10 トイレ
「えーっ、ぼーけんって、ここなの~?」
冒険の目的地が二○一号室だと気付き、スカイは大げさに肩を落とす。
「がーん。おもちゃなかったから、やだー」
「すぐ帰るからさ」
渋るスカイを家に上げ、冷凍室からカレーの入ったタッパーを取り出す。
このタッパーを持って再び野田家に戻るつもりだった。育ち盛りの姉弟が具無しのうどんだけで済ませるなんて健康上よろしくない。うちの冷凍室にはレンジアップの食品が常備されているので、カレーが無くなったところでたいして問題は無い。
「冒険したおかげでカレーがゲットできただろ」
反応が無いので振り返る。スカイは思いつめたような顔でこちらを見上げている。
「どうした?」
ごにょごにょと何か言っているが聞き取れない。具合が悪くなったのだろうか。
スカイの前にしゃがむ。「トイレ」という単語が聞き取れた。
「え」
トイレ?
「スカイ、トイレいきたいんだったあ……」
川のせせらぎのような心地よい音がかすかに聞こえてくる。
スカイの足元を見下ろすと、いつのまにか床に小さな水たまりが生まれていた。
「えっ!? ちょっ、待てっ!」
しかし「待て」と言って止められるはずもなく、スカイの足を中心にして水たまりはどんどん広がり、奇跡の泉が湧いたかのようになっていた。
全て出し切ったスカイは「どうしよお」と眉を八の字にして立ち尽くしている。
「きもちわうい……」
「当たり前だ! あー、もう、他人の家でなにやってんだよ」
つい語気を強めると、うるうると目に涙を浮かべ始めた。
「泣かなくていいから、とりあえずズボンとパンツ脱ぎな」
姪たちのお下がりの服が和室の押し入れにしまってあった気がする。とりあえずそれに着替えさせればいい。それより先に風呂に入れるべきか。
予想外の出来事にパニックになっていると、玄関からガチャガチャと錠をいじる音が聞こえた。
「大地! 鍵、掛かってなかったよ?」
濡れて重くなったズボンをずるっと脱がせてやったその瞬間、仕事帰りの母がリビングに入ってきた。
母は元保育士だ。助かった。
買い物をしてきたらしく、両手に荷物を提げている。
「オートロックでも用心しなさいってあれほど……」
母と目が合った。
買い物袋や、よく購入する十二ロール入りのトイレットペーパーが母の手から滑り落ちる。
「大地、あんた」
母は息子であるこの俺とパンツ丸出しのスカイを引きつった顔で見比べる。落としたトイレットペーパーをもう一度拾い上げ、頭上に掲げた。
「な、なにす」
「二度とウチの敷居をまたぐなああああっ!!!!!!!」
母がぶん投げたトイレットペーパーが顔面に直撃した。
「うがあっ」
衝撃で体勢を崩し床にしりもちをつく。
「ほらっ、きみ! 早くこっちに来なさいっ!」
鬼に出くわしたかのように母は叫ぶ。
「もう大丈夫だからね!」
「母さん、俺のことを何だと……」
母は最悪な勘違いをしていないだろうか。
立ち上がろうとして、足を滑らせ思いきり転び、しりもちをつく。靴下が濡れてひんやりとしていた。薄黄色の奇跡の泉をうっかり踏んだらしい。
「うわ、最悪ー!」
「最悪なのはあんたよ!」
「……きゃははっ!」
俺と、怒り狂う母を見比べて、スカイが無邪気に笑った。
誤解が解け、母がスカイを我が家の風呂に入れることになった。保育士やベビーシッターをしていたこともあって「腕が鳴るわ」とすっかり上機嫌だ。
野田家の鍵を持って、一人エレベーターに乗り込む。行先は十三階だ。
通路に出ると既に日は暮れかけ、数時間前にお祈りを捧げた教会の十字架が薄暗闇の中にぴかっと光っていた。
野田はまだ寝ているのだろか。電話番号を残してきたが、スマホには何の通知も来ていない。
一三○一号室の前に着き、インターフォンを鳴らそうかドアを開けてみようか迷っていたその時だった。
「スカイーっ!!!!」
叫び声が聞こえたと同時にドアが全開になった。
ドアの淵が顔にクリティカルヒットして本日二度目のしりもちをつく。
「先生!?」
