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真昼の星を結ぶ  作者: ばやし せいず
第2章 可視光線
17/50

17 教師冥利に尽きる

 実習も三週間目に突入した。

 とうとう今週末にはこの学校を去ることになっている。


 今朝は早くに学校へ訪れた。美術室の窓際にイーゼルを並べ、一度提出してもらった自画像デッサンを置いていく。

 実習最後の週は、予定通りデッサンの講評をやる。一人一人の作品を生徒たちの前で評価していくのだ。

 並び終えたデッサンを眺めた。中にはクオリティの高い作品もある。その他は、正直に言ってしまえばドングリの背比べだ。

 けれど作品を目にすると、制作に取り掛かる生徒たちの姿を思い出せた。

 野田海頼(みらい)の作品も見つけた。他の生徒と比べ圧倒的にレベルが低かったけれど、他人と比較するなんて意味の無いことだ。


 二年三組と四組の美術の授業の時間になった。

 生徒たちを座らせ、イーゼルの前に立ちさっそく講評を始める。


 美術系予備校の講評では、これでもかというくらい精神をえぐられる。けちょんけちょんにされて泣き出し講評中に脱走する人間も、まれにだが存在する。

 美大や芸大を目指すならきつく酷評されたとしても、また制作に取り掛かろうと思うガッツが無ければならないが、藤ヶ峰(ここ)は予備校でもなければ美大、芸大でもない。嫌気がさして二度と絵を描かない生徒だって出てくるかもしれない。


 だから、とにかく作品を褒めた。

 上手い生徒の作品も、そうでもない生徒の作品も。

 他の生徒と比べるのでない。生徒自身の成長を見つけて褒めた。


「――次、野田海頼(みらい)さん。彼女には『自分自身の顔をよく触るといい』と伝え、実践してもらいました。だから、以前は線だけで描いていたけど、顔の大まかな形をとらえて影もつけられたし前よりずっとよく描写できていると思います。自分でも良くなったって思うでしょ?」


 野田は自分の席で、少し恥ずかしそうに頷いた。

 他人の講評を聞きながらクスクス笑うような生徒がいないことが救いだった。


「野田だけじゃなくて、他の皆にも言っておきたいんですが、何を描くにもまずよく見る、そして触ることが大切です。触ってみて初めてモチーフの構造に気付くこともあるので」


 時計を確認した。授業の終了時間が一刻一刻と迫っている。教師の都合で勝手に授業を延長することはできない。ペースを速める必要がある。


「野田のデッサンは口が特に描き込めているから、デザイン画ではそれを生かせたら面白いんじゃないかと思います。……じゃあ、次」


 早口で言い切った。

 実習なんて、教員として教鞭_を執ることに比べれば先生ごっこをして遊んでいるようなものだ。

 たったの三週間。

 その期間の中でできることなんて限られている。時間が足りなくてもどかしい。一人ひとり、野田のように時間をかけて向き合ってあげたかった。

 生徒の成長を見届けたいと思う自分がいた。


「授業はこれで終わりますが、今週いっぱいは学校にいるから質問があったらいつでも訊きにきてください。……皆さんと授業ができて本当によかったです。ありがとうございました」


 締めの言葉を口にし頭を下げると、生徒たち、そして宍倉からささやかな拍手を貰った。




「ラーメンおごるよ。今日なんてどうせやることないだろ」


 最後の研究授業も済んだ木曜日の放課後、宍倉に誘われた。翌日の最終日は授業も無く、確かに今夜はあまりやることが無かった。

 連れて行かれたのは近所の味噌ラーメン専門店だった。大学帰りに知り合いと行くような安っぽいところではなくて、ちょっと高級感のある店構えだ。


 提供された味噌ラーメンは「ラーメンといえば豚骨」という、今までの固定概念をひっくり返すほどおいしかった。宍倉は厚切りのチャーシューと半チャーハンも追加で頼んでくれた。宍倉も隣のカウンター席で麺を豪快にすする。


