42 ただ健やかに
「こんばんはあ。声が聞こえたからね、出てみたんです。何かあったんでしょうか?」
眉の半分欠けた、部屋着姿の母が公園に入ってくる。
野田が慌てて立ち上がった。膝のあたりが汚れている。
「ご無沙汰してます。……お騒がせしてすみません。また千葉先生にご迷惑をかけてしまいました」
「うちの子たちが、息子さんによくお世話になっていたそうで。……ご迷惑おかけしました」
野田と一緒に母親が丁寧に腰を折る。澄空を抱く母親の指は、野田以上に荒れていた。
「何かあったのか」という質問に、二人は答えない。
答えられないのだと思った。
「こんなことがありました」と即答できないくらい、きっと、様々な出来事があったのだ。
母は澄空の背中をさすった。
頼むから、「虐待しているのか」なんて訊かないでくれよと目を閉じたくなる。
「私、昔は保育士していたんですよ」
母は野田の母親を見据え、「保育士」の顔をして微笑んでいた。
「だからいつでも澄空くんと遊びますし、よかったらお母さんの愚痴も聞きますからね」
野田の母親が頷いたように見えた。納得したのかしていないのか、真意はわからない。
目を伏せて、「お恥ずかしいところをお見せしてすみません」とだけ言った。ぽろぽろと頬に涙が流れているのに気付き目を逸らす。
大人の泣き顔をまじまじと見るのは気が引けた。
野田のお母さんは俺のほうに向きなおり、とても小さな声で、「よかったらまた、娘の話を聞いてやってください」と頭を下げた。
「そんな顔するんじゃないわよ。情けない」
家に戻り開口一番母は言った。
「え、どんな顔?」
「酷い顔してる。あんた、昔から顔に出やすいのよ。社会人になったら気を付けた方がいいわよ」
玄関の壁に貼り付けてある姿見をのぞく。花火大会の疲れと野田の母親に鉢合わせた時の緊張感のせいで、指摘されたとおりの顔をしていた。
「大地、生徒の命を救ったんだから、胸を張りなさいよ」
「命って。言いすぎだろ」
「言いすぎなんかじゃないわよ。育児ってただでさえ大変なんだから。あの満里奈でさえよく泣いてたわよ」
「姉ちゃんが?」
疲れた顔をしてよく我が家にやってきたが、そこまでだったとは。
「大人だって気が滅入るわよ。野田さんもお母さんも、よく今日まで頑張ってきたわねえ」
公園で泣きじゃくっていた野田の細い肩。本当は、もっと話を聞いてあげたかった。「よく頑張ってきたな」と言って抱きしめてあげたかった。
俺なんてただの大学生で、まともな収入も無い。子どもの世話はおままごと程度。澄空と数時間遊んでやるのがやっとだ。
澄空を抱え野田の手を取って、二人をどこかへ連れて行く力は無い。
非力な人間にできるのは、ただ健やかに、野田海頼と弟の澄空が大人になっていくことを願うことだけだった。




