ヤバすぎる黒塗りのタクシーに捕まった件
夏も終わりかけの8月某日。午後9時。タイルを打つ大粒の雨が駅前の喧騒をかき消していた。ゲリラ豪雨に見舞われ、一時的に雨宿りをする者や家族の迎えを待つ者でごったがえしている。タクシー乗り場とバス停には長蛇の列だ。俺は折りたたみ傘を雑踏の中広げて自宅のマンションへ向けて歩き出した。ラーメン屋の換気扇の生暖かい排気と猛烈な湿度が不快指数を高めている。
突然の雨は止む気配がなく、撥水加工が落ちた傘のナイロンをぼたぼたと鳴らしている。短時間の雨量は100ミリを超えているだろう。道路の排水能力にだって限界はある。飛び石のような地面の凹凸で生み出された陸地を渡り歩いたが、すぐに靴下までずぶ濡れになった。
いつもの交差点に差し掛かり、信号待ちをしながらスマホでYouTubeを見ていた。大型犬と女の子が戯れるだけの動画だ。ノイズキャンセリングイヤホンからは女の子の笑い声と嬉しそうな犬の鳴き声。裕福そうな庭付き一戸建てで、女の子がフリスビーを投げ、犬が拾ってくる。その繰り返し。何の変哲もない。俺はこのチャンネルを毎日帰宅中に見るのが日課だった。
『チャンネル登録お願いしま〜す』
動画が終わると無音になり、コメントを追う。
うるさいだけの雨音はノイズとしてしょりされる。
サーーというホワイトノイズがBGMとなった。
俺は隣の人が歩き出すのに合わせて踏み出す。
その時、右からイヤホンを突き抜ける程の大きなクラクションが聞こえ、目を向けると黄色いヘッドライトの眩しい光が俺の視界を覆った。トラックのグリルが眼前に迫っている。
──死んだわ、俺。
思えば儚い人生だった。くだらない仕事に生活の大半を支配され、広いだけの部屋に一人暮らし。いつか貯金して庭付き一戸建てなんて夢を見ながら、ただひたらすらに人生を消費していく。家族もいなければ子供もおらず、犬や猫を飼育できるような時間的余裕はなく、YouTubeでその寂しさを埋め合わせる。そんな虚無的な俺に相応しい最期かもしれない。
走馬灯のような思考を巡らせながら衝突の瞬間体をこわばらせた。
次の瞬間。
──死ん……でない。
気がつくと俺は何事もなかったかのように信号待ちをしている。さっきと同じ交差点で”赤信号”だった。
幻覚だろうか。数秒時間が巻き戻ったような気がする。俺の両手両足もしっかりついている。手元の動画は女の子がフリスビーを投げて犬に拾わせている、ただそれだけのシーンだ。
隣の人を見やる。スマホに見入っている、長髪の女性だ。俺と同じように仕事帰りらしくオフィスカジュアルに身を包んでおり、よくよく見ると結構美人かもしれない。
はっきりと覚えている。さっきこの人の細い足首が振り子のように動き出したのを見て、俺もつられて一歩踏み出したことを。
『チャンネル登録お願いしま〜す』
動画再生が終わる。同じタイミングだった。
まだ赤信号ながら隣の美人が歩き出す。
「止まってください!!」
俺は咄嗟に彼女の腕を掴んだ。
彼女は目を見開いて俺の手を振りほどく。痴漢だとでも言いたげに、細く整えられた眉をゆがめて俺のことを睨んだ。そして白い耳からイヤホンを外し、ものすごい剣幕で怒鳴りたてた。
「ちょっと何なんですか!! 痛いじゃないですか!!」
「今赤信号ですよ!」
俺がそう反駁するのと同時に目の前を一台の4tトラックが通過する。轍に溜まった雨水の水しぶきを上げながら。
「今のトラック! あれに轢かれていたんですよ俺たち!」
「何言ってるんですか? 何のことを言ってるかよくわかりません。私急いでるので、じゃあ」
そう言って彼女はそそくさと立ち去った。
え……?
俺あの人を助けたんじゃないの?
なんでこんな言われ方されなきゃならないの?
