第4章
ドアが閉まった途端、謁見室は静まり返る。お偉いさんの座る玉座につく女王デュクロは、廷臣からの報連相を聞き終える。一日の仕事を終え、彼女はシャンデリアを見上げていた。ジャラジャラと小刻みに揺れるそれをぼんやり眺めるのが、一日を締める日課だ。
満月は空高く昇り、青白い光を国中へ差し向けている。ただ、鎧戸が下ろされた城内を照らすのは、無数の蝋燭や松明だ。それらは波で消えることはないが、陽炎を危なっかしく揺らしている。事実、壁から燭台が落ち、深紅の絨毯が燃えた件もあった。そこで代わりの燭台を作った職人こそ、ルイの父親である。当時の払い(血税)で、彼は借金をすべて返せた。
それはさておき、デュクロが考えていたことは、鳥の御触れについてだ。人々からの反応を彼女は知りたがった。廷臣は運に恵まれ、捏造せずとも良い報告ができた。女王は廷臣に、ひとまず安心したという旨を述べたが、内心では未だ不安だった。
国の長である彼女は、人々が無知で純粋な人間ばかりではないと承知だ。それを誇ると同時に、彼女は人々の反発を恐れた。猜疑心が膨らみ、人々が自分を信頼しなくなるのでは……。そこで夜間外出禁止令を出し、この件に力を注いでいるよう見せることにした。人々の反応を伺いつつ、当分続ける気だ。
デュクロはシャンデリアを見上げる内に寝落ちした。多くの人々と同様、彼女も現状に慣れつつあった。鉄鎖や鉄板で城を守らねばならない有り様にも関わらず、彼女は眠りこんでいる。人々がそんな姿を見れば、怒るか呆れるだろう。
とはいえ、寝落ちはもはや恒例で、廷臣や侍女は気を利かせ、デュクロを一人にしている。その間に彼らは、彼女の夫や子の世話をこなす。新品の耳栓を用意したり、子守唄で眠気を誘ったり。
そして、デュクロが玉座で目を覚ましたとき、シャンデリアの揺れは収まっていた。午前零時が過ぎ、波が一時止んだのだ。六時まで波が収まり、感覚過敏な人間でも眠りにつける。六時間睡眠ではあるが……。
デュクロは誰もいない謁見室を後にし、自室へ戻る。ベッド(キングサイズそのもの)では彼女の夫が、大きな耳栓をつけ眠りこけていた。彼は波に慣れ、揺れを気にせず眠れている。専業主夫よりも気楽な立場の上、ぐっすり眠れるなんて、王国一番の幸せ者に違いない。
それでも彼は波を毛嫌いし、自由のない生活に不満を覚えている。彼曰く、ここまで酷い生活が続くとは思わなかったとのこと。自身とデュクロ、それに子供の三人で王国から出ようと、彼はデュクロに何度も頼んでいた。当然、そんな頼みは却下だ。
ルイはせっかちだ。あの日彼は、ロザリーも国外脱出を考えていると知るなり、切り株から腰をサッと上げた。
「よし、決まりだね!」
彼はそう言うと、彼女の返事を待つことなく歩き出す。せかせかした足取りでだ。
「ちょ、ちょっと待って! まさかだけど、今から行くつもり?」
彼女は、勢いに任せ国外へ出る気かと考えた。「思い立ったが吉日」そのもので。
「まさか!」
彼はそう言ったので、彼女は安堵する。雪の降る冬場でないといえ、簡単な旅路といかない事ぐらい、ロザリーにはわかっていた。
「今日は用意で、明日が出発だよ。さあ忙しくなるよ」
どうやら、ルイにはわからなかったらしい。普段もそうだが、彼は浅はかなところがある。
「いや急すぎ、急ぎすぎ」
彼女はため息を堪えつつ言った。
国外へ出るには、親の目だけでなく、人々や魔女のそれも掻い潜られねばならない。街道を行き来する者は例の荷馬車だけじゃない上、要所は見張られているのが普通だ。
街道を挟む林はあるものの、道に迷ったり、何かに襲われない保証はない。順調に進めるとしても、手ぶらで出発していいわけない。金もいくらか必要だし、あまりに無謀だ。
ロザリーは早まるルイを説き伏せた。彼に上記の課題を問いかけると、案の定答えに窮する始末だ。ただそれでも、脱出は不可能じゃないという点で一致でき、二人は希望を抱き、それぞれ家路につく。
二人は家族の前で、高揚した気分を隠せず、明るく前向きな表情が自然と出ていた。都合が良いことにそれは、ロザリーとルイの恋模様として捉えられた。ルイの母親に気をつければいいだけで、他の家族や周りの人々に気遣われるようになる。おかげで二人は、大麦畑の真ん中で密会しようと、普段と違う買い物をした際も怪しまれなかった。
そのうえ、街道沿いの林が普段人気のない事実を、ルイの父親から教えてもらう。そこで逢瀬を重ねろという、下衆なお節介だ。ルイは素直に受け取ったが、ロザリーは一丁前に赤面する。収穫後の大麦畑に二人だけでいるのは幸運だ。
