3-1.雪の夜、美味しい夜
はらはらと雪が降り積もる、寒い日の夜だった。
賑やかな笑い声が遠くから聞こえてくる。赤ら顔の人達が陽気に肩を組んで歩いていくのが、真っ暗なお店の窓ガラスに映っていた。
わたしとノアの前にあるお店に人の気配はない。
明かりも点いていなくて、店内は真っ暗。いつもなら出ている看板もなく、ドアには【営業終了】の小さな札が掛けられていた。
その札の側には丁寧な字で張り紙がされている。【しばらくの間、お休みします】というものなのだけど……この張り紙がされてから、もう二週間が経っている。
そう、あまりりす亭は長期休業中なのだ。
「……今日もお休み」
「どうしたんだろうな。前に来た時には、何も言っていなかったし」
「体調を崩しているとか、そういう事じゃないといいんだけど」
いつも朗らかなエマさんと、優しいマスターが出迎えてくれていた暖かなお店。そのお店がお休みだと、何だか不安で落ち着かなくなってしまう。
小さな溜息をついたわたしの肩をそっと抱いたノアが、わたしの顔を覗き込んだ。長い前髪と黒縁眼鏡の向こうで、夕星が優しく輝いている。
「店を畳んだわけじゃないんだ。次に来たらまたやってるさ」
「うん……そうね。じゃあ今日はどこに行く?」
「ラルスに教えて貰った店があるんだ。今日はそこに行ってみないか」
「いいわね、連れてって」
肩を抱いていた手が、今度はわたしの手を握る。手袋越しでは温もりが伝わらないけれど、ノアと手を繋ぐのが好きだ。絡む指にぎゅっと力を込めると、応えるようにノアも握り返してくれる。それだけでわたしの胸は早鐘を打ってしまうのだ。
ノアが連れてきてくれたお店は、あまりりす亭からそれほど離れていなかった。席は半分程埋まっているけれど、騒がしいというわけでもない。落ち着いた雰囲気の中でお客さんは食事を楽しんでいる。
奥のテーブル席に案内されて、ノアが椅子を引いてくれる。着ていたコートを脱いで椅子の背に掛けてから座った。手袋やマフラーはお店に入る前に雪を落としているけれど、少し濡れてしまっている。
「さて……何を飲む?」
「今日はワインの気分。白にしようかしら」
「俺もそうするか。食べたいものは?」
「お任せで」
「了解」
片手を挙げて店員さんを呼んだノアが注文をしてくれる。人当たりの良さそうな店員さんがにこやかに注文を受けて、厨房へと向かっていった。
然程待つ事もなく、店員さんがワイングラスを銀トレイに載せてやってくる。細いグラスに注がれた白ワインが、お店の明かりを受けてきらりと光った。
わたし達の前にグラスと小皿を置いていく。小皿に乗せられているのは小魚のフリッターだった。まだ湯気のたっているフリッターには赤いソースが添えられていて、スパイシーな香りが食欲をそそる。
「じゃあ、乾杯」
「乾杯」
グラスを掲げてから、一口飲む。口の中いっぱいに華やかな葡萄の香りが広がって、とても飲みやすいワインだった。辛口ですっきりしているのも美味しい。
両手を組み、女神様に感謝の祈りを捧げてからフォークを手にする。
まだ熱そうなフリッターをソースに浸してから口に運んだ。
「んん、辛っ……」
酸味のある辛さがピリリと舌を刺激する。吐息に熱さと辛さを逃がしながら、白ワインを一口飲んだ。まだ口の中がひりひりするのは、少しソースが多すぎたのかもしれない。
「大丈夫か?」
「ええ。ソースをつけすぎちゃったかも」
「無理すんなよ」
今度はソースを、ちょんとつけるだけにする。からっと揚げられているフリッターはそのままでも美味しいだろうけれど、これくらいのソースで試してみたい。自分好みの美味しさを見つけられたら嬉しいもの。
そっと口に入れたフリッターは、ソースの量がちょうど良かったのか、さっくりとした食感も味わえた。ふっくらとした白身も美味しいし、ピリッとした辛さがいいアクセントになっている。
