25 しむ
「シンダラ? ああ、死んだら、か。ええと」
澄空にはまだ、「死」という概念が無いようだ。
「あー……、死んだらっていうのはさ」
家族でも幼稚園の先生でもないのに「死」について教えていいのだろうかと迷う。純粋無垢な幼児を刺激しないような、なるべくまろやかな、甘口カレーのような言葉を探す。
「遠くへ行くっていうこと。生き物は遠くへ行ったら、もう二度と戻ってこないんだよ」
「しむってこと?」
「あ、そうそう。『しむ』ってことだ」
どうしてか子どもは皆、「死ぬ」を「しむ」と言ってしまう。
「なんだ。『死ぬ』って言葉は知ってたのか。じゃあ蟻も殺しちゃダメだってわかるだろ?」
「にんげんも、いきもの?」
「うん」
「じゃあ、にんげんもいつかしむ?」
「まあ、そうだな。人間もいつか遠くへ行くんだよ」
生き物は生き返らないし、人間もいつか「しむ」。
そんな情報を手に入れた幼児はとくに何のリアクションも示さず「ブランコしよ!」と走り出してしまった。
蟻の狙う獲物を拾い上げて行列を辿り、巣穴の近くに置いてやった。澄空が迷惑をかけたので罪滅ぼしのつもりだったが、有難迷惑だったかもしれない。獲物を見失った蟻たちはうろうろとさまよって、慌てているように見える。
虫たちは、自分たちがいつか「しむ」ということを知っているのだろうか。
死期を悟って慌てることがあるのだろうか、と思う。
ブランコがこげないという澄空に足の使い方を教えたり、ジャングルジムを怖がるので一緒に上ったり、子ども時代に戻ったような気分になりながら一緒に遊んだ。
ひと通り遊具を堪能したあと、広場の端にフェンスで囲われた砂場を見つけた。澄空は中へ入らず、スコップやバケツで遊ぶ同年代の子どもたちを羨ましそうに眺めている。
「中に入って『貸して』って言えばいいじゃん」
「すかい、いえないの」
「人見知りなのか?」
じゃぶじゃぶ池でも他の子の水鉄砲を眺めているばかりだった。
「じーっと見てたって、誰も何も貸してくれないんだぞ。ほら、中入りなよ」
「せんせー、おなかへった」
幼児のくせに話をすり替えるという術を使ってくる。
時計を見ると確かにそろそろ昼時だった。
再び自転車に乗せ、公園を出て近くのマックに連れて行った。澄空にはハンバーガーのセットを注文した。おまけのおもちゃもついてきて、澄空はずっとご機嫌だ。
お互いに食べ終わり、澄空がおもちゃにも飽きてきた頃、「のだ」からメッセージが届いた。「自宅にいるので、いつでも帰ってきてもらって大丈夫です」とのことだ。「そろそろ帰ります」と返信し、トレーの上で散らかった包み紙やカップをまとめた。
「帰ろう。今日は楽しかったな」
虫はつかまえられなかったが童心に戻ることができて、思っていたより楽しめた。しかしそれと同じくらい疲労していた。足はぱんぱんだし、炎天下にいたせいで頭も重い。
「もういっかい、こうえんいこ」
幼児はとんでもないことを言い出す。これ以上外を歩き回ったら熱中症になりかねない。
「お姉ちゃん、家で待ってるってよ。帰る前にトイレ借りようか」
「えー! やだーっ!」
火がついたように澄空が叫ぶ。「まずい」と思ったが手遅れで、ばたつかせた足がテーブルの脚に当たり、氷の残ったカップがトレーの上で倒れた。
「やだの! まだかえらないの!」
店内に響き渡るような声だった。周りのテーブルには温かい目線を送る親子連れもいれば、眉間を寄せ、苛立ちを露わにするスーツ姿の男性もいる。
手早くトレーを片付け、澄空を抱きかかえて店内から脱出した。トイレは諦めた。澄空は雄叫びをあげ、さらに激しく手足をばたつかせる。やっと駐輪場までたどり着いたが、アスファルトの上でひっくり返ってしまった。
「危ないって!」
すぐ横を自転車や通行人がひっきりなしに通っているから危ないし、日光を浴びたアスファルトが熱そうで火傷が不安になる。
「もういっかいマックいく!」
「行くわけないだろ」
何を言っても耳に届くような状態ではない。転がる澄空の持ち上げ、チャイルドシートに乗せようとしたが、抵抗され顔を思いきりグーでパンチされた。
「うわああん! いたーいっ! やめてえー!」
「痛いのはこっちだろ! 人聞きが悪い」
虐待を疑われて通報されるのではと冷や冷やしてしまう。
釣りたての鮮魚を押さえつけるようにして、ようやくベルトとヘルメットを装着させた。子どもを自転車に乗せただけなのに汗だくだった。体中が筋肉痛になりそうだ。
どうして安易に澄空を預かるなんて言ってしまったのだろう。
そんな後悔が頭をよぎる。自分が非情な人間に思えて、何だか落ち込んだ。
「ヘルメットいらない!」
自転車を漕ぎ出してからも澄空はしばらく抵抗を続けたが、観念したのか無言でしゃくりあげるようになった。
