4 チョコレート
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安物のズボンなので汚れが落ちなかったとしてもクリーニング代なんて請求しないが、走って逃げるとは少し常識が無いのではと思ってしまう。
ズボンを洗濯機に入れ、家にあったカップうどんで昼食を済ませた。洗濯や食事に時間を掛けている暇は無い。姉と姪三人がこの家に戻ってくるまでに進めたい作業があった。
受け持つ生徒たちは、美術の授業で自画像デッサンに取り組んでいる。仕上げたデッサンを基にデザイン画を制作する予定だそうだ。
担当教諭から、「美大生としてデザイン画の手本を見せてほしい」と言われている。初めて受け持つ月曜日の授業までに、最低でも一点は作品を作らなくてはならなかった。
美術の専任教師であり、担当教諭でもある宍倉に初めて挨拶したのは先月の頭だ。
この人の突破口は何処だろう。
そんなことを考えながら美術準備室で対面し実習の打ち合わせをした。
履歴書を眺める宍倉の重そうな瞼は、眠そうにもつまらなそうにも見えた。声はくぐもっているし、愛想笑いもしない。軽口を叩くことも無いだろう。
こういうタイプの人間は酒を飲み交わしたところで心を開いてくれなさそうだ。そもそも先生を飲みに誘ってもいいものなのだろうか。
学年主任からは「生徒から連絡先を聞き出すな。こっちからも教えるな」と口酸っぱく言われているが、先生とどう関わるべきかはレクチャーされていなかった。
「授業のスケジュール崩せないから、千葉先生は今やってるデッサンの続きを教えてやって」
宍倉にそう言われ「よっしゃー」と心の中でガッツポーズした。
イチから授業を考えるのはハードルが高いのだが、既に生徒たちが取り掛かっている課題を引き継ぐなら気が楽だ。
顔に出したつもりはないのに、宍倉は光沢のある頭に手を乗せ、せせら笑った。
「どうせ、教員免許だけ取って一般企業入るんだろ?」
宍倉は事務机の上のスケッチブックの山に手を伸ばし一番上の一冊を手に取った。表紙には「野田海頼」と書いてある。小さな文字で「のだみらい」とふりがなが振ってあった。
宍倉から「見てみな」と渡され、野田海頼のスケッチブックをぱらぱらとめくる。
――白い。
新品なのかと思ったが、よく見ればラクガキ程度に薄い線がぴーっと引かれていた。後半には着色されているページもあったが、絵の具を水で溶いて塗っただけ。
「俺、やる気無いやつは放っておくから。生徒もそう。舐めてんだよな。美術のせいで推薦貰えなかったって泣きついてきても知らないけどな」
「いやー、僕はやる気だけなら人一倍ありますよお」とかなんとか言ってへらへら笑い、その場を乗り切った。お嬢様学校に似合わない中年男性を睨むのをぐっと堪えながら。
しかし、悔しいことに宍倉の推察は図星なのだ。
どうしても美術教師になりたいと思っているわけではなかった。まだ内定は手に入れていないが、就活だって続けている。
教員免許を取ることが親から提示された、美大に進学する条件の一つだったというだけ。教職課程の授業は思いのほか面白かったけれど、気が変わって教員を目指すほどの衝撃は与えてくれなかった。
教師になりたいという力強い意志を持たぬまま、ふらふらと教育実習に来てしまったというわけだ。「やる気が無い」と言われても誤魔化すしかない。
このままじゃダメだとは思うものの、どうすればいいのかわからなくなっていた。
自分はもっと要領よくやれるものだと思っていた。人間関係で苦労したことはあまり無いし、講師が言うことに素直に取り組んでいたら現役で美大に合格できた。
だから、最後の最後はどうにか辻褄が合って、難なく社会人になれるだろうとあぐらをかいてしまったのかもしれない。
夕方になって、ようやくデザイン画の下絵ができた。休憩がてらにキッチンに立ち、大きな鍋で具材を煮込んでいた時、姉から着信が入った。
「急に旦那の両親が泊まりにくることになってさあ」
「じゃあ、今日はうちには泊まらないのかよ」
「夕飯、もう作っちゃったんだけど」と愚痴りたかったが、ニコルが泣いているのが聞こえたのでやめた。
姉は「ごめん」とだけ言って通話を切る。俺に対して言ったのかニコルに対して言ったのか、判別できなかった。
大鍋の中では大量の野菜と肉が煮えている。両親は食が細い。姉たちが食べることを見込んで作ったこのカレーを食べきるのに三日は費やしそうだ。そんな計算をしながらお玉杓子と菜箸を駆使してルーを溶かした。
別の鍋で茹でていたニンジンを思い出し、大鍋に移す。
姪たちが喜んでくれると思い、せっせと型で抜いた星形の野菜たちが静かに底に沈んでいく。
*
週明けの月曜日。
六月に入り、今日から衣替えとなる。高等部の生徒は全員、校章入りの紺色のポロシャツを着ていた。
二年二組の教壇に立ち、カンペを見ながら朝のお祈りを済ませる。
それから美術室に向かい教卓の上にデザイン画を飾った。ジャージを羽織ってやってきた三組と四組の生徒たちは思った以上に興味を示し、わらわらと作品の前に集まってくれた。油絵科なのでデザインは全くの専門外なのだが、土日返上で頑張った甲斐がある。
「千葉先生、絵が上手なんですね」
実習二週目だが、生徒たちから「先生」と呼ばれると未だに体がこそばゆくなる。
「そりゃあ、わりと有名な美大に通っていますから」
「でもこの自画像、美化されてません?」
「そう?」
「自覚無し!?」
製作にかかった時間や使用画材なんかを訊かれて答えているうちに始業のチャイムが鳴る。席に着かせ日直に号令を掛けてもらう。
これからとうとう、人生初めての授業を行う。デッサンの続きをさせるだけなのだが、手に汗をかいた。
プリントを配り今日の段取りを説明し、「さあ実際にやってみましょう」となった時、美術室のドアが開いた。
野田海頼だった。