「美味しい。このくらいでも充分だわ」
「辛いのはあんまり得意じゃないんだな」
「食べられないわけじゃないんだけど。何事も適切にって事ね」
「そうだな」
ノアはわたしよりも多めにソースをつけている。結婚して四か月になるけれど、辛いものも平気だっていうのは、わたしの知らなかったノアの一面だ。まだまだ新しい姿を見られるのが嬉しくなってしまう。
またワインを飲んでいると店員さんが料理を運んできてくれた。
テーブルに並べられたのは、わたしの好物でもあるビーフシチューだ。牡蠣のオイル煮にはキツネ色に炙られたバゲットが添えられている。
「いい匂い。これは……赤ワインにしようかしら」
「頼むか」
ノアが店員さんを呼んで注文をしてくれている間に、グラスに残っていた白ワインを飲み干した。ああ、でもエールもいいかもしれない。この次はエールにしよう。
そんな事を考えながら、ビーフシチューにスプーンを沈めた。塊のお肉がお皿の中央に鎮座している。スプーンでつつくと、ほろほろと簡単に崩れてしまう。
食べやすい大きさに崩したお肉にシチューを絡ませてから口に運んだ。
ほどけるというより、蕩けていく。
蕩けた先から口いっぱいにお肉の旨味が広がって、すごく美味しい。
「美味しい……」
「はは、幸せそうな顔してんな」
「ノアの好きな顔でしょ」
「違いねぇ」
こんな軽口も慣れたものだ。だけど、わたしを見つめる瞳の甘やかさには、未だに鼓動が跳ねてしまう。それはノアには内緒にしているのだけど。
店員さんが赤ワインで満たされたグラスをテーブルに置いてくれる。
早速グラスを持って口をつけた。少し重めの口当たりがビーフシチューによく合っている。
ふと窓から外を見ると、先程よりも雪が強くなっているように思えた。
綿のようだった雪は粒を小さくし、休む間もなく降り積もっていく。外灯の明かりに照らされた雪が風に煽られていた。
「天気が悪いな」
「帰る時には弱まっているといいんだけど」
「それまで飲んで待つしかねぇな」
「天気の良し悪しなんて関係なく飲むんでしょ」
「俺だけじゃないだろ」
肩を竦めて見せると、ノアは可笑しそうに喉奥で笑った。
こんなところは結婚前から変わっていない。そんな雰囲気が心地よくて、やっぱりノアと過ごすのが好きだと実感するばかりだ。
そんな事を思いながらワイングラスを空にした。
片手で店員さんを呼んだノアが、目で問いかけてくる。「エールで」とお願いすると、自分の分と合わせて注文をしてくれた。
「もうすぐ旅行の日だけど、休みは問題なく取れそうか?」
「わたしは大丈夫。ノアは?」
「俺も。何かあったとしても休ませてくれるって、王太子殿下からも言われてるしな」
王太子殿下がそう言って下さる理由が頭をよぎって、苦笑いが漏れてしまった。
結婚前に、アンハイムから来ていた王女殿下とのいざこざがあった。今回二人揃って長期のお休みをいただける事になったのは、その件でのお詫びのようなものだという。
結婚したら一緒に旅行に行きたいなんて話していたから、有難くお休みをいただく事にした。
行先は──隣国エストラーダ。
「クラウス義兄さんがエストラーダの田舎で、美味い郷土料理を見つけたって前に言ってたんだ。そこまで行く余裕はないから、王都で食えるといいんだけど」
「美食の国だもの、きっと食べられるわ。わたしはワインが楽しみ。名産地なのよね」
行きたいお店や、食べたいものはリストアップしている。
滞在している間にどれだけ巡る事が出来るのか、それも楽しみだ。
「……旅行に行く前に、エマさん達に会えるといいんだけど」
「そうだな。旅行前にまた行ってみようぜ」
ノアの言葉に頷いて、テーブルに届いたばかりのジョッキを持ち上げた。
美味しい夜は、まだこれから。
第三部です!
毎日更新出来るよう頑張りますので、応援よろしくお願いします!




