第5話 五月に目覚めのキスを
「ゆーくんからキスしてほしいな」
「……」
「いつも銀千代からだから、ゆーくんからキスしてくれるとほんとに愛してくれてるんだなぁって安心できると思うんだ」
「……」
「出来れば猟奇的なやつがいい。すんごく激しいの。今日一日、銀千代の唇は空いてるからね。いつでもいいからね。わかった?」
「わかんない」
「ゆーくんからキスしてほしいな」
「いや、それはもう聞いたけど」
もう一巡するつもりかよ。
「よかった。じゃあ、よろしくね」
「よろしくじゃねぇよ。どけって」
朝起きたら銀千代が覆いかぶさっていた。
柔らかくてちょっといい匂いするから、わりと目覚めは良い方だったけど、このままでは起き上がることができない。
「どきません」
力を込めて上体を起こそうとしたが、岩のように動かなかった。理由を聞いたら「キスしてほしい」とわけのわからないことを言われた。イカれているらしい。
「絶対どかない。ゆーくんが約束してくれないと」
「約束って何だよ」
「ゆーくんからのキス」
唇をルージェラのように突き出される。
「なんでそんなことしなきゃいけないんだよ。大体お前いつも勝手に俺の唇奪ってんじゃあねぇか」
この間寝苦しいなって思って目を開けたら銀千代の顔面が目の前にあった。寝ぼけたフリして頭突きしてやったら「ぎゃ」と小さな悲鳴あげて去っていった。現代妖怪かお前は。
「いつもフレンチだから。ディープなやつしたいの。舌絡ませるエロいやつ」
「……」
必死に頑張って、そういう感情にならないようにしてるのに、まじで勘弁してほしい。
後悔先に立たずとわかりきっているし、どのような罠が仕掛けられているか想像つかないからだ。
最後の砦なので理性が崩壊する可能性のあることはできるだけしたくない。
「大人のキスしよう。ついでに続きもしよう」
「いつかな」
「ゆーくん! いつかって今さっ!」
銀千代の顔面が近づいて来たので、
「ぐっ!」
ドッチボールを掴むようになんとか抑える。
「お前、俺からの、とか言っといって結局力技じゃねぇか!」
「だって、キスしたくなっちゃったんだもん。ゆーくん、かっこいいから。こんな整った顔が目の前にあったらたまらなくなっちゃうのは仕方ないじゃない!」
ちなみに悲しいことに、俺の容姿について褒めてくれるのは祖母と銀千代くらいである。しばらく不毛なやり取りが続いたが、なんとかキスを避けることができた。
正直言うとしたくないわけじゃない。俺も男子だし、銀千代は美人だから、むしろ願ったりかなったりなのだが、寝起きはいかんせん。口が臭いのだ。
「もう帰ってくれ頼むから」
歯磨きしたい。
そういう察する力が弱いところが銀千代の弱点なのである。
「キスしてくれたら帰ります」
「前向きに検討するから、今はとりあえず帰れって。授業の準備しないとだから」
「わかった。約束だよ」
といって銀千代は去っていった。
朝っぱらから憂鬱になる。
というか、どっから入ってきてるんだ? ドアと窓の鍵は締めてるし、チェーンも……。
「あっ」
床にバキバキにおられた内鍵が落ちていた。銀千代がちぎったらしい。だからここ賃貸だって。
俺の通う大学は電車で五駅行ったところにある。どうせなら近くに住もうと考えていたのだが、家賃が想定よりも高くなるし、あまりに学校が近いと、友人が入り浸るからと親に反対されたのだ。
定期代を差っ引いても、だいぶマシな家賃に落ち着き、一人暮らしライフは割と満足できている。
一つ問題があるとすれば、幼馴染兼恋人の金守銀千代が隣に住んでいることだ。
高校在学中に芸能活動を行うほどルックスが整っていて、頭も良いが、性格はこの世の終わりを煮詰めたように濁っていた。
「ゆーくん、そんなじっと見つめられると照れちゃうよ」
