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真昼の星を結ぶ  作者: ばやし せいず
第2章 可視光線
16/50

16 誰のために

「ど、どうしたんだ、これ」


 やけになって、ぐりぐりと書き殴ったのだろうか。


「相当、ストレスがたまってるんだな……」


 哀れんで言うと、野田は「えっ!?」と短く叫んで顔を赤くさせ目くじらを立てた。


「千葉先生が首の影を描けって言ったんでしょ!」


 そういえば、月曜日の授業中に影を描くようにと教えた。しかし首の影だけを描けという言い方はしなかったはずだ。


「影は全体をよく見てつけないと。これじゃ黒いタートルネックを着ている人だよ」

「やっぱり、絵が得意な人には私の気持ちはわからないんです」

「悪かったよ。でも俺だって先生になってまだ二週間経ってないんだから、どう教えたらいいかわかんないんだよ」

「……実習生じゃないですか」


 野田の言うとおりだ。便宜的に「先生」と呼ばれているだけだ。

 ――熱血教師気取り。

 船渡川の言葉がまたちくちくと胸を差してくる。

 しかし、困った末にふてくされている生徒を目の前にしている今、「うざがられてもいいや」と思ってしまうのだった。


「じゃあ、別のアプローチ方法を。鏡で自分の顔をよーく見よう」

「宍倉先生からもそう言われたことあるけど、でもよく見てるし……」

「よく見れば、首だけじゃなくて頬骨や鼻の周りにも影ができてるのがわかるだろ」

「見ただけじゃわからなくないですか?」


 腕を組み、通っていた美術系予備校で血の滲むような努力をしていた日々を思い出す。どんな取り組みをしていたか、頭をフル回転させて記憶を呼び起こした。

 「見る」以外にしていたこと。

 そうだ。

 めちゃくちゃやっていたことがある。


「触ればいいんだ」

「触る? 顔をですか?」

「そうそう。例えばモチーフがリンゴだったらリンゴをよく触る。そうすると、ただの丸じゃなくて平たいところがあるなーとか、べたべたしてるなーとか、良いにおいがするなーってわかるでしょ。今描いている自分の顔もよく触れば発見があるし、その分、形が拾えるから」

「形が拾える?」

「えーと、描写することができるって意味。ほら、まずは顔の横、触ってみ」


 野田は素直に自分の顔の側面に手を当てた。


「顔の横は奥まっているってわかるよね。瞼も鼻も、触ってみると奥まっているところがある。で、影ができている。『よく触る』、『よく見る』を繰り返しやって描いてみよう」


 野田は頷いた。


「……やってみます」


 良い返事をくれたので邪魔しないように席を離れる。

 急に手持ち無沙汰になり、美術部員の一人が釘打ちに苦戦していたので手伝うことにした。

 野田は鏡を睨みながら、顔をぺちぺちと触っている。

 黙々と作業している時に余計なことを言わない。宍倉の助言はもっともだと思った。野田を信じて、ただ見守ることにした。

 野田の集中力は、美術室から生徒たちを追い出して鍵を締めなければならない時間まで続いた。


「野田は描けたのか?」


 作業を終えた宍倉が野田のスケッチブックを覗き込んだ。


「急成長してるじゃん。立体的になってる」

「千葉先生が指導してくれたので」

「へえ、そうか」


 デッサンを見せてもらった。全体的に影がつけられ、数時間のうちに見事に進化していた。


「千葉先生、教え方上手いじゃないですか」


 鉛筆を片付けながら野田が笑う。

 笑うと、彼女の目尻が垂れていることがよくわかる。

 姉弟そっくりというわけではないが、野田と澄空は笑った顔がよく似ていると思った。




「千葉先生、ちょっといいですか」


 職員室に入室するなり声を掛けてきた菅原は、無表情を装ってはいるが、目の奥にめらめらと炎を宿していた。

 連れて行かれたのは職員室の隣の、生徒指導室という名の多目的室だった。ドアが完全に閉まるより先に「船渡川(ふなとがわ)さんたちのことだけど」と切り出し電気を点ける。