「街道を堂々と進むほうがカッコいいけど、林の中を進むのも悪くないな」
「ウ、ウン。……けど危なくない? 狼でもいて危険だから、人がいないんじゃ?」
林を突っ切る案は悪くなかったが、バレて捕まった場合のことを考えると気が進まないロザリー。逢瀬を言い訳にするかしないかで、展開が変わる。ルイの母親が激怒する以外において。
「いいや、あの辺は狼や熊どころかリス一匹すらいないんだって。ほら波がさ。塔に近いせいで、木が斜めってるっていう話だよ」
ルイはそう言った。
ただ実際は、二人とも狼や熊は剥製でしか見たことがない。村の老猟師の家で、埃を被ったそれらを目にした程度だ。波に襲われる今では、塔の反対側の山々から一匹狼が迷いこむぐらいで、彼らがあの林で遭遇する可能性は極めて低い。
話に出たので述べるが、国を囲む山々から脱出することは論外だ。あの山々を登り下りできるのは、狼や登山家だけ。険しく切り立つ岸壁を素人が登るのは不可能だ。自由になりたい気持ちがいくら強かろうが、行き着く先はあの世か療養所だ。それに見通しが良いため、夜でも明かりを灯すとよく目立つ。
つまり、街道沿いの林を通ることが唯一の解決策である。それでも一か八か、ルイの父親の話を信じるしかない。
脱出路の次に考えたのは時期、どのタイミングで国を抜けるかだ。親や人々だけじゃなく、魔女の目も気にせねばならない。
祭りの喧騒に乗じて逃げる案を、二人はまず考えたが問題がある。二人はもう十二歳の身で、祭りの手伝いを任されやすい。まさか二人揃って仮病というわけにいかず、都合よく抜け出すのも難しい。そもそも、祭り事はずいぶん先のことであり、ルイが早まる気持ちを抑えきれるとは思えない。
次に考えたのは、馬車が出発する火曜日の昼間だ。例の荷馬車爺が街道を進む隙をつき、林を突っ切るのだ。浅はかだが、魔女の目をごまかせるはずと考えた。しかし、林から街道へいつ出るのかが難しい。早く街道へ出れば、爺に発見されるリスクがあるし、遅く出れば今度は魔女に。
きっと空へ飛ばされて、鯉に変身させられる。そして雨と共に、池へ突き落とされるんだ。それに、元弟子操る鳥の件もある。
ロザリーは身震いした。そこで「別に人目が減るわけじゃないから」と言い、その案を却下した。ルイも何か思うところがあったらしく反発しなかった。
ただロザリーは同時に、その逆は無理だろうかと頭を捻る。ようするに、金曜日に帰る荷馬車に合わせ、国を抜けるのだ。金曜日は特別な曜日であり、人々は忙しくなる。断食日という事情もあるが、荷馬車の荷下ろしが城の前で行なわれる。あの爺は隣国から鉄鉱石だけでなく、珍しい品や頼まれた品を持ち帰るため、人々が自然と集まるのだ。一騒ぎ起きた経緯もあり、荷下ろしに関われる人数に制限がかけられている。それでも周りに人々がたむろするため、村や畑は人気がなくなる。その間、子供(荷下ろしに関わることを禁じられていた)が代わりに、仕事や家事を担うのが常であった。
その辺の事情を思い出した拍子に、ロザリーは飛び上がる。着地の衝撃で近くの畝が崩れかかり、波がとどめを刺した。千切れた根の屑が、土の中に垣間見える。
「今度の金曜日にしよう!」
ロザリーはすっかり浮足立っていた。ルイが「ちょ、ちょっと」と宥めにかかるほどだ。
「あっ、ゴメン」
興奮を恥じ、今度は赤面するロザリー。忙しいものだ。
「な、なんで金曜日? それもさ、あさっての金曜日なんだ?」
ルイは尋ねた。肉が絶対食べられない日になぜと、思いを巡らせながら。
女王デュクロの日課には、王城のバルコニーから単眼鏡で人々を観察することも含まれる。それは仕事というよりも、彼女の不安解消に近い。手が届いたり聞けたりはしないが、自らの目に焼きつけられる。
「あの子たち、さっきからサボってるわね。収穫した後とはいえ、他に手伝えることがあるだろうに」
腰の命綱を張らせながら、彼女は呟いた。目に留まったのはロザリーとルイだ。声が届くなら、一言注意してやりたいだろう。
しかし、波の直撃に気を取られ、二人は対象から無事外れる。代わりに目が留まるのは、以前二人の元に現れた殻棹男だ。
「ああ、誰があんなやり方を教えたのかしら? 誰も教えていないことを願うわ」
デュクロは呆れると、余計な不安を抱えることに……。
そうとも知らず、あの男は今日も滑稽な動きを晒し、大麦へ殻棹を奮うばかり。