31 ゃたねひわ、、、はきな
今日のお礼にコンビニでアイスを買い、商店街の脇の細い道を進む。道を抜けたところの小さな公園のベンチに腰を下ろした。
船渡川は「スカートが汚れるから」と、ベンチの横に立っている。
「見せたいものがあるんだけど」
彼女はアイスをかじりながらスマホを取り出し、SNSのアプリを開く。
楽しそうな船渡川と彼女の友人たちが納まる写真の下に、投稿内容を称賛するコメントが並んでいた。
その中に「ゃたねひわ、、、はきな」という異質な文章が紛れている。
「これ、ミイのアカウントからのコメントなんだよね。どういう意味かな? 暗号? 先生、わかる?」
「野田の弟がやったんだと思う」
虫取り網で叩いてきた時の、いたずらっ子の笑顔を思い出す。
「えっ? でもミイの弟くんてまだ赤ちゃんだよ」
「もう幼稚園児になってるよ」
「うそ!? まだ一歳くらいかと思ってた」
他人の家の子の成長は早いのだ。
そして船渡川はニコルより少し大きい子どもの姿を想像していると思うのだが、たとえ一歳児だとしても、びっくりするようないたずらを働くことがある。
「……千葉先生、澄空くんにも会ったことあるの?」
「たまたまね」
そう言っておかないと、さらに詮索されそうだ。
「野田が船渡川の投稿を見ていた時に弟がいたずらして、わけわかんないコメントを送っちゃったんだと思う。つまり、野田だって船渡川のことが気になってるんじゃないか。SNSで船渡川の日常をチェックするくらいには」
奢ったアイスが溶け始めている。指摘すると、船渡川は慌てて食べ始めた。
「今日買ったリップ、船渡川からってことにして渡そうか? 仲直りできそうじゃん」
「余計なことしないでよ。……私、またうざがられるし」
「うざがられるって、船渡川が野田に?」
「私がうざいから、ミイは私のこと避けてるんだよ。……ミイは初等部の途中で編入してきたの。慣れてないだろうから藤ヶ峰のこと色々教えてあげなくちゃって思って、頼まれてもいないのに私が率先して世話を焼いてさ。一緒にハイレベコースに進級して、一緒にダンス部に入って、仲良くやってたつもりだった。……けど、ミイがだんだんノリ悪くなっちゃって。何も言わないで部活やめて、高等部に進級する時もこっそり普通コースに変えてたの」
「多分だけど」と前置きし「弟が生まれて忙しくなったからだよ。船渡川のせいじゃない」とフォローする。
「下の子が生まれると、そんなに忙しくなるものなの?」
「……野田は特殊ケースかもしれないけど」
年の離れた姉、満里奈も面倒を見てくれていたことは、おぼろげながら記憶にある。一緒に商店街の駄菓子屋に行ってくれたり、両親が不在の時は食事の用意をしてくれたりした。
しかし両親は姉の学業や部活動を最優先していたはずだ。
「仮に本当に忙しかったとしても、一言くらい相談してくれてもよくない? 少なくとも私は親友だと思ってたんだから……」
その点は船渡川と同意見だった。
「やっぱりうざかったんだよ、私のこと。だから、ミイには私がリップ探すのを手伝ったこと言わないでね。また勝手に出しゃばったって思われたらいやだし」
食べ終わったアイスの棒からぽたっと液が垂れ、地面に黒い染みを作る。
「……『言わないで』ついでなんだけど、涼真にもかなり怒られたことがあるんだ」
「怒られた? 涼真に?」
にわかには信じられない話だった。
涼真は滅多に他人に腹を立てない。誰かに本気で怒っている姿なんて、ほとんど見たことが無かった。
「何年も前の話だけど、うちに涼真がよく来てたのね。一緒にメイクごっこして遊ぶのにはまってたの。でも、涼真は絶対に顔を洗ってから帰るんだ。親の前ではメイクなんてできないからって。涼真のお父さん、なんていうか、昔の人でしょ?」
ついさっき会った、大谷画材店の店主である涼真のお父さんを思い返す。
昭和歌謡チックな歌の流れる商店街が似合う親父さんだ。涼真は一人息子だから厳しくしつけなければという思いが強いのか、確かに門限や服装に厳しいところがあった。
「だから、『堂々とメイクできるように私がお父さんを説得してあげる』って言ったことがあったんだけど、断られたの。それで私、むきになっちゃって『今すぐにでもお父さんに電話してあげる』って言ったら『やめてくれて』って涼真が泣いちゃって。で、しばらく気まずくなってたんだけど、久々に会ったらメイクしてるの。涼真が、涼真の両親の前でフツーに。……他人がわざわざ介入しなくても本人なりに考えて、本人なりのペースで解決していくじゃん? そういうのわかってなかったんだよね私は。子どもだったから……。すごくお節介だったの」
涼真の話を聞きながら思い出したことがあった。高校生の時だ。
昼休み、飲み物を買って戻ってきたら教室の中の空気がおかしかった。原因はすぐにわかった。
涼真の描いた漫画を、同じクラスの菊池が読んでいたのだ。教科書やノートの端に描いたラクガキではなくて、原稿用紙に専用のペンで描いたちゃんとした漫画だった。
それを菊池が菓子パンを片手に大声で読み上げていた。
「おまえのことッ……、何があっても守るからァッ!」
クラスメイトとは毎日のようにふざけ合っていた。
でもその時だけは皆、白けていた。
悪ふざけだったとしても超えてはいけない一線があると、周りも徐々に気付き始める頃だった。
「そのへんにしておけよなー」
菊池の隣にいたクラスメイトが失笑しながら言った。
誰も悪乗りに参加しないことに焦ったのか、菊池は仲間を募るようにさらに声を張り上げ涼真の漫画を音読した。
「ルイくん……、わたし、わたしッ、ルイくんになら裏切られたって平気だよッ」
教室内に笑う者はいなかった。
菊池の目の前にいる、涼真以外には。
目が笑っていないって、涼真みたいな笑い方のことを言うんだなと考えながら、俺は立ち尽くしていた。
涼真は、無理やり大口を開け笑っているように見せていた。そしてたまに無表情になって、クロールの途中でやる息継ぎみたいに肺に空気を入れる。菊池と涼真の姿が通行人に無視されている大道芸人のように見えてきて、いたたまれなくなった。
折れ目と菓子パンの油がついた原稿用紙を返された時、涼真の顔は青ざめて見えた。溺れかけて、やっとの思いで岸までたどり着いたみたいだった。
涼真が染髪し化粧もして登校するようになったのはその出来事以降だったと思う。漫画も教室で描くようになった。菊池と涼真は相変わらずじゃれ合う仲だったけれど、菊池は一度も涼真自身をからかうことはしなかった。
涼真が堂々と自分らしく振舞うようになったのは、菊池がきっかけだろうか、それとも船渡川だろうか。
「船渡川みたいなお節介も世の中には必要だろ。助けてって思っていても言えない人間はいるよ」
「そうかな……」
「野田の個人情報だからあんまりべらべら言えないけど、お前らは相思相愛だと思うよ。夏休み明けにはまた顔を合わせるだろ。野田と話せるといいな」
他愛もない話をするだけでいい。二手、三手先なんて考えなくていいのだ。パズルゲームをする必要は無い。
「相思相愛って」
船渡川が笑う。
地面の黒い染みに蟻がわらわらと集まっていた。
「そっちはどうなの」
そう訊かれ、「何が」ととぼけた。
そんな俺に船渡川は肩をすくめ、それ以上は何も言わないのだった。