追いかけて弁解はしなかった。墓穴を掘るだけだろう。
雨の勢いは強まっている。
道路の水たまりに反射する街の光がイルミネーションのような煌めきを帯びている。
立ち尽くしている俺の前に黒いタクシーが滑り込んできた。地面には美しいシルエットが映し出される。
運転手が小さく開けたウィンドウの隙間から俺を呼んだ。
「お客さーん。お客さーん。そうです、お客さんです」
運転手と目が合ってしまう。しかし渡りに船とはこのことだ。
運転手に目配せして、後部座席に乗り込もうとする。
しかし自動ドアが開くことはない。乗客が自分で開けるのはマナー違反だ。
「あれ? 運転手さん! ドア開けてくださいドア! 運転手さん!」
俺は必死で呼びかける。傘と鞄で両手が塞がっており、できれば自動で開けてほしい。すると運転手が運転席で操作して開けてくれた。バサバサと折りたたみ傘を丸め上げ乗り込んだ。暗くて運転手の人相まではっきりと見て取ることはできないが、姿勢がよく真面目そうなおじさんといった雰囲気だ。
「なんなんですかもう。普通自動で開きますよねタクシーって」
「気づかず申し訳ありません。いつもみなさんそのまま乗ってこられるので」
「どんなみなさんですか! 幽霊じゃないんだから無理ですよそんなの」
「ああ、お客さん、一応運転中は親指を隠してくださいね」
「霊柩車でも走ってるんですか?」
「いいえ、いつもみなさんそうやってご乗車されるので。万が一のためですよ」
「シートベルトみたいに言わないでください! なんなんですか縁起でもない」
「それでは改めて。ようこそ、夜のタクシーへ」
「夜のタクシー? いや普通のタクシーに乗りたいんですけど」
「夜の抜け道、知ってますよ」
「いや抜け道なんていいですから。近いんで無理しなくていいですよ!」
「夜間は割増料金になります」
「ああ、そういう意味ね。勘違いさせないでくださいよ」
運転手は突然指差し確認を始めた。
「ガソリンよーし! お釣りの小銭よーし! 運賃設定よーし!」
「なんで今? 普通仕事前にするものでしょ!」
「お経よーし! 数珠よーし!」
「え? 何に使うの?」
「いやいや、お客さんを安心させるために必要なんですよ」
「余計不安になりますよ!」
「それにしてもお客さん、今日は運が悪かったですね」
「いやこのタクシーに乗ったことが一番の不運ですよ。まあ本当にそうだったんですよ。さっきトラックに轢かれそうになりまして──」
「雨ですよ、雨」
「あ、雨の話ですか。それにしてもバケツをひっくり返したようなすごい雨ですよね。これじゃあまるでゲリラ豪雨っていうよりゴリラ豪雨ですね、ハハハッ」
「……今日はどこまで?」
「ってスルーしないでくださいよ! 俺が滑ったみたいになるじゃないですか。別に普通の会話でしたよね今」
「ああ、雨でよく聞こえなくて」
タクシーは俺の自宅の方向へ向かい始めた。
洗車機のように浴びせられた雨粒をワイパーがかきわけていく。
キキィーーーーーー!
