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真昼の星を結ぶ  作者: ばやし せいず
第3章 星の世界
27/50

27 ただの野田海頼

 いつか教室で船渡川(ふなとがわ)梓紗(あずさ)が奏でていた鼻歌。

 気になって後で調べたら、「星の世界」というタイトルだということがわかった。

 今度は野田がその童謡を歌っている。

 服装のみならず鼻歌の選曲もかぶるとは、さすが親友同士だ。


「先生」


 公園灯の柱に背をもたれていた彼女は鼻歌を止め、やつれた様子で振り返る。

 トートバッグから虫よけスプレーと携帯できる小型の扇風機を取り出して貸してくれた。こんな時にまで気が利く。


 ベンチに座らせその横に自分も腰かけた。

 暗い夜の公園だが他にも人影があった。眼鏡を掛けた男性と澄空(すかい)よりやや大きな男の子が虫取り網を持ってうろついている。羽化のために地面から出てきた蝉が見つかるかもしれない。


「澄空、どうしたの?」

「今、母が寝かしつけてます」


 それは先ほどの電話で聞いたから知っている。

 尋ねたかったのは今現在どうしているかではなく、澄空のどのような発言や行動が野田を動揺させたのか、ということだった。

 野田は「母がいる時は、母に寝かしつけてもらわないといやがるので」と続ける。


「昨日の夜は母が家にいなかったので、私が澄空と一緒に寝ていたんですけど、真夜中に澄空が起きたんです。『パパが死んじゃう』って泣きながら……。今日の夕飯の時にどうしてそう思ったのか訊いてみたら、『せんせーがいってた』って。それで……」


 それで電話してきたということらしい。


「ごめんなさい。子どもの言うことなのに真に受けて電話しちゃって。もしかしたら幼稚園の先生に何か言われたのかもしれないです」


 蝉の死骸を見つけた公園での会話を思い出し、血の気が引いた。


「ごめん。俺のせいだ」


 野田が顔を上げこちらを静かに見つめる。


「この前、澄空を自然公園に連れていっただろ。そこで澄空が蟻を潰そうとしたんだ。だから生き物は死んだら生き返らないって、人間もいつか死んで遠くへ行くんだって、そう言っちゃって……」


 後先のことを考えずに放った余計な発言が、姉弟(きょうだい)を不安に陥れた。


「遠くへ行く……。そういうことですか」


 犯人をつきとめたというのに、野田はやけに落ち着いた声で「私のお父さん、病気なんです」と言った。


「澄空がまだ上手く喋れなかった頃、父が会社で倒れたんです。病院へ運ばれて大きな腫瘍が見つかって、すぐに手術したんです。一度は職場に戻れたんですけどまた再発しちゃって、今は休職していて……。健康診断だって、毎年ちゃんと受けていたんですよ。でもそれだけじゃなかなか見つからないようなところに病気が隠れていたんです」

「今も入院中なの?」


 野田たちの住む部屋の中に、お父さんの気配は一切無かった。


「今は東京の病院に移って、そこに入院したり退院したりを繰り返してます。だから父だけ病院に近いおばあちゃんの家で暮らしてるんです。働けなくなった父の代わりに母が大黒柱になって、毎日遅くまで仕事して、休みの日になったら車で父のところへお見舞いに行くっていう生活をしていて、だから忙しいんです」

「お父さんが病気だって、澄空は知らなかった?」

「はい。不安がらせちゃいけないと思って、隠してました。パパがおうちにいないのはお仕事をしているからだって、今までそう説明していたんです。パパは遠くの病院で、お仕事を頑張ってるんだよって……。遠くの……」


 野田はとうとう泣いた。

 泣きながらトートバッグを漁り「ハンカチ忘れちゃいました」と言うので、運よく持っていたポケットティッシュを渡した。


「本当にごめん。澄空に生き物はいつか死ぬなんて話、するべきじゃなかった。そんな事情があるなんて知らなかった」


 死ぬということは、遠くへ行くということ。


 真夏の公園で、かつて命だったものを前にそんな言い方をした。

 まだ幼い澄空を刺激しないように歪曲な表現を使ったことが裏目に出てしまった。


「いえ、先生は悪くないです」


 罵倒されてもおかしくないと思ったが、泣いている割に野田は冷静だった。


「澄空は子どもだけど、きっと色々なことを察してるんです。母が泊りがけでお見舞いに行っている日の夜、絶対におねしょするんですよ。わりと賢い子だから、本当は全部気付いてるのかもって思うこともあって。いつまでも隠し通すなんて、どのみち無理だったんです。……だから、大丈夫です。先生は何も悪くないです」


 野田はティッシュで目を押さえている。


「先生が美術館に付き合ってくれた日は、体調が落ち着いていて父も一時帰宅できたんです。だから家族でレストランに行けたんです。サプライズもしてくれて、店内に爆音でハッピーバースデーが流れて大きいケーキまで出てきて……。ちょっと恥ずかしかったけど、すごく幸せでした」


 彼女の口にする「幸せ」という言葉は、晴れ渡った夜空のような「幸せ」に聞こえた。


「周りからはなんの変哲も無い、絵に描いたような幸せな家族に見えたと思うんですけど、来年はこうやって四人で集まれるのかなって考えたら寂しくて、それから、怖くて……」