ドアがぶつかったせいで顔に激痛が走り、目の前がしばらく白く光っていた。数秒してやっと視覚が回復し、血相を変えた野田を見上げる。
気にしないで、大丈夫だからと涼しげに返す言葉を遮るように、野田が「スカイ、見ませんでした?」と問い詰める。
「テレビを観ていたはずなのに、気付いたら家にいなくて」
野田は取り乱していた。危うく他人に怪我を負わせる状況だったことに気付かないほど。
「テレビを観せている間にちょっとだけ寝ちゃおうって思って……。まさか勝手に外に出て行くなんて……」
彼女は靴すら履いていなかった。白い靴下に通路の砂埃がついてしまっている。この様子だと、電話番号を書いた書置きも見ていないのだろう。
「落ち着いて。スカイならうちにいるから」
今のうちにと鍵を返しながら言うと、
「ゆ、誘拐……?」
野田の顔がさらに青くなった。
「ちげーわ!」
つい野郎仲間にするような突っ込みをしてしまう。
「スカイ、俺の家に一人で遊びに来て、で、トイレが間に合わなくてさ。俺の母親が風呂に入れてるところ。迎えに来てくれると助かる。具合が悪いのに申し訳ないけど」
「トイレが?」
野田はさっきまでは青かった顔を、今度は赤く染めた。
「お漏らししたうえに、お風呂まで……。体調はもう大丈夫です。寝たらすっきりしました。先生にも先生のお母さんにもご迷惑かけてすみません。おうちの床、掃除させてください」
「もう片付け終わったよ。親は元保育士だから慣れてるし、そんなに気にすることないって」
「……本当にすみません」
野田は「ちょっと待っていてください」と言って家に入り、マスクをつけ靴を履き、すぐに戻ってきた。
我が家のリビングから、スカイの笑い声と走り回る足音が聞こえてきた。
「こらあ、待ちなさーい」
楽しそうな母の声もまじる。ただいまと声を掛けると、イチゴ柄の古びたパジャマを着せられたスカイが廊下に飛び出してきた。髪がまだ少し濡れている。
「あっ、おねえちゃんだ!」
「スカイっ! もう……」
野田は床に膝をつき、のんきに笑うスカイの小さな体を抱え込んだ。
「一人で出て行っちゃダメでしょ! 誘拐でもされたらどうするの……」
スカイをきつく抱きしめる彼女の腕が少し震えていた。
野田もこうして弟のことを心配するのかと、少し意外な気持ちでその姿を眺めていた。スマホをいじってスカイの相手をしなかった時の印象が強く、もっとドライな対応をしているものだと思っていた。
熱心にスマホをのぞきこんでいたのは、診察の順番を確認していただけらしいのに。
「スカイくん、お姉ちゃん来てくれてよかったねえ。お姉ちゃんも心配だったでしょう」
バスタオルを手に母が登場し、野田がはっと顔をあげた。目元を拭い、慌てて立ち上がる。
「一三○一号室の野田です。千葉先生にはいつもお世話になっております。その、お家を汚しちゃったみたいで、すみません。お風呂まで入れていただいて」
ご丁寧にどうも、と母が笑う。
「うちのシャンプーと同じだってスカイくんが言ってたから、ついでに頭も洗わせてもらいましたけど、勝手なことしてごめんなさいねえ」
「とんでもないです! 助かります。スカイも、『ありがとうございました』でしょ」
「スカイ、いえないの」
スカイは野田の背後に周り、彼女の太ももで顔を隠している。
「おなかすいたから、いえないの」
「ちゃんとお礼しなさい!」
「おなかすいたのっ!」
スカイが怒鳴るのと同時に、キッチンから間抜けなメロディが鳴った。炊飯器の中でごはんが炊き上がったことを知らせるための電子音だ。
「ついでに夕ご飯も食べていったら。お姉ちゃんは具合悪いんだっけ。雑炊にしましょうか。レトルトだけど」
「いえ、これ以上ご迷惑をおかけするわけには」
「スカイもぞーすい、たべる!」
「迷惑じゃないわよお。スカイくんにはカレー出してあげるね。甘口だから。そういえば、アレルギーってある?」
「二人とも無いです。でも、本当に大丈夫なので」
「アレルギー、なーい!」
ぐうっと誰かのお腹が鳴る。
野田が再び顔を赤くし、胃の辺りをおさえた。