タクシーが急ブレーキをかけた。
俺は軽く鼻をぶつけてしまったが、あえて言うほどじゃない。
「お客さん怪我はないですか!?」
「大丈夫ですけど……」
「ほらね、親指隠しておいてよかったでしょ?」
「だからシートベルトみたいに言わないでください!」
「ごめんなさい。ちょうど黒猫が道路を横切ったんです」
「そ、そうですか……安全運転でお願いします。にしても不吉ですね。黒猫なんて」
「何かの迷信を信じてるんですか? あーわかりました。お客さんもそっち系なんでしょ」
「そっち系ってどういうことですか?」
「なんというか、独自の世界を持っちゃってる系ですよね?」
「いやそれは運転手さんのことですよね!? よくわからないんで説明してもらえますか」
運転手は記憶の中から探り出すように過去の乗客について語り始めた。
「よくそういう人を乗せることがあるんですよ。例えばそうですね。あの時は真っ白な着物のおばあちゃんだったんですがね。いつもみたいにタクシー止めるじゃないですか。すると『ついに私にもお迎えが来たんだ〜』って両手を合わせて拝み始めて。この仕事やっててこんなに感謝されることないですよ」
「なんか『お迎え』の使い方おかしくないですか? タクシーに普通そんな反応しませんって」
「変な人なら多いですよ。私もこの業界長いですから。あの時は白髪のおじいちゃんだったんですがね、その人降りる時に全然お金持ってなかったんですよ! 無賃乗車! 酷いですよね」
「あーやっぱりいるんですねそういう人」
「でも懐に小銭を隠してたんですよ。私が『それでいいから払え!』って言っても払おうとしなくて、問い詰めると『川を渡るために少しは残さないと』って言うんですよ。もう呆れちゃって、そのおじいちゃんのことは河川敷に置いていきました」
「まるでこれから三途の川でも渡るみたいですねぇ」
「無賃乗車、最近増えてて困ってるんです。この前だって某山の墓地まで白い着物のおじいちゃんを送ったんですがね、これまた払おうとしなくて。その言い訳が酷いんですよ」
「どんな言い訳なんです?」
「それがですね、『ここは霊園だから零円だろ』って。霊園で0円って。ふざけるなよと。呆れ返ってしまいましたよ。でもその一休さん並の言い逃れに免じて見逃してあげました。なんせ49日間で思い出の場所を巡る旅をしているらしくて懐が寒いだとかなんだとか」
「なんか死が身近なお客さんが多い気がしますね」
「常連さんにはもっと変なおばあちゃんがいますよ。青白い雰囲気のおばあちゃん。毎年お盆の時期にお墓まで送っていくんですが、おばあちゃん、いつも手ぶらで何も持って行かないんです。普通お供え物とかお線香とか持っていくものでしょう?」
「確かに、何をしに行ってるんですかね?」
「それが不思議だったんですが、どうやらお供え物を盗んで来ているらしくて、桃やお菓子をたくさん抱えてタクシーに戻ってくるんです。こっちは運転手ですから何も言いませんが。でもすごく品の良い方で物を盗むようには全然見えないんです。むしろ自分の物かのように堂々としていますから」
「うーん。それじゃあ『お墓参り』というより『お墓参られ』ですね。──今までの話の傾向をまとめると、みんなおじいちゃんとかおばあちゃんとばかりで、実はもう死んじゃってる〜みたいな」
「……」
謎の沈黙に俺は身の毛のよだつ思いだ。
「って何か言ってくださいよ! だから運転手さん。お客さんにご年配の方が多くないですか? 俺みたいな若い人も乗せたりしないんですか?」
「ああ、確かにほとんどおじいちゃんおばあちゃんですね。高齢化社会じゃあ仕方ないですよ。──そうそうこの前若いお兄さんを乗せたことがありましたね。そのお兄さんはお客さんくらいの歳で──私もうおじさんだから詳しくは知らないんですけどね──アイドルグループだったかな、『坂道系』のファンらしくて、ずっとその話をなさってましたよ」
「坂道系ですか。乃木坂とか、櫻坂とか、日向坂とかですかね?」
「違いますね。確か『黄泉比良坂』って言ってたかな」
「黄泉比良坂!? そんなこの世とあの世の境目みたいなアイドルグループある?」
「確かにそう言ってましたね。そのお兄さんは相当なアイドル好きらしくて、他にも好きなアイドルがいて、病んでる系アイドルの──メンヘラって言うんですかね。なんて言ったかな?」
「うーん、元ゆるめるモの『あのちゃん』ですか?」
「そうそう『あの世ちゃん』!」
「いや『あの世ちゃん』って誰? ていうか死んでません? 病んでる通り越して死んでません? アイドルどころの話じゃないですよ」
「まあ、そのお兄さん、いろんなアイドルが好きらしくて。他にも何人か」
「あーなるほど、DDというやつですね」
「知ってますよその専門用語、『誰でも大往生』でしょ?」
「『誰でも大好き』でDDですよ! なんですか『誰でも大往生』って。日蓮ですか? 法然ですか? お経を唱えるだけで誰でも極楽に行けちゃうあれですか? ──もう、どんだけアイドルを死なせたがってるんですか」
「いやいやお客さん、『お死』って言うからには死んでないとおかしいですよね」
「『推し』! 『お死』じゃなくて『推し』! 推しって死んでほしいとかそういう意味じゃないから! 逆に応援してるの!」
つい熱くなってしまった。
「いやあ若い人の聞く音楽ってよくわからないですよ。ああそうだ。音楽かけますか。ずいぶん暗い雰囲気になってしまったから」
「何がなんでも暗い話に持ってこうとしてるのは運転手さんですよね」
運転手は車内オーディオを操作した。
『仏説摩訶
般若波羅蜜多心経』
『観自在菩薩
行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空』
!?