 野田は嗚咽をあげしばらくそのまま泣き続けた。

 思い悩んだ末、「つらかったな」と、ありきたりな言葉しか出せなかった。

 がらがらの声で「先生、すみませんでした」と野田が謝る。


「なんで謝るんだよ」

「こんな重い話をしてしまって……」

「俺でよかったら話くらい聞くよ」

「でも、先生は先生じゃないですか。申し訳ないです」

「そうだな。俺はただの先生、じゃなくて元先生か。でもいいんだよ。先生でも友達でも通行人でも店員でも、誰でも。とにかく誰かと何か話せば少し気が楽になるんだから。いっぱいいっぱいになって爆発する前に誰かをつかまえて、ちょっと話しなよ」

「……」

「ほらあんた、ここで全部吐き出しちゃいなさい。なんでも聞くわよ、あたし」

「なんでキャラ変わったんですか」


 頬を濡らした野田が薄っすら笑ってくれた。

 そして「そうですね」と考え込む。


「じゃあ、愚痴言っていいですか」

「勿論」

「これ、見てくださいよ。本当に腹が立ったんですけど」


 野田はスマホの画面を見せる。無残に中身の潰された口紅が映っていた。


「誕生日プレゼントで、両親からデパコスのリップを貰ったんです。ずっと前に私が欲しいって言ってたのをお母さんがちゃんと覚えててくれてて。なのに、澄空が勝手に持ち出して、これで点つなぎやろうとして、折れてほとんど使えなくなっちゃって。澄空にすごく怒ったんです、私」

「怒るよ、そりゃ」

「あ。あと、五月十日が澄空の誕生日だったんですけど、その日も怒ったんです。当日は母が仕事を休めなくて、『次の日曜日にお祝いしようね』って言ってたんです。でも澄空がどうしても誕生日当日にケーキを食べたいって言うから、スーパーでスポンジケーキとか生クリームとか、イチゴは無かったからキウイとかバナナとかをお小遣いで買って、簡単なやつを作ったんです。で、澄空がお手伝いのつもりで出来上がったケーキを一人で運ぼうとして、ひっくり返して食べられなくなって、『こんなの要らないから、ケーキ屋さんでチョコケーキ買って』ってぐずって……。私もめちゃくちゃむかついて、『いい加減にして』って怒鳴ったんです」


 地獄絵図を思い浮かべ苦笑した。


「その状況、俺も許す自信無いよ」

「……怒鳴ったら澄空がすごく悲しそうな顔して泣いちゃったんです。わんわん泣くんじゃなくて、部屋の隅で一人でしくしく泣き始めて。そんな泣き方は初めてで。澄空はまだ小さいのに、ただでさえ父と母に甘えられないのに、かわいそうなことをしちゃいました。反省してます」


 愚痴を聞き出すつもりだったのに、野田の口からは懺悔(ざんげ)の言葉が漏れてくる。母親に対する鬱憤(うっぷん)だって溜まっているだろうに晴らそうとしない。


 あの学校で育った少女たちは皆こうなのだろうか。それとも野田の性分で、他人を責めるような言葉をなかなか言えないのだろうか。

 野田は優しすぎる。

 だから毎日弟のケアを続けていられるし、その反面、周りに助けを求められない。


「澄空のことはかわいいんですよ。私はずっと一人っ子だったから、弟が生まれてきてくれて本当に嬉しかったんです。それなのに優しくできない時があって自分が嫌いになりそうです。弟がいなければもっと勉強できたのになとか、部活できたのになとか、考えたくないのに考えちゃうんです」

「野田がいいお姉ちゃんだからそう思うんだよ」


 何故子どもがかわいいかというと、かわいくないと世話してもらえないからなんだと、母が言っていた。根拠の無い話だと思っていたけれど、姪っ子たちや澄空を見ているとあながち嘘ではないなという気もしてくる。


 子どもはかわいい。


 でも、子どもたちは、世話する人間の生命力をあっという間に奪ってしまう。「かわいいから大切にしなければ」と自分を洗脳しないとやっていけない。

 子どもたちが人間らしく育っていく一方で、世話する側は人間らしくいられなくなる。

 トイレに行けない。換気もできない。

 食事は好きなものを選べないし、よく噛んで食べられない。


 姉だって昔は一時間以上もメイクに時間を掛けていたのに、最近では眉毛だけ描いて出かけている。

 シエルとノエルが赤ちゃんの頃から、よく面倒を見ていたつもりだった。姉が忙しかったり体調が悪かったりした時だけで、月にたった数回程度。自分の生活を犠牲にしたことなんて一度もない。

 そんなもの、ただのおままごとでしかない。

  親に代わって育児をする野田の前で「姪の面倒を見ていたから子どもに慣れている」なんて豪語していた自分の口を塞ぎに過去に戻りたくなる。母に笑われるのも当然だ。

 

 でも、子どもはいつまでも子どもでいるわけではない。澄空もどんどん大きくなって、いつか一人で出かけて無事に帰ってくるようになる。そんな日が来る。


 その時、野田海頼(みらい)はどんな顔をして笑っているのだろう。


「いいお姉ちゃんじゃなくて、ただの『野田海頼』に戻れたら何がしたい?」

「……笑いません?」

「笑うわけないだろ」


 でも何を言い出すのだろう。

 何か突拍子もないもの、例えばアイドルになりたいとか声優になりたいとか言うつもりだろうか。


 たとえそうだったとしても、笑うつもりは無かった。

 どんなものでも応援してあげたいと思った。

 「無理だよ」とか「現実見ろよ」とか、一切言わないようにしようと覚悟を決めた。


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