3-39.特別じゃなくても
図書室のドアを開ける。
暖炉には小さな火がくべられている。
いつ訪れてもいいように、使用人が気遣ってくれているのだ。それを有難く思いつつ、暖められた部屋にほっと息を吐いた。
手にしていた水差しを暖炉前のテーブルに置く。そのままソファーに座り込んだ。
湯浴みも終えて、あとは眠るだけだったのに、どうにも喉が渇いてしまったのだ。どうやら飲み過ぎてしまったらしい。
お願いしたら水差しを持ってきて貰えるのは分かっていた。でも少し歩いた事で酔いも醒めてきた気がするから、やっぱり自分で取りに行って良かったと思う。
水差しを持って、寝室に帰るだけ。
そのつもりだったけれど……途中、図書室の前を通るとちょっと寄りたくなってしまった。
今日はもう読めないだろうし、明日はどうだろうか。でも次に読む本を決めてもいいと思って……というのは、ただ図書室に寄りたいだけの言い訳かもしれない。
でもそれだけお気に入りの場所なのだ。
たくさんの本、様々なジャンルの本で満たされた本棚。お気に入りのソファー。冬は使う事がないけれど、お庭の東屋に続く為のドア。
好きなものだけで満たされた空間だった。
今夜はあまりりす亭でたくさん飲んで、いっぱい食べて、色んな事をお喋りして。
笑って、泣いて、なんとも忙しい夜だったと思う。
それでも思い返すだけで笑みが零れてしまうのだから、とっても楽しい夜だった。
でもこういう夜は、これからだって訪れるのだ。そう思わせてくれる時間を過ごせたのが嬉しかった。
ソファーの背凭れに体を預けて、深く息を吐く。
サイドテーブルに置かれているランプは、エストラーダで買って来たものだ。ジェイド王子おすすめのお店で、ノアが気に入って買ってきたランプ。
エストラーダの宿でも灯してみたけれど、貝殻を使って描かれた花模様がとても美しいランプだった。一部はステンドグラスが使われているから、優しい明かりがゆらゆらと揺れ動く度に、壁に花を映す様子も綺麗なのだ。
今は灯されていない、そのランプをぼんやりと見つめる。
勢いよくドアが開いたのは、わたしがそんな時間を過ごしていた時だった。