お経が流れ始める。
「ちょっとちょっとちょっと! 運転手さん! これお経ですよ!」
「最近の若い人ってこういうの聞かなくなりましたもんね」
「いつの時代でもお経を聞く若者はいませんよ!」
「あれ? もしかして法華経の方が良かった?」
「いや別に宗派の問題じゃないですよ!」
「やっぱり般若心経は好み別れますよね」
「だから好きとか嫌いとかじゃないですってば! とにかくお経はやめてください。なんか、心が穏やかになりすぎてこのまま──」
『度一切苦厄
舎利子
色不異空
空不異色
色即是空』
……。
──このまま、成仏してしまいそうだ。
ああ、そういうことか。
やっとわかった。すべてが繋がった。
このタクシーは死んだ人の乗り物なんだ。
運転手さんはこの世とあの世の橋渡しをするためのタクシーを走らせていたんだ。だから三途の川を渡るおじいちゃんや、お盆で現世に帰ってくるおばあちゃんなんかが乗っていた。知らないアイドルばかり話に出てくるのは、その乗客が死者で、現世にはいない黄泉の国のアイドルの話をしていたというわけだ。
気に入らないやつはこの場でお経を聞かせて成仏させるというシステムに違いない。
つまりその死後のタクシーに乗っている俺は。
残念ながら既に死んでいる。
あのトラックにはねられて死んだのだ。
『無眼界
乃至無意識界
無無明亦
無無明尽』
……。
やっぱりあの交差点の事故は幻覚じゃなかったんだ。
歩きスマホをしながら、赤信号に気づかず、そのままトラックにはねられて死んだんだ。
だから今お経を聞いて安らかな気持ちになって、あの世に行こうとしている。ああ、指先がだんだん透明になってきた。お経も朧気にしか聞こえてこない。このまま──
しかし待てよ。死んでから成仏するまで早すぎる。いつか親戚のお葬式で聞いた話では、死んでからも成仏するまで49日は猶予があるんじゃなかったか。それにこのカーステレオで流されたお経で雑に成仏するなんて嫌すぎる!
せめてお坊さんにちゃんと読み上げてもらいたい!
親の顔だって最後に見たい。
お気に入りの動画だってもう一度最後に見ておきたい。
少しでもこの世への未練を減らしてから逝きたい!
それくらい許されて良いはずだ!
「話は変わりますけどねお客さん。最近多いんですよねぇ歩きスマホ。私こんな仕事してますけど、『あの人が信号を見ずに歩き出してきたらどうしよう』なんていつも考えてしまいます。大抵杞憂なんですけど」
「お経止めてください!!」
「歩きスマホは怖いですよ。ぶつかってもこっちが悪いみたいになるじゃないですか。法律ってそうなってるんですよ。私たちからしたら理不尽極まりないというか」
「運転手さん!」
──あれ?
もしかして聞こえてない?
そうかもう成仏が進んでいるんだ!
『得阿耨多羅三藐三菩提
故知般若波羅蜜多』
……。
まずい! 般若心経がクライマックスに差し掛かっている!
最後まで読み上げられたら! 俺は!