と小さく囁くように呟きながら、あざとらしく頬を赤らめる。
電車でドア横を確保できたと思ったら、満員電車で押しつぶされかけている。一応彼氏なので、壁側を譲ってあげたが、電車が揺れるたびに銀千代にボディタッチしてしまうので、なんだか罪悪感だ。
「仕方ないだろ。身動き取れないんだから」
だから一限の講義は嫌いなのだ。早起きしなきゃならないし、通勤ラッシュにもろに被るから、朝から体力ゲージが削られて真っ赤になってしまう。
しかも利用している路線は地下鉄なので、真っ暗な車窓は気を滅入らせるし、どこかすえた臭いがして苦手なのだ。
軽く立ちくらみを覚えながら、朦朧とする意識を両手に託して手すりに掴まっていると目の前にいる銀千代の身体がビクリと震えた。
「?」
「……」
銀千代は何も言わない。
なんだろうか。いつもは無駄におしゃべりなのに、途端に無口になっている。どうでもいいが日本の満員電車は海外の人から走る棺桶と揶揄されるほど静寂に支配されているらしい。現に車内に響くのは車輪が軋むことと空気が車体にぶつかる音だけである。
「どうした?」
小さく耳元で尋ねると、銀千代は浅くため息をついてから「なんでもないよ」と力無く応えた。
変だ。いや、変なのはいつもだけど、早朝のテンションとは打って変わって、元気が無いように見える。なんとなく、そう思って、なんとか身を捩らせて、呼吸が取りやすいようにスペースを確保してやる。
「……」
銀千代のお尻に手があった。
痴漢?
目線を這わせて腕の主を辿ると俺の横にいるスーツ姿のおじさんだった。
手の甲が無意味に銀千代の臀部に密着している。一見、満員電車でそうなった、風にも見えないが、故意にしか思えない位置だ。
「……」
対処法がわからないからとりあえず銀千代のお尻から離れるように空手チョップを食らわせてやったら、「いって」と呟いて男は手を引っ込めた。
睨みつけられたので睨み返してやった。お互いの防御力がぐいっと下がった気がしたが、最後まで目線を外さなかった俺の勝ちだ。
大学の近くの最寄駅についたので、人波に流されるように降車する。
長いエスカレーターがゆっくりと地上へ俺たちを運んでいく。吹き抜ける地下鉄の風が、前に立つ銀千代の髪を乱していた。
「……」
特に何も会話はなく、先程の出来事は無かったことにしよう、と暗黙にするのかとぼんやり考えていたら、改札を出て大学に向かう途中、
「悩んだんだ。締め上げるかどうか」
と銀千代がポツリと呟いた。
「銀千代の肉体はゆーくんのものだからゆーくん以外の人間に触られるのは本当に許せないことなんだけど、騒いだらゆーくんが講義受けられなくなって単位落としちゃうし……」
「一回受けなかったくらいで単位落とさないよ」
「うふふ……」
笑ってごまかされた。どうやら今俺は単位が取れるかどうか瀬戸際らしい。
「だからゆーくんが守ってくれて嬉しかったよ」
一転、明るい調子で銀千代が目を線にする。
「守れたのかな。なんかもっとちゃんとすべきだったんだんじゃないかと今更後悔してるよ」
「銀千代がいいって言ってるから全部いいんだよ。あの人には後ほど然るべき報いをあた……」
「……」
「ともかく、ゆーくん、本当にありがとう」
「ああ、いや、どういたしまして」
銀千代が澄んだ空気の中で優しく微笑んだ。お礼を言われるほどのことをしたとは思えなかったが、朝焼けに照らされた笑顔はドラマのワンシーンのようにきらびやかで、一種の芸術作品を思わせた。
あたりは校舎に向かう学生や駅に向かうサラリーマンが多く、ガヤガヤと賑わっている。
もし、いま、誰もいなかったら、俺は銀千代にキスしていたかもしれない、なんて、やってもいないことについて軽く妄想した。