「三週間、どうだった」


 宍倉に訊かれ、箸を置き太ももの上に手を下ろした。


「先生のおかげで、充実した三週間でした」

「かしこまんなくていいよ。麺が伸びるぞ」

「……実は、実習中に考え方が変わりまして」


 両親にもまだ相談していないことだった。


「教師、目指してみたいと思います。不勉強なので一からやり直すつもりで、もっと勉強して挑戦しようかと」


 宍倉はレンゲでスープを飲み、「いいんじゃない」と言って口を拭いた。


「夏休み、いつからいつまで?」


 意を決して進路を打ち明けたつもりだったのに宍倉はあっさりと話を変えてしまった。「頑張れよ」の一言くらいあってもいいのではと思う。


「七月末から、九月の頭までですね」

「短いんだな」

「うちの大学、夏休みが日本一短いらしいです」


 信憑性は低いが、学内では有名な話だ。一年生には大量の課題も出される。その代わりかどうかはわからないが、春休みはうんざりするほど長い。


「夏休み中、藤ヶ峰(うち)でバイトしてほしいんだけどできるか? 自習室の監督を何日か。特にお盆の前までやってくれると助かるんだけど」

「バイト、ですか?」


 思ってもみなかった。実習が済めばもう藤ヶ峰(ふじがみね)に訪れることはないと思っていた。


「最低賃金だけどちゃんと給料も出るよ」


 返答に困った。

 まだ進路も明確に決まっていないし、卒業制作が控えていることもあって夏休みといっても悠長にしていられない。

 就活や実習でまともに出勤できていないが、アルバイトだって続けていた。二つ返事で「やります」とは言えなかった。


「話は変わるけど俺、今年度で退職すんだわ。絵画教室の講師やりながら作家活動やりたくてさ」

「えーっ、そうだったんですか」


 宍倉が「食事中にすまんな」とスマホを取り出し画像フォルダを開いて見せてくれた。宍倉の描いた油絵が何枚も保存されている。ほとんど女の子の絵だった。モデルは宍倉の子どもだそうだ。


「わー、めっちゃ可愛い」


 「宍倉先生の娘さんとは思えないっす」と言い掛けたが飲み込んだ。


「娘はもう社会人なんだけどな。昔の写真とかビデオとか見ながら描いてんだ」


 宍倉もまんざらではないという顔だ。

 色使いや構図には古臭さを感じてしまうが、モチーフは巧みに描写されている。制作に真摯に向き合ってきたことが見て取れた。

 宍倉はラーメンを食べるよう促しながら「ここからは独り言なんだけどさあ」と続ける。


「俺が辞めるってことは、来年から美術の専任教師がいなくなるってことだろ。だから誰かを新しく採用しなきゃいけないわけで。千葉先生にもしその気があれば、それとなく推薦しようかなと思ってんの」

「……俺を、ですか?」

「推薦っていっても、千葉先生の実習の様子を伝えるだけよ。野田海頼(みらい)のこととかさ」

「野田のこと?」

「自画像、かなり良くなってたよな。デッサンと一緒に提出させたレポートに、千葉先生のおかげだとか何とかつらつら書いてあったわけ。生徒のやる気引き出させて、千葉先生やるじゃんって見直したわ。ちょっとだけな」


 宍倉はまだ勘違いしているようだが、野田はやる気が無かったわけではない。

 でも、嬉しかった。教師冥利に尽きる思いだった。まだ教師ではないけれど。


「千葉先生は美術に加えて工芸の免許も取得するんだろ。だからもし藤ヶ峰の採用試験を受けるつもりがあるなら、バイトもしておけばさらに印象も良くなるんじゃないか」


「独り言だけどな」と宍倉が繰り返す。


「な、なるほどです」

「別に強制じゃないから。何にせよ、教師目指す気になったなら、自治体の試験とか他の私学の試験とかもちゃんと受けろよな」


 宍倉は店員を呼び、替え玉を二人分注文した。




 店外に出ると完全に日が落ちていた。会計を済ませた宍倉のためにドアを開ける。


「ごちそうさまでした」


 財布をしまいながら宍倉は片手を上げる。


「教師、目指したらいいよ。……今までの生徒の顔も名前もほとんど忘れたんだけどさあ、作品だけは一つ一つ思い出せるんだよ。不思議だよな」


 宍倉は電車で帰るというので、店の駐車場で別れることになった。バック駐車に手こずる初心者マークのヘッドライトが眩しい。


「アルバイトの件、明日までに返事します。……あと、採用試験のことで、またお話うかがってもいいですか」

「いつでも連絡しな」


 宍倉は口角を少し上げる。嫌味の無い笑い方だった。


 きっと、「助けてほしい」とさえ言えば、助けてくれる人なのだ。

 この人は。


「ありがとうございました」


 今日が最終日というわけではないが、ラーメン屋の駐車場の端で、深く深く頭を下げた。


 アルバイト先の店長に今よりさらに出勤日が減ることを伝えると、あっけなく了承してくれた。高校生やフリーターがよく働き、余剰人員に頭を悩ませていたらしく、むしろ感謝されてしまった。





 宍倉にアルバイトを引き受ける旨を伝えた最終日の昼休み、校内放送で生徒全員に感謝の言葉を述べることになった。二分ほど喋り、マイクの前から離れ、次に挨拶をする寺田にバトンタッチして放送室を出る。


 放送室の前で生徒三人が出待ちしていた。寺田に用があるのだろうと思って素通りしようとすると「千葉先生」と呼び止められた。

 三人のうち二人は美術の授業で教えた一年生、もう一人は船渡川(ふなとがわ)梓紗(あずさ)だった。


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