12 内緒の子ども
場の空気が凍ったことに、純粋な幼児はもちろん気付いていない。
「ねえ、なんなの?」
「……その噂、知ってるんですね」
野田がれんげを皿のふちにかける。伏せられた目元が暗い。
その表情を見ただけでわかる。
噂は本人の耳にばっちり入っているし「隠し子がいる」と言われていることを気にしている。
澄空は「カクシゴってなんなの!」としつこい。
「……内緒の子どもってこと」
野田が小声で言う。
「ナイショノコドモってだれ」
「誰っていうか……」
「幼稚だよな! 高校生にもなってそんなこと言っててさ!」
二人の会話を遮るように言い、やれやれと大げさに肩を落としてみせる。
「先生はその噂、信じないんですか?」
「信じるか! アホくさい。どう見ても弟だろ」
くだらないと思うし、それを聞き流せない野田にもやきもきしてしまうが、狭い世界だから仕方がない。卒業した公立高校でさえ息が詰まる時があった。箱庭のような一貫校では、なおさら窮屈に感じることもあるだろう。
「……ああっ!」
カレーを口に運ぼうとしてあることを思い出し、#素っ頓狂__すっとんきょう__#な声を上げてしまった。
「えっ、何ですか?」
「おっきいこえ、こわいよー」
口の周りをカレーで汚した澄空が耳を塞ぐ。子ども用のスプーンが床に落ちた。
「ごめんごめん、『あれ』を忘れてたと思って」
食事中だが立ち上がり、キッチンの棚に忘れ物を取りに行く。
「甘口カレーにはこれをかけないと」
チャック式の小袋を持って自分の席に戻る。ティースプーンで赤い粉をすくいカレーに振りかけた。きょとんとしている野田に炎の絵が描かれた赤い小袋を渡す。
「……ガラムマサラ? 調味料ですか?」
「甘口カレーのルーの上にかけてみな。激辛が好きならスプーン三杯くらいかな。結構辛くなるよ」
「えー、からくなっちゃうの? やだあ」
「そう。だから澄空はかけない方がいいよ」
床に落ちたスプーンを洗い澄空に返す。
「じゃあ、澄空用にまず甘口カレーを作って、大人が食べる時にはこのガラムマサラをかければ辛口カレーになるってことですか? す、すごすぎる……!」
ガラムマサラの袋を手に、野田は目をキラキラと輝かせた。
「これがあれば甘口のカレーと辛口のカレーでお鍋をわけなくていいんだ……。洗い物も減るし最高!」
「あまくちはさいこーだよね」
くだけた口調になって喜ぶ野田の反応に気がよくなり、また別の調味料を取りに立つ。
「こっちの玉ねぎペーストも時短になる。炒め玉ねぎってめちゃくちゃ時間かかるけど、これは具材と一緒に鍋に入れて煮込むだけだから。あとリンゴペーストとか、チャツネとかも売ってるんだけど、そっちもおすすめ」
「こんな便利なものがあるなんて知らなかったです。カレーを作る時、絶対に使います!」
「うちのカレーとガラムマサラを持っていっていいから、家で試してみて。野田の家に冷凍うどんあっただろ。それと合わせてカレーうどんにしてもいいし」
野田から表情が消えた。
「…………なんでうちに冷凍うどんがあるって知ってるんですか?」
「あ」
再び墓穴を掘った。
冷や汗をかきながら、野田の家に勝手に入ったことを白状する。置手紙もあるから、どのみちバレることなのだ。
「本当にごめん。でも、澄空を一人にしておけなくて」
「…………いえ、い、いいんです」
野田は顔を赤らめながら、やっと雑炊をまともに食べ始めた。
「ちょうど昨日、大掃除したんです。なので、だ、大丈夫です」
――大掃除?
もう少し散らかせば映画「ホーム・アローン」の真似事ができそうな野田家のリビングを、つい思い返した。
保冷バッグの中にカレーとジャガイモとガラムマサラ、そしてついでに玉ねぎペーストとリンゴペーストも入れて野田に持たせた。
「親御さん、そろそろ帰って来るか?」
「おやごさん、かえってこないよ。ママだけかえってくる。パパはおとまりなんだ。びょういんでがんばってるの」
「へえー、病院で? 医者とか看護師とか?」
「まあ、そんなところですね」
澄空の靴を直しながら野田が歯切れの悪い返事をする。別に詮索するつもりはないが、両親のこととなると言葉を濁されるから、少し引っかかる。
「じゃ、また学校で」
今日はご近所さんのよしみで家に上がったり上げたりしたが、明日からはまた実習生と実習先の生徒という関係に戻る。
「ゆっくり休みなよ。無理かもしれないけど」
一生懸命になって靴を履いている澄空を見下ろした。
「ありがとうございました。先生のお母さんにもよろしくお伝えください」
最後まで礼儀正しく振舞って、野田は澄空を連れ十三階の自宅へ帰っていった。
夜、父が風呂に入っている間に母が女子会(?)から帰ってきた。頬から耳にかけて赤く染まっている。酒を飲むとすぐ顔に出る。
「あの後、大丈夫だったの?」
「野田も澄空も完食して帰っていった」
ノートパソコンで来週の授業の指導案を清書しながら答える。
「両親が忙しいから、ほとんど毎日弟の世話してんだって。偉いよな」
「十三階の野田さんかあ。全然面識が無いけど、どんな人たちなのかしらね。まったく!」
母を振り向くと、目が据わっていた。
酒のせいで語勢が荒々しいのか本当に腹を立てているのか、横顔だけでは判断しかねた。
「子どもに子どもの世話をさせるなんて戦前戦後じゃあるまいし。お風呂で澄空くんの体を見た感じ、身体的な虐待は無さそうだったけど」
物騒な単語が母の口から放たれ、ぎくりとして「まさかあ」とおどけてみせた。しかし母は「身体的な虐待」という言葉を口にした時のまま、表情を変えずにいる。
「するわけないだろ。虐待なんてされているように見えるか?」
「なんの変哲の無いように見える家庭の中でも、虐待ってのは行われてんのよ。ネグレクトって言葉、あんたも聞いたことあるでしょ」
「でも、父親なんて医療従事してるらしいよ」
「職業は関係無いでしょ!」
怒りの矛先がこちらに向かいそうなので、それ以上反論するのはやめておいた。
「あの子たちに、またいつでも夕飯食べに来てって言っておいてよ」
「弟に言ったら、また真に受けるよ」
「真に受けていいのよ」
洗面所から出てきた父に「おかえり」と声を掛けられ、母はやっと平常時の顔つきに戻った。
野田家の玄関に置かれていたフォトスタンドを思い出す。
記憶の中の四人の顔は既にぼやけていたが、文句のつけようのない幸せそうな家族写真だったことだけははっきりと覚えている。家族写真を飾るような家庭の中で、母の言ったような事件が起きているとはどうしても想像できない。
船渡川とのこともあるし、学校で野田に会ったらまた声を掛けてみようと思った。
しかし次の日の火曜日、野田は学校を休んだ。
その次の日も、来なかった。