 頭上の蛍光灯は二人しかいないこの部屋には勿体ないほど明るく、光量に目が慣れず瞼を半分しか開けられない。


「『私が注視する』って言ったんですよ。『本人たちに掛け合ってください』なんて言ってないんだけど?」

「えっと……。船渡川さんに何か言われたんですか」

「自分は野田さんに嫌がらせなんてしていない。千葉先生の勘違いだって言ってました」

「それだけですか」


 まず不安になったのは、「野田海頼(みらい)と実習生が家を行き来した」という事実を船渡川が菅原にチクったかどうかだった。


「はあ?」

「あっ、いえ、あの……。すみません」


 菅原の反応からするに、恐らく耳に入っていない。

 船渡川は黙秘してくれたのだ。


「船渡川さんの言うとおり、勘違いだったようです。さっき野田さんにも確認したんですが、喧嘩してるわけでも、嫌がらせされているわけでもないって言ってたので」

「野田さんにも訊いたんですか!?」


 菅原は一度眉を吊り上げ、やれやれと片手で顔を覆った。


「千葉先生は実習生ですよね? 再来週には来なくなる実習生なのに、生徒のことをかき回さないでくれるかな。何か気付いたことがあったら、生徒じゃなくてまずは教職員に相談してくださいよ。勝手な行動をされると迷惑なので」


 菅原に捲し立てられている自分が無性に情けなくなり、「すみませんでした」と呟くのが精いっぱいだった。

 出過ぎた真似をした。

 もっと深く考えて行動すればよかった。

 教師になる気なんて無かったのだから、最低限のことだけやり遂げて実習を終わらせればよかった。実習生の分際で生徒二人と、教職員である菅原をかき回してしまった。


「じゃ、お疲れ様」


 菅原は廊下へ出て勢いよくドアを閉めた。

 何故かもう一度、菅原が「お疲れ様です」と言ったのが聞こえた。ドアが再び開く。


「鍵、持ってる?」


 顔をのぞかせたのは宍倉だった。

 ポケットの中に美術室の鍵を入れたまま返していないことを思い出す。菅原につかまって、すっかり忘れていた。


「菅原先生に何か言われたのかい」


 宍倉が重そうな瞼を少し持ち上げた。


「……勝手なことをするな、と。僕が勝手に船渡川と野田の二人に直接、トラブルが無いのかどうかを確認してしまって、それで迷惑をかけました」

「迷惑って、菅原先生にか」

「もちろん、宍倉先生にもです。……すみませんでした」

「俺は関与してないんだけど」


 宍倉が自分の頭を撫でた。


「千葉先生は、何のために先生をやるんだい」


 今日の夕飯のメニューを訪ねるような調子で宍倉は言う。


「何のためにって」


 どう答えたらいいのかわからなかった。

 突発的にされるような質問ではない。「お前はやる気が無い」と嫌味を言うための糸口としてそんなことを聞くのだろうか。ついそう勘繰った。


「誰のために先生をやるのかってことだ。同僚の先生か、それとも生徒か」

「生徒です」


 気付けば、即答していた。


「そうだよな、生徒のためだよな。教職員のためじゃない。千葉先生は野田と船渡川、どっちのことも心配して声を掛けた。違うか」

「……違わないです」

「じゃあ、胸を張っていいんじゃないか。千葉先生は教師として、生徒である船渡川と野田のために行動したんだろう」


 一呼吸おいてから、「はい」と返事した。

 声が震えそうだった。


「そんなに気落ちするなって。遅いからもう帰りなさい」


 ぽんと肩を叩かれた。宍倉は肩を叩いたその手をじっと見つめる。


「こういうのってセクハラになるのかな」


 宍倉が真顔で訊いてくるので「完全にセクハラですね」と返すと、笑ってくれた。

 こんなくだらない会話で笑うならもっと早く冗談を言っておけばよかった、と思った。




 校長や教頭、教務主任を見つけ挨拶をし、マリア像のある立派な玄関ホールで靴を履き替える。

 宍倉を飲みにでも誘おうかと考えていた、少し前の浅はかな自分が恥ずかしい。

 でも、そうだよな、実習生として生徒のために行動している姿を見せることが、一番の突破口だよなあと思いながら、いつもより長めにマリア像に手を合わせた。


 バス停へ向かいながら自分の口から出た言葉を反芻する。「誰のために先生をやるのか」と宍倉から訊かれ、即答した「生徒です」という言葉だ。


 「教師になる」という確固たる意志も無かった自分が、反射的にそう答えたことが、いつまでも信じられなかった。


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