第6章
例の切り株が待ち合わせ場所だ。
普段から雑談している場所であるため、眼前の農道を通る人から怪しまれずに済む。波と波の合間に、大麦畑のどこかで刈り取る音が聞こえてくるが、かなり離れているため安心だ。この周辺は刈り取りが終わり、畝は土を残すばかりだが、伸びゆく雑草が視線を遮る。周りからすれば、いつもの恋人仕草にしか思えないわけだ。覗く奴もいない。
「遅い、遅いよ」
「えっ、ああゴメン」
せっかちなルイに平謝りするロザリー。時間は約束通りだが、彼は待ちくたびれていた。
「誰かついてきてない?」
「ウウン、大丈夫だよ。親は城のほう行ってるし」
「ああ馬車待ちか。ウチのも毎週、仕事にキリをつけるなり出かけてくよ。置き手紙にも気づかないだろうし、追いかけられはしない」
ルイはそう言うとリュックを背負い、スタスタ歩き出す。今さら後悔などしない。
ロザリーはリュックを一度背負い直し、彼の後を追う。自宅のほうを二度振り返るも、彼女の足は止まらない。
――誰とも遭遇せず、林に着けた二人。畝と畝の間に植えたエンドウ豆相手に勤しむ大人をチラホラ見かけただけ。皆、二人には気づかなかった。畑仕事と荷馬車の両方で、頭は一杯だった。
林の端に入ったことは何度かあったが、奥深くへ足を踏み入れたことは、二人とも一度もない。波の衝撃がより強いため、わざわざ入りたくないのは当たり前だ。
「さっさと通り過ぎちゃおう」
「ウン、さっさとね」
林の手前で二人は、異様な有り様に不安を覚える。そこに生える針葉樹が、揃いも揃っておかしな風貌だったから。
木々は自分たちのほうへ大きく傾いている。ただ頭を垂れる程度じゃなく、幹ごと一方向へ傾いたまま。波の衝撃を長年受け続け、奇形じみた育ち方をしてしまった。幼児が頭を打つ高さにまで垂れた枝がよく目立つ。それから雑草も木々に倣うように、頭を垂らしていた。
また植物だけでなく、動物のほうもおかしい。ルイの父親の話は正しく、熊どころかリスやネズミの小動物すら見かけない。アリやミミズといった地面に近い類だけが静かに暮らしている。
こんな林のどこがカップル向けと言えるのか。パッと見て、デートスポットじゃないと理解できる。街道を挟んだ向こう側の林も変わらない。
「行こう」
「ウ、ウン」
二人はあらためて言い合った後、林へ足を踏み入れた。
ロザリーは狼や熊への対策として、鶏の骨をポケットに忍ばせていた。そして必要ないと悟ると、近くの茂みへ放り投げた。波に弄ばされないアリどもが、今夜のご馳走とするだろう。ロザリーはそんな事を考え、気を紛らわせた。
林には獣道すら通っておらず、二人は雑草の薄い箇所をジグザグに進む。夕暮れどきの薄暗さで迷わずに済むのは、なんと波のおかげだ。だんだん強くなる波の方向へ足を向ければいい。
「なあ、宿の話だけどさ。同じ部屋か別かならどっちがいい?」
ルイがロザリーに聞く。
「えっ? 節約で同じ部屋がいいでしょ?」
「……ち、違う違う。だってさ、オレもお前もいい歳じゃんか」
「いい歳って、まだ十二歳じゃない。もしや一人じゃ怖いの?」
勘違いし半笑いのロザリー。波に打たれても崩れないほどの笑み。
「バ、バカ! そんな話してるんじゃない! ほら、着替えたりするだろ?」
「……あっ、ああそういう理由でか。それならそうだね。空いてるなら別々の部屋、うん、それでいい」
「よ、よしわかった」
話が通じ合い、一安心のルイ。
「…………」
「……別々か」
歩くのは異様な林だが、思春期の男女は敏感だ。二人は互いを意識し合い、気まずくなる。林の独特な雰囲気も合わさってのこと。林は十五分足らずも歩けば、反対側へ抜けられる広さだ。しかし張り詰めた状況では、一秒が一分、一分が一時間に思えてくるもの。
夕陽が沈む前に抜けなくちゃな。街道へ出たら、真っ先に蝋燭を灯そう。……男として手を引くべきか。いや、彼女だって蝋燭ぐらい。
ルイは後ろへ首を回し、リュックの口とロザリーの顔を交互に見た。気が逸れた間に、足先が大きな雑草に触れかける。
「ジャマだよな! ……その、この辺りの草!」
彼はそう言うと、その雑草を蹴り上げた。
「あっ、ウン、そうだね。とてもそうだね」
ロザリーはそう言うと、浮き上がった雑草を踏み倒した。
山陰に陽が隠れ始めたとき、二人は林の終わりを見つけられた。傾く木々の間に、街道の縁石が確かに見える。差しこむ夕陽が、街道の路面をオレンジ色に薄く照らしている。
二人とも、この薄暗く不気味な林を一日中歩き通したような気持ちだった。人目に気をつけつつ街道に出て、ランタンを灯す余裕は十分ある。
「アア……ウアア……」
二人の足取りが軽くなる寸前、前方からうめき声が聴こえた……。それは一度だけじゃなく、続いてまた。
獣じゃなく人間の声で、近づく二人を威嚇する調子でもない。それでも二人は足を止め、息を潜めた。ルイは自然とロザリーの前に立ち、男の勇ましさを見せるが、額の冷や汗は正直だ。
「誰? 誰なの?」
ルイに先んじ、ロザリーが呼びかけた。無謀だが、先を急ぐ気持ちが強かったのだ。夕陽が隠れれば、林はさらに暗くなり、危うくなる。
魔女? その弟子? それとも山賊?
ロザリーは身包みを剥がされる自身を想像し、空を仰ぐ。いっそ、鳥に見つけてもらいたい気持ちだった。
幸いというべきか、状況はすぐ悟れた。
左前方の木々の枝が何本か折れ、新しい轍が雑草に走る。その線の左から右へ視線を移すと、大きな木箱のような輪郭が見えた。
……それは荷車で、隣国を行き来する荷馬車だった。幹に倒れかかり、積荷が付近に散乱している。重く大きな荷車の下敷きとなり、馬が一頭死んでいた。残り三頭は走り去ったらしい。
「ココだ、ココ……。ワシはココに……」
二人の存在を知り、うめき声の主がまた言った。
「爺さんだ。馬車のジジイ」
ルイがそう言うと、ロザリーは大きく息を吐いた。二人は荷馬車の爺と親しい間柄じゃないが、敵でない点は確かだ。
声のした前方を数歩いかない内に、木の根元に背中を預け座りこんだ爺を見つける。日没後なら見つけられなかったかもだ。
「ど、どうしたんだよ、いったい。頭から血……」
この薄暗さでも、顔に鮮血の筋が何本も見える。おまけにケガは頭だけでなく、手足のいたるところに。
元々小汚い服は血でさらに汚く、あちこち裂けている。明らかに重傷だが、荷馬車の事故でできた傷だけとは思えない。
「……あんの、あの若造め。調子づきおって、チッ畜生」
街道で誰かとトラブったようだ。先方が実際悪いかはさておき、爺をこのまま放置できない。
「ロザリー、走って戻れるか? 大人なら誰でもいいから、呼んできてくれ」
迷うことなく、ルイがそう言った。
「ウン、大丈夫。ルイも気をつけてね」
迷うことなく、ロザリーもそう言った。
偉いことに二人とも、国外脱出の件を忘れたようだった。とにかく今は、同じ国の民のために動こうというわけだ。
そしてロザリーは、来た道(僅かに残る獣道だが)を駆け戻る。家族や親戚でもない年寄りのために、なんとも偉いものだ。自らの青春を犠牲にする行動にも関わらず。
自己犠牲の精神が誰かの心を動かしたのか、大人は林の中で見つかった。ランタンを手に、探し回る大人たちを……。