14 アズ
「……睨みつけるって?」
船渡川は、全く心当たりが無いという表情だった。
もっと掘り下げないといけないのか。
気が重いが、意を決して口を開いた。
「野田海頼と何があったのかは知らないけど、嫌がらせはやめておけよ」
そこまで言って、やっと船渡川は頷き、「へえ」と呟く。
彫刻刀の先のような鋭さを持つ「へえ」だった。
「何かあったのかって、菅原先生にも言われた。嘘言ったのって、千葉先生だったんだ」
「嘘? だって、本当に睨んでただろ。野田と喧嘩でもしたのか? まさか、いじめなんてやってないよな? 変な噂流すとか」
「は!? そんなことするわけないじゃん! おかげで菅原先生に呼び出されたんだけど。……たかが実習生のくせに熱血教師気取りかよ。うざ。最悪」
船渡川は荷物を片付け教室を出て行ってしまった。
「たかが実習生のくせに」って。他人を馬鹿にしないんじゃなかったのかよ。
みぞおちの辺りがぐっと重くなった。
何よりも効いたのは「熱血教師気取り」という言葉だった。
職員や、本気で教師を目指して実習に来ている学生から見れば、自分の姿は不真面目で目障りだろう。生徒だって見抜いているかもしれない。
こんな人間が教師気取りで生徒同士の関係に口を出すなんて、うざいと思われても仕方がない。
作業を再開し、画鋲を親指でぐりぐりと押し込みながらため息を吐き出した。
次の日の放課後、今度は宍倉に頼まれて美術室へ向かった。
自画像デッサンが仕上がっていない生徒たちが居残ることになっていて、その監督を任されていた。宍倉自身も美術室に来るのだが美術部の部員たちの指導をしなくてはいけないらしい。
階段で美術室のある四階まで上がる。廊下の窓が全て開け放たれ、ぬるく湿っぽい風が入り込んでいた。
童謡を歌う子どもたちの声が聞こえてくる。窓の外を見下ろすと藤ヶ峰幼稚園の園舎があった。合唱はその園舎から聞こえている。
不明瞭な歌声だが、この歌のタイトルはすぐに思い出せた。「たなばたさま」だ。
来月の七夕に向けて、園児たちは歌を練習し、笹の葉を飾ったり短冊にお願い事を書いたりするのだろう。
通っていた保育園や小学校でも七夕祭りをした。好きな色の短冊を選び、お願い事を書くのが毎年の楽しみだった。
廊下に視線を戻すと、ずっと向こうに女生徒の後ろ姿を見つけた。
「野田! 登校できるようになったのか」
振り返った野田の顔色は、我が家に来た時よりも随分と良くなっているように見える。
わざわざ廊下を引き返した彼女に、小さな紙袋を渡された。中には澄空に貸したパジャマと箱入りのお菓子が入っていた。
「ありがとうございました。本当に助かりました」
「お気遣いどうも」
声も以前より明るい。すっかり元気になったようで、心底から安心した。
野田の腕や脚を盗み見してみるが、やはり傷は一つも見当たらない。手がかさかさと荒れているだけだ。
二人で並んで歩く。
廊下の一番奥にある、中等部と高等部兼用の美術室を部員たちが出入りしているのが見えた。
「明日までに仕上がるか不安です」
デッサンのことを言っているのだと気付くまでに数秒要した。そうか、居残って仕上げていくつもりなのか、と頷きながら野田の話に耳を傾ける。彼女のスケッチブックの絵は、やる気の無さが反映されたわけではなく、ただ単に絵が苦手なのだろう。
「微熱が続いていたので、二日間も休んじゃって」
「澄空の世話もあったし、あんまり休めなかったんじゃないの」
「日中は幼稚園へ行かせてるのでちゃんと休めました。送り迎えも母がやってくれて」
「それはよかった」
親なのだから、普段から送迎くらいすればいいのに。
少し心がとげとげとしてくる。酔っぱらった自分の母から「虐待」なんて単語を聞いたせいだ。
しかし野田の明るい表情を見ていると、どうしても現実的な話には思えなかった。
「いただいたカレー、次の日にガラムマサラをかけて食べたんですけど、とっても美味しかったです! 母も『こんな便利なものが売ってるの』って感動してました」
「あ、お母さんに……」
「母には千葉先生のことは言ってないので安心してください。友達がお見舞いに来てくれたってことにしちゃいました」
なんて気遣いのできる若者なんだ!
「めちゃくちゃ助かる。……その、他の先生とか友達とかにも黙っておいてくれる? お互いの家に行き来したことがバレるとまずいし」
俺の実習が取りやめになる可能性がある。
「もちろん、言いませんよ」
「ありがとう。まあ、困ったことがあったら、またこっそりおいでよ。うちの母親も子どもの世話ができて嬉しかったみたいだから。カレーなんかでよければ作るし、風呂も入れるし」
「アズ?」
野田が振り返り首を傾げた。
「あずって?」
突然のネットスラングか?
彼女の視線を追う。
「えっ!?」
振り返った瞬間、回転しながらとんでくるスケッチブックを視界に捉えた。