やがて後部座席がしんと静かになる。交差点で信号待ちをしながら振り返ると、澄空は大きな口を開けてすやすやと寝入っていた。
機嫌が悪くなった原因は帰りたくないからではなくて、眠かったからだったらしい。公園であれだけ遊べば無理もない。
子どもってそうだ。どんなに眠くても、決して眠いと言わない。「眠い」という感覚が不快で、上手く言い表せないからぐずるのだと、母か姉が言っていた。
子どもはかわいい。
けれど、わけのわからない生き物だとつくづく思う。毎日この未確認生命体の相手をするのだから、世の親や、子ども関係の職に就く人々には頭が上がらない。
ようやくマンションが見えてきたが、ちびっ子未確認生命体は目を覚ます気配を見せない。
自転車の練習をした公園に入り、木陰に自転車をとめ澄空のヘルメットをそっと外した。汗で濡れた前髪が額にぺたっと張り付いていた。
自転車から澄空を降ろしたら起きてしまうかもしれない。自然に目を覚ますのを待つことにした。
枝を伸ばした高い木を見上げる。蝉の声は聞こえるが、やはりどこにいるかわからない。
「あ」
蝉ではないが、お宝を発見した。野田にお土産を用意できそうだ。
「ここ、どこ~?」
ちょうど澄空が目を覚ました。ごしごしと目をこする澄空を自転車から降ろし、虫かごを持たせた。蓋を開け、獲得した薄茶色のアイテムを中に落とす。
「いっぱい集めてお姉ちゃんに見せてあげよう」
澄空はまだ眠そうにしながら虫かごをのぞきこんだ。
「おねえちゃーん」
澄空がインターフォンを押すと、一三○一号室から晴れやかな笑顔を見せ野田が出てきた。
「おかえりなさい。千葉先生、ありがとうございました」
「ゆっくりできた?」
「はい。家の中を片付けて、そのあと同じクラスの子とカフェに行けました」
カフェの内装や腹にたまらなそうな料理の写真を見せる彼女の顔は、憑き物が落ちたようだった。澄空を預かる前は表情を曇らせていたが、羽を伸ばせたようでよかった。
「澄空はご迷惑おかけしませんでした?」
幼い子どもにも面子はある。「いい子だったよ」と帽子の上から澄空の頭を撫でた。
「そうだ、俺も公園でいっぱい撮ったから、あとで厳選して送るよ」
スマホを取り出し、じゃぶじゃぶ池や遊具ではしゃぐ澄空の写真を見せる。
「この写真の澄空、可愛い……」
スマホを手に、野田は顔をほころばせた。
「じゃばじゃばいけ、いったの」
「そうなんだあ。よかったねえ~!」
野田はしゃがみ、弟を抱きかかえながらスマホをのぞきこんでいる。
「楽しかった?」
「うんっ!」
「じゃあ今度、お姉ちゃんも一緒にじゃぶじゃぶ池に行きたいなあ」
「おねえちゃん、ひやけしちゃうんでしょお」
「ううん。お姉ちゃん、澄空のためなら我慢するよ~。澄空のこと、大好きだもん」
「スカイも、おねえちゃんだいすき」
いちゃいちゃと抱き合う二人を見下ろしていると、野田と目が合った。
「……あ、あとは家の中でやります」
平然を装い彼女は立ち上がる。野田の意外な一面が見られて面白かったので、もっと続けてくれてもよかった。
「そうだ。これはお礼です。今日行ったカフェの焼き菓子です」
野田はおしゃな紙で包装された小さな菓子折りをくれた。
「礼なんていいのに」
「いえ。時間のプレゼント、本当に嬉しかったので」
菓子折りを自分の物のように触ろうとする澄空の手を野田が押さえる。
「それはよかった。最初は物の方がいいかなって思ってたんだ。姪っ子たちに何をあげればいいか相談したらルームウェアなんてどうだって言ってたんけど、姉は『彼氏以外から貰ったらきもい』って言うしさ」
「先生からだったら、きもくないです」
すかさず野田がそう返し、目を伏せてしまう。彼女の顔が赤くなっていく。
――ただの教育実習マジックだから。
頭の中で船渡川梓紗が戒める。
仮に、教育実習の際に野田が「マジック」にかかっていたとする。
しかし実習が終了したのは二か月も前のことだ。未だにその魔法というか呪いというかが解けていないだなんてこと、有り得るのだろうか。
なかなか風の通らない、サウナのような八月のマンションの通路。この環境を考慮しても野田の顔は赤すぎると思った。
……まさかなあ。
「あっ! おねえちゃんにおみあげ!」
「え、お土産があるの? ドングリかな?」
インターフォンを押す時に通路に置いた虫かごを澄空が持ち上げた。
「じゃーん!」
「えっ」
澄空から虫かごを受け取ろうとして野田は固まる。
「すごいだろ。そこの公園で集めたんだ。……どうした?」
赤かった顔から血の気が引いていた。カゴには澄空と二人で集めた蝉の抜け殻がぱんぱんに詰められている。澄空が蓋を開けカゴをひっくり返す。玄関に大量の抜け殻がばらまかれた。
野田はマンション中に響き渡るような悲鳴を上げ、その場で腰を抜かした。




