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真昼の星を結ぶ  作者: ばやし せいず
第3章 星の世界
46/50

46 のだ

 母を残し、一人で通路に出る。折りたたんだ荷台を提げた。


 エレベーターが使用できないことを思い出し、非常階段へ引き返す。無駄に明るい夜景の上に星が一つだけ輝いていた。

 あれが夏の大三角のうちの一つだとすると、他の二つはどこへ行ってしまったのだろう。足を止めて身を乗り出してみたが、見当たらなかった。

 想定しているよりもずっと大きな三角形で、この位置からだと建物で隠れて見えないのかもしれない。それとも星明かりが弱すぎて、他の二つはこの街では見つけられないのかも。


 ベガにアルタイルにデネブ。

 三つのうち、一番明るい星は何だったか。


 スマホを取り出した。「のだ」とのトークルームを開きメッセージを打とうとしてやめた。


 引っ越して間もない。小さい子どもを連れての引っ越しだ。まだ荷物もろくに片付いていないだろう。バタついている時に、振られた相手から星の話なんかされても迷惑でしかない。迷惑どころか、世話焼きの男と公園で星の話したことなんて、もう忘れているかもしれない。


 しかし、本当にしたいのは星の話なのだろうか。

 大事なことを伝えないままでいいのだろうか。


 スマホの画面が光った。「のだ」が画像を送信したようだ。

 彼女とのトークルームを開いていたがために、すぐに「既読」になった。つまり相手にトークルームを開いていたのがバレてしまったということだ。「恥ずかしい」と赤面する間もなく、着信が入った。「のだ」からだった。


「千葉先生。お久しぶりです」


 明るい声が聞こえてくる。声を聞くのと同時に、自分の首や肩からふっと力が抜けていくのを感じた。


「久しぶり」


 最後に会った日から一年も二年も経ってしまったような気がする。


「引っ越し、大丈夫だった?」

「はい。まだ家の中はごちゃごちゃしてますけど、来週からなんとか新しい学校へ通えそうです」

「新しい学校か。緊張するな」

「すっごく緊張してますよ。転入していきなり体育祭があるんです」

「体育祭かあ。もし玉転がしやるならコツがある。玉に付いてるチャックを探して、それ引っ張って全力で走るんだ」

「ずるいですよ、そんなの。玉転がしなんてやりませんし」


 野田は快活に笑った。声を弾ませながら、転入先の学校は共学だとか、制服が地味とか、購買のパンが美味しいらしいという世間話を続ける。


 彼女の話を聞きながら、見下ろしていた夜景の中に教会の十字架がぽつんと光るのを見つけていた。

 一通り話した後、野田は「さっきの画像、見ました?」と訊いた。


「あ、まだ見てない」


 確認する前に画面が切り替わってしまったからだ。通話を続けたままスマホを操作し、野田が送ってきた画像を開く。封筒に入れられていた、澄空作の似顔絵を撮影したものだった。


「この似顔絵、ありがとうな。澄空にもよろしく言っておいて」

「似顔絵? それ、絵じゃなくて澄空の描いた手紙ですよ」

「え、手紙だったの?」


 てっきり俺の顔か塩昆布の絵を描いてくれたのだろうと思っていた。


「はい。澄空は字も書けるんです。賢いんですよ」


 画面の向こうで野田は誇らしげだった。


「本当は直接渡したかったんですけど、当日はバタバタしてまして」

「そりゃそうだよ。引っ越しって忙しいんだよな」


 物心ついてから引っ越したことは一度も無いのだが、想像するだけで疲れてくる。


「何が書いてあるかわからないだろうから、解説しようと思ってたんです。ええと、左から『い、き、せ、せ、だ、ん、い、す』です」

「暗号を解くとカレールーが貰えるとか?」


 ふふ、と野田が笑った。


「文字は左から右に書くっていうルールがまだわかっていなくて順番がめちゃくちゃなんですけど、並び変えると『せ、ん、せ、い、だ、い、す、き』、です」

「――」


 息が詰まった。

 夜景が滲み、十字架も、ただ一つ浮かんでいた星さえも見えなくなる。


 無邪気に駆け寄って来る澄空の声を、もう一度聞きたくなった。


「……『せんせー、きらい』なんて言ってたのにな」

「きらいだなんて、そんなの冗談ですよ」

「わかってるよ」

「澄空、ずっと寂しがってました。……私も、先生と会えなくてすごく寂しいです」


 目元を拭い、一度見失った星を再び探した。

 この街では星は見えないのだと思っていた。でも、見えないのではなくて、見つけようとしなかっただけだ。


 澄空のような小さな子どもですら「好き」と伝えられるのに、どうしてこう、ダメな大人なのだろう。


「野田」


 海の小石のように水面下に沈めて隠したこの感情を、無かったことにしたくなかった。


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