氷の城 2
暇つぶしと称してアンジェラは四王将棋をもちかけた。トッドがルールを知らなければ、それを教えることでまた時間がつぶせる。しかしトッドは知っていると応えた。
ボーディス、とも呼ばれるそのゲームは銀河世紀の開闢と共に広まったボードゲームの一種である。テラ系種の伝統的なチェスや将棋といった、机上戦争を核として創造されていた。男女四人でするということもあって、古くから王侯貴族と呼ばれる人々によって嗜まれてきた優雅なゲームだ。
ボーディスのボードは縦10✕横10の百個の正方形が赤と黒で市松模様に塗り分けられている。男と男、女と女がボードを挟んで向き合い、《日王》と呼ばれるキングと日王の軍(教皇、公爵、騎士、戦士、戦車、歩兵から成る)を男が動かし、《月王》と呼ばれるクィーンと月王の軍(女教皇、女公爵、女騎士、女戦士、戦車、歩兵から成る)を女が動かす。また、対峙する両軍団は日王の置かれている枡目の色により《黒の軍》《赤の軍》と呼ばれる。
駒の動きは核となったボードゲームと同じだが、一度取られた駒はその後は使用できず、月王を取らなければ勝利とはならない。
原則として二組の男女がするゲームだが、日・月、両王の軍をひとりで動かし、赤と黒のみに分かれてふたりの人間で対戦することもある。いずれの場合も月王の存在が勝敗を決定する。
競技場としてふたりは中央操船室を選んだ。モーガンに直結する端末及びディスプレイなどは〈モルガーナ〉の各船室に備えられているが、アンジェラとトッド、どちらかの部屋でふたりだけで──厳密にいえば対局相手の電脳ペアもいるのだが──ゲームに興じることはユアンの存在を蔑ろにすることであり、彼がそんなことなど歯牙にもかけぬ人間だとしても避けたほうがよい事態だと思われたからだ。もちろん、それについての相談はなく、すべては暗黙のうちに了解されていた。
アンジェラが黒の月王の軍、トッドが黒の日王の軍、モーガンが赤の月王の軍、ビショップが赤の日王の軍を、それぞれ動かしてボーディスは進められた。
たとえゲームのあいだだけのことにしろ、アンジェラがトッドを彼女の日王にしてくれたことは、少なからず彼を喜ばせた。
アンジェラが驚いたことにトッドの駒はこびは名手の域に達するものであった。かなり前から彼女はビショップを相手に二人将棋(赤と黒に分かれて勝負する四王将棋)をして、日王の軍の采配がふるわず、月王のみで戦って負けを喫することも多かったのだが、日王の軍をトッドに任せきりにしておくことができた今回は、なんとふたりでビショップ✕モーガンという電脳連合軍に勝ってしまったのである。
質素ともいうべき称賛の言葉をアンジェラが口にすると
「お師匠のしこみがいいからな」
彼にしては謙虚にトッドは応えた。
「師匠?」
いまでこそボーディスも一般大衆にまで広まる娯楽となっているが、師匠につくとなると……ひょっとしてトッドはサーベク系の名家の出なのだろうか。元の身分が何であれ、宇宙海賊へと転身するのはその逆よりは容易い。
アンジェラが考え込むのを見て、トッドは笑った。
「ユアンだよ」
「あの男も、ボーディスをするのか?」
『ユアンはボーディスの達人ですわ、マダム』
その男に、過去何度か敗れた免疫でもあるのか、モーガンの音声に乱れはなかった。ビショップは彼の日王がトッドに敗れてしまったためか、沈黙している。
「ヒマなときにさんざ相手をさせられたせいで、コツが飲み込めちまってぃ」
いかにも誘われたからつきあったんだぞ、という口調なのだが、いやいややったというニュアンスが感じられず、知らず、アンジェラは口元をほころばせる。
今度は彼のほうがつられたように、トッドも陽気さをあふれさせたが、ふと思い出したように言った。
「だけどユアンはボーディスが好きでやってるってわけでもなさそうだよなぁ、モーガン?」
終いまで言ってしまってから、びっくりしたように口をおさえる。
『そのようですね』
モーガンの相槌もあまり乗り気なものではない。
「そうなのか」
軽く受け流してアンジェラは話題を変えてやった。
「ところでモーガン、いまどのあたりだ?」
ガウェンドラの引力圏を離れた位置から〈モルガーナ〉は亜空間飛行を続けている。ガウェンドラのあるセェーヅ恒星系からトリムケラプス恒星系まではおよそ八千光年。光速を超える亜空間飛行法でも使わないかぎり、イリカノスへ着くのは遺物になってしまう。
実際に亜空間を調査した報告というものは未だ提出されていない。しかし、一定の法則を満たしたうえでそこに“突入”すると通常宇宙空間を光が走るよりもはるかに速く進むことが可能である。そして、宇宙生活者となった人々はそれを利用した。
ベクトルを進行方向へ合わせて亜空間へ突入し、時間によって飛行した距離を算出して目的地点で“離脱”する──使用法則さえ守れば仕組みなど理解できなくても活用できる、文明の利器のような感覚であった。
1ピコ秒とかからず計算を終えてモーガンは答えた。
『そうですわね……そろそろ亜空間飛行から抜けるべき位置まで来ています。あと120分後にはトリムケラプスの最外縁リングに達するでしょう』
「ではそこで通常空間飛行に入れ、モーガン」
静かなユアンの声が命じた。
『イエス、マスター』
突然、中央操船室にユアンが現れたことにトッドは驚かなかった。治療室の一件もさることながら、ユアンならばモーガンの状況報告を聞くまでもなく頃合いをみてここへやってくると思っていたからだ。
