは緊張していたのか、声が裏返ってしまっていた。セリーナは思わず口元が緩みそうになったが、初対面で失礼にならないように必死で笑いを堪えた。


「ああ、オズリックが言っていたのは君のことだったのか。ようこそローズ家へ。君は客人として……」


ヴィルが最後まで言おうとしていた所を、ルナはすかさず言葉を遮るように、勢いよく答えた。


「いえ、それには及びません!どうか私を使用人として雇って下さい!!」


その突然の申し出に、ヴィルは思わず大笑いした。彼女の必死な様子に驚きつつも面白がったのだろう。しばらく笑い続けた後、ようやく息を整え、肩をすくめるように言った。

 

「いや、まったく……面白いな。そんなに真剣にお願いされるとは思わなかったよ。」


ルナは少し顔を赤くしてうつむきながらも、必死に背筋を伸ばし、緊張を隠そうとしていた。しかし、ヴィルの笑いが伝染したのか、セリーナもついに微笑んでしまい、場の緊張感が完全に解けた。


「ありがとう。本当に久しぶりに笑ってしまったよ。面白い子を連れてきたね。」


その言葉に、ルナも少し緊張が和らぎ、肩の力を抜くことができた。彼女の表情もわずかにほころんでいた。



「うちの使用人と気が合うと思うからよろしく頼むよ。」


ヴィルは笑顔を浮かべ、優しくそう続けた。そしてヴィルはセリーナの方へ振り返り話しかけた。


「セリーナさん、私は堅苦しい雰囲気があまり好きではないんです。呼び捨てで結構ですよ。もっと気楽に過ごしていただければと思っています。」


 彼女がこれまで育ってきた世界では、貴族同士の交流は常に厳格な形式や礼儀に縛られており、呼び捨てなど考えられないことだった。


しかし、セリーナの目からヴィルは、型破りの男のように見えた。まるで対等に話してくれるような、そんな感じがした。


「では、遠慮なく……ありがとうございます。」


セリーナは一瞬の戸惑いを見せながらも、その言葉に自然と笑みがこぼれた。彼の自由な雰囲気に、少しずつ心を開いていくような気がした。


******


屋敷に来てから数ヶ月が経った。セリーナは、初めての場所での新しい生活に少しずつ慣れ始めていた。


ルナも最初の緊張がすっかり解け、使用人たちともすっかり仲良くなっていた。そんな彼女が使用人たちと交わした、ある日の会話がこれである。


「ルナちゃん、今日はちゃんと壁に挨拶した?」


と、ある使用人が尋ねる。


「えっ?壁に挨拶?」


「ここの壁は、ちょっとすねるとすぐに家が揺れ出すからさ。だから毎朝ちゃんと『おはようございます』って挨拶して、優しく撫でておくんだよ。」


「あはは、変なの!」


ルナは笑いをこらえきれずに肩を震わせた。


「そうなんだ。撫で忘れると、急にギシギシ鳴り出して、『忘れるなー!』って文句言ってくるんだよ。」


ヴィルの言葉通り、ローズ家にはルナと対を張る程の変わり者がいたが、それがかえってこの屋敷を明るくしているような気がした。普段の使用人たちは気さくで、親しみやすい人たちばかりだった。結婚式はもう少し先ではあるが、彼女はこの家に嫁ぐ事ができて良かったと思っていた。


******


 春のローズ家は、領土巡回の為に南方と北方の境界近くにある屋敷に滞在していた。


 建前上、双方の兵士が駐屯していることになっているが 南北の境界線近くは、比較的治安が安定しており、通行証があれば関所を介して行き来をする事ができた。セリーナやルナが初めてローズ家へ来た時も、この関所を通って来たのだ。