俺は必死の思いで懇願する。
「ごめんなさい! せめて四十九日の法要が終わるまではこの世にいさせてください! 罪ならばあの世で償います。歩きスマホがそんなに危ないことだなんて、それで死ぬなんて思ってなかったんです。この歳になって飛び出しで死ぬなんて恥ずかしいですけど、俺もう歩きスマホしません。約束します! お経だってお寺でちゃんと上げてほしいんです! だから今だけは許してください! 一生のお願いです! もう死んでますけど! お経を止めてください! 後生ですから!」
「青筋立てて何言ってるんですかお客さん」
運転手はお経をラジオに切り替えた。どこかで聞いたような俗っぽいJPOPの流行歌が流れている。タクシーは繁華街を抜けて閑静な住宅街に差し掛かっている。
「た、助かった!! ありがとうございます」
「お客さんね、今まで乗せた中でもとびきり変ですよ。なんですかいきなり四十九日って。意味がわかりませんよ。ほら、着きました。1550円です」
現金で支払うと、運転手は何も言わずドアを開けてくれた。たったそれだけの心遣いなのになぜだか少し感動する。
降りがけに問いかけた。
「あれ? 俺って死んだんですよね? このタクシーは死者しか乗れないはずじゃ」
「冗談はよしてください。うちはこれでも普通のタクシーでやってるんで。まあ歩きスマホはやめたほうがいいですよ」
おそるおそる指先で後部座席の窓を突く。すり抜けることはない。透明化して成仏しかけているなんてこともない。
運転手はぶっきらぼうにそう言うと、ドアを閉じてタクシーを出した。
俺はしばらく呆然としてあのタクシーのテールランプの残像を追っていた。
いつの間にかゲリラ豪雨は上がっている。なんて気まぐれな空模様だろうか。夜の曇り空はビルや街頭の光を反射してぼんやりと明るい。雨上がりの湿ったアスファルトの匂いが独特の甘い匂いを放っている。俺はきちんと自分の両足で地面の凹凸を感じる。足先が透明になっているようなことはない。
自宅は蒸し暑かった。エアコンを入れて服を脱ぎ捨て、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。
「ぷはぁ〜。生き返る〜」
──この感覚、やっぱり死んでない。
確かに心臓が動いているし脈だって感じる。
この一本のビールが生きているという何よりの証明だ。
トラックが迫ってくる光景は未だに脳裏にこびりついている。しかしあれは幻覚だったのだろう。赤信号でも歩き出そうとしていたあの美人のことも、俺が勘違いしていただけで、本当は足を組み直そうとしていただけかもしれない。それで俺まで釣られて飛び出すような何か悪い想像をして、クラクションを鳴らされた記憶を作り出したのだ。全部が全部俺の思い込みで、運転手の不気味な客の話にあてられて、死後のタクシーなんて馬鹿げた妄想を繰り広げてしまった。
あのタクシーはまた奇妙な客を乗せるのだろうか。
まるで幽霊や死者のような客ばかりを乗せる黒タクシー。
まるで霊柩車のような不気味なタクシー。
そう思いふけりながら、ビールのアルコールに飲まれていった。
数日後の休日、俺はランチの前に寄ろうと駅前の本屋に向かっていた。
歩きスマホもノイズキャンセリングイヤホンも封印した。今は街の喧騒と吠えるような車のエンジン音に意識を委ねている。大量の放置自転車と雑踏の中を縫うようにして歩いていく。
いつもの交差点。赤信号だ。
今度は青信号になるまでちゃんと待つ。
その横断歩道を渡った先、何故か棒立ちで俺を見ている女性と目が合った。
すぐに分かった。あの雨の日の美人だ。太陽の下だと余計美人に見える。この人を俺が助けた──というのは妄想だったか。
彼女は俺の姿をじっと見つめた後、さらに近づいてきた。少し身長差があり、彼女は見上げるように俺の眉間を覗き込む。そのくるくるとした視線が観察するように俺の顔のパーツを行ったり来たりしたあと、彼女の瞳はまるで宝物を見つけたかのようにきらきらと輝きはじめた。
そして彼女が何度か詰まりながら言った。
「あ! あの! あの時はその、ありがとうございました。思い返すとやっぱり私、あそこで轢かれていたのかもしれなくて、ずっとお礼が言いたかったんです──」
夏はまだ続く。
(終)
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