41 いいお姉ちゃん
「海頼っ!!」
澄空にしがみつかれて身動きの取れない母親が叫ぶ。
「俺、足速いんで!」
言う必要のない嘘を咄嗟につき後を追う。足が速いと言われたことなんて、保育園児の時以来一度も無い。
非常階段を駆け下りていく野田の後ろ姿が見えた。一階にたどり着くまでにつかまえられるだろうと思ったが、野田の足は速かった。若いし、ダンス部に入っていただけのことはある。
野田はあっという間に一階に着き、非常扉を開けて駐輪場にとび出す。勢いよく閉まった扉の向こうで油の切れた自転車のブレーキの音が鳴った。
「危ないわよっ!」
駐輪場に出ると、自転車に跨っていた年配の女性が怒鳴っていた。代わりに謝り、マンションの敷地から出て行く野田を追う。
彼女はすぐ前の公園に駆けていった。
二人で星の無い空を見上げた公園だ。
道の向こうから迫って来るヘッドライトに気付いたが、構わず道に飛び出し追いかける。後ろでけたたましくクラクションが鳴らされた。
「あっ……」
野田の足に車止めが引っかかったらしい。彼女は公園の入り口で盛大に転んだ。ビーチフラッグをつかみにいくかのような派手なこけ方だった。
「野田!」
立ち止まると、全身から汗が噴き出て膝が笑い始めた。地面に手をついたままの彼女に呼びかけるが反応は無い。
痛みのあまり動けないのかと思ったが、
「……無い!」
彼女は顔を上げ、わあっと声を上げて泣き始めた。
「無くなってる!」
野田は植え込みを指し、再び怒鳴った。癇癪を起す小さな子どものようだった。
「ここに結んだ短冊! 先生が『野田』って書いたのに、個人情報なのに無くなってる……!」
「そりゃあそうだよ……」
きっと公園の管理人が片付けたのだ。そんなところにいつまでも結んであるわけがない。
「海頼!」
野田の母親もやっと追いついた。
澄空は母親の腕の中に小さく収まっている。泣いている様子は無いが、母親の胸に顔をうずめ外から入ってくる情報の一切を遮断しているようだった。
大好きな母親と姉が何故か喧嘩を始めてしまった。何が起きているのかわからなくて、不安でたまらないのだろう。花火すら直視できない怖がりなのに。
「放っておいてよ!」
野田は地面に突っ伏して泣いている。
「私、いいお姉ちゃんなんかじゃない。先生が澄空の面倒をみるって言ってくれた時、すごくほっとしてた。不安だったけどどうでもいいやって思っちゃった。一人で商店街を歩いた時、体が軽く感じて驚いた。……澄空のことはかわいいって思ってる。だけど、いいお姉ちゃんでいるの、もう疲れたよ。今日だって浴衣着たかったのに着られなかった……!」
花火大会らしく浴衣で着飾った同級生たちを、野田はどんな気持ちで眺めたのだろう。
浴衣なんて、野田の事情を知らなければ取るに足りないことだと思っていたかもしれない。
「学校のコース、変えたくなかった。部活もやりたかった。前の保育園の先生に、『またお姉ちゃんが迎えに来たんですか』っていちいち言われるのも、スマホで小児科の予約してただけなのに『子どもから目ぇ離すな』って言われるのも、『隠し子がいる』って学校で噂されるのも、嫌だった。全部嫌だった!」
「海頼……」
「誰にも話せなかった。私だって寂しかったのに。お父さんのお見舞いに行くたび、お父さんが一時帰宅するたびに、これで最後だったらどうしようって思って、怖かったのに……!」
全て吐き出すように野田は叫ぶ。
それでも、野田は自分の母親を責めようとしない。
彼女の話を聞いてあげていたつもりだったけれど、どれくらい本音を聞き出せていたのだろうか。
「……あのー」
間延びした声が聞こえた。あたりを見回すが誰の姿も無い。
「うちの息子が、何かしましたでしょうか……?」
公園の前のマンションの二階、二○一号室の前に母がいて、手すりから身を乗り出すようにして呼びかけていた。母はすぐに公園まで下りてきた。