 そして通行証は比較的簡単に取得できるため、この関所付近では商売が非常に盛んだった。商人たちは南北を行き来し商品や物資を売買していた。


 ある日の午後、ルナと一緒に市場へ足を運ぶ機会が訪れた。近隣の町から商人たちが集まる活気あふれる場所だった。


 セリーナが市場の奥へと足を運ぶと、香辛料が売られている屋台品が目に留まった。そこで目にしたのは、「バラフィン豆」という香辛料だった。


「これは何かしら?」


 とセリーナはルナに尋ねる。しかし、ルナも知らないようであった。


 すると、屋台の奥から陽気な商人が現れる。


「いいところに目をつけましたね!それは南方の特産品、バラフィン豆ですよ。」


「面白いわね、少し買っていこうかしら。」


「お嬢さん、実はバラフィン豆は、それだけだと辛すぎるんです。でも、他の香辛料と一緒に使えばちょうどよくなるんですよ。煮込み料理におすすめです!」


「じゃあ、適当な物をお願いするわ。」


 商人は嬉しそうに頷きながら、手際よくバラフィン豆と数種類の香辛料の瓶を包み始めた。


 市場を後にした二人は、暖かな日差しの中、手に入れた品を抱えながら屋敷へと戻った。


彼女は、毎日が楽しくてたまらなかった。


ウェルフェンズ家には、ある意味感謝しなければならない。自分が本当に望んでいた人生が、今ここにあるのだから。


セリーナの心はますますこの地に引き込まれていった。


 しかし、そんなそんな日常に水を差すような出来事が突然訪れる。


 結婚式を間近に控えたある日、ウェルフェンズ家からの使者が屋敷を訪ねてきたのだ。セリーナは胸の奥に不穏な予感を覚えた。


「ふむ………久しぶりの来客とはな……まさか南方からこちらに来るとは。」


 使用人たちは上の階からこっそりと覗いていた。


「セリーナ様……あの人って?」


 ルナが心配そうに尋ねるが、セリーナ自身も戸惑いを隠せず、思わず言葉を詰まらせた。


 久しく関わりのなかった家から、こんな大事な時期に何の用があるのか。ロクな事ではないだろうと彼女は推測をする。


 案の定、使者の言葉は驚くべき内容だった。彼が告げたのは、南方の南部地域で起こった革命運動の急速な広がりだった。農民や労働者が不満を爆発させ、ついに立ち上がったという。


革命の波は日を追う事に増大していき、南部の侯爵たちを投獄へと追いやっていたのだ。


「ふむ、事情は分かった。だが 貴家とは既に関わりがないはずだが?」


 ヴィルは冷静に使者へ問う。彼の表情には一切の動揺はなく冷静だった。


 彼は前から境界線の近くで何か騒がしいことに気づいていて、すでに関所を閉めていた。今回の使者は、関所が完全に閉まる前に通り抜けたようだった。


使者はどこか気まずいような顔をしていた。こんな役目は正直言って貧乏くじだった。理不尽だと分かって来ているのだろう。


なぜならかつての家族、ウェルフェンズ家との関係は結婚してから断ち切っていた。それも向こうから。それを分かった上でウェルフェンズ家は使者を派遣したからだ。


「残念ながら、関所は既に閉じられている。貴家のご主人が入る事も、貴方が出る事もできないだろう。ただ…」


ヴィルは一瞬間を置く。


「ただ、貴家に仕えていた使用人については、セリーナへの恩に免じて関所を潜り抜けることを許可しよう。」



 使者はヴィルの言葉に一瞬驚いたが、すぐに目を伏せ、感謝の念が溢れ出すように感涙を浮かべた。彼の肩は小さく震え、その場で深々と頭を下げる。涙をこらえながら、震えた声で礼を述べた。


 セリーナにとって、ウェルフェンズ家の使用人たちはかけがえのない存在だった。だからこそ、今こうして彼らに慈悲を与えられることは、彼女にとって当然のことだった。かつて自分が受けた恩を返す機会が与えられたことに、彼女はむしろ感謝の気持ちさえ抱いていた。


 使者は再び涙ながらに深々と頭を下げ、感謝の言葉を繰り返す。最後に事務的なやり取りをした後、部屋を出ていった。セリーナはその様子を静かに見守っていた。


「ありがとう、ヴィル。気にかけてくれて。」


「当然のことさ。君を大切にしてきた人達だ。

丁重に迎え入れよう。それにだ。」


 とヴィルは意地悪そうな顔をする。


「君の大嫌いな人達に一泡吹かせることにもなるだろう?」


セリーナはその表情に思わず微笑み返し、

「確かに、それは少し気分がいいかもね」と冗談を返した。


******


 これは後日談、風の噂でその出来事の全容を知ることとなった。


 結局、ウェルフェンズ家の使用人たちは、その家族を含めて全員が関所を通ることができた。しかし、父や姉のマリー、アントネアは関所を通ることが許されなかったのだ。


 関所では、二人が強引に通ろうと押し問答が繰り広げられた。マリーは「私はウェルフェンズ侯爵家の長女よ!通しなさい!」と怒鳴り、アントネアも「私たちがこのまま逃げ延びられないなんて、あり得ないわ!」と声を荒げていた。だが、家令のオズリックや兵士たちがすぐに止めに入り、冷静に彼女たちを制止した。


「申し訳ありませんが、こちらでは通行を許可できません。どうかお引き取りを。」とオズリックが毅然とした態度で告げると、二人はますます激昂し、騒ぎは収まるどころか激しくなるばかりだった。


 最終的には二人は兵士を前に立ち怯みをし関所を離れるしかなかった。目の前で止められたことが信じられないような顔をしたマリーとアントネアは、恥をかかされたことでプライドが打ち砕かれ、その後は無言のまま引き下がっていったという。


 その後ウェルフェンズ家はどの領地でも同じように門前払いを食らい、ついには南部革命軍に捕らえられたらしい。彼女たちの傲慢な態度とウェルフェンズ家の失墜は、今や王国中で語り草となっているとか。


 セリーナは沢山の使用人や民に囲まれながら結婚式を挙げた。隣には、温かく見守るヴィルの姿がいた。彼女はこれまで感じることのできなかった安心感と、未来への期待で胸が膨らんでいた。


 こうして、セリーナはローズ家の夫人として新しい人生を歩み始めた。過去の苦しみはもう遠く、今や幸せが手の届く場所にあった。


「牢獄を見に行こうかしら……」


 セリーナはふと冗談のように呟いたが、すぐに微笑んだ。マリーやアントネアの運命がどうなったか、彼女にとってはもうどうでもいいことだった。

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