「ボーディスか」
ディスプレイに残された画像に目を留め、ユアンは例の薄笑いを浮かべた。
「モーガンとやって、勝ったのか」
淡々とした、応えなど必要としない口ぶり。
「モーガンに勝ったのはオレじゃない。アンジェラだ」
あわててトッドが弁明する。いきおい、アンジェラはユアンと目線を合わせる羽目になる。
これほど無表情に睨み合う人々を見たのは、トッドはこれが初めてだ。
無言で空席に座るとユアンは端末に手をのばした。単純なコマンド一つの入力で駒が元どおりに並ぶ。それから彼は、身振りでアンジェラに端末に向かうよう促した。
「赤か黒か?」
二人将棋の勝負を挑む。
「……赤の軍を」
こっそりため息をつき、アンジェラは赤の騎士を左前方へ1マス進める。ユアンは黒の騎士を右前方へ進めた。続いてアンジェラは赤の女騎士も右前方、つまり女公爵の前に置いた。
「ずいぶんと保守的だ」
「おまえもな」
ユアンもまた女騎士を女公爵の前につけるのを見てアンジェラは辛口に返す。お互いにあからさまな挑発こそしないが、冷えびえというか、妙に凍りつくような空気が感じられたのだが……頭が疲れたから、などという陳腐な断りをする前に鋒先がアンジェラに向いてよかった、と思ってしまうトッドであった。
今度のゲームには長い時間がかかった。
アンジェラは日王の軍についてはその場の思いつきのような素早さで駒を動かすのだが、そのぶん、月王の軍では慎重だった。ユアンも、モーガンを相手とする場合のように熟考する。守りを固めてからは、裏の、裏の、裏まで読んでいるからか、言葉すら交えずディスプレイを見据えている。
まるで運命の女神的な何かと魔王が、人類という駒を操っているみたいだとトッドは思った。
〈モルガーナ〉が亜空間から離脱した頃、アンジェラは日王を失った。
ユアンが顔を上げてアステロイド群に入った〈モルガーナ〉の航跡点を見る。しかしすぐに彼は再び対局画面に目を向けた。
“マスター”が何も言わなかったので、モーガンは先刻ユアンが指示したように、通常宇宙空間飛行状態でアステロイドリング間のコースを進み続けた。スクリーンの航跡点が軌跡となってゆく。
やがて、アンジェラの赤の月王は、黒の日王に敗れた。
体内に溜まった疲れを吐き出すように息をつくと、アンジェラはスクリーンの軌跡を仰ぎ見た。ボーディスに負けたことを残念がっている様子はなかったし、また、ユアンのほうも勝ってうれしいという顔ではない。
「……ちょうどこのあたりだ……」
スクリーンから目を離さず、アンジェラはつぶやいた。
「このあたりで、非常通信が入った。昔……タトゥーラ全星土にミサイルが落とされたと……」
その胸中に苦い後悔の念が再現される。
自分はなぜあのとき、イザベラの言葉に誘われてこのようなところまで来てしまったのか。少なくともタトゥーラから離れなければ、何も知らずに逝ってしまった多くの民と命運を共にできただろうに。
否、そればかりではない。本星にあってミネストロプァ王の最終勧告さえ耳にしていれば、彼女は降伏してタトゥーラばかりではなく、サーベク消滅という事態をも防ぐことが可能だったはずなのだ。タトゥーラの女王にはそれだけの権限があった。しかし現実は──。
自らも参戦中にもかかわらずアンジェラがタトゥーラを離れたのには理由がある。イザベラからのイリカノス星との同盟の申し入れがあったのだ。ただしこれには条件があり、エグゼ・シオン本人がイリカノスを訪れ、イザベラと誓約を交わすというのがそれであった。
いかにも氷の女王らしい条件づけだが、いくばくかの猜疑が胸をよぎるエグゼ・シオンも重臣や元老院の勧めを容れてこれを受けるべくイリカノスへと向かった。そして、この重臣や元老院がミネストロプァの勧告を威嚇とみなして国民や女王に知らせなかったために、二つの惑星は滅び、彼女はアンジェラと名告る身となった。
タトゥーラ壊滅の非常通信を受けたエグゼ・シオンはイザベラとの同盟を放棄してタトゥーラ星系へと宇宙船をかえし、すぐに単身サーベク星へ潜入してこれを消滅させている。
「……ローズ……」
アンジェラは目を閉じた。
同盟よりも何よりも、彼女をイリカノスへと駆り立てた少女の面影を思い描こうとする。彼女をアンジェラと初めて呼んだ少女は、アンジェラがその名を名告る身と化したことなど知る由もなくこの世を去ったはずだ。
黙祷するように立ちつくすアンジェラを見て、トッドは彼女が泣いているのか、あるいは祈っているのだと思った。
しかし彼女のほっそりとした白い頬を伝わる涙は見られなかったし、祈りたい神など、もはやアンジェラにはいなかった。
無言のままにディスプレイのボードを消去して彼女は中央操船室を出ていこうとした。
「アンジェラ」
トッドよりも早く、ユアンが呼び止める。
「おまえの妹の名は、ローズというのか?」
珍しく釈然としない面持ちでユアンは問うた。
「……いや、単なる愛称だ」
アンジェラは振り返らなかった。
もしも彼女がそうしていたならば、彼女はそこに、何かを思い悩むように腕組みするユアンの姿を見たであろう。
小学校3、4年生の頃の担任の先生がクラス全体に囲碁と将棋を教えてくれ、クラス内トーナメントをしていました。おかげで、一応、将棋の駒の動かし方を知っています。残念ながら、囲碁のほうはうまくルールを飲み込めなかったので、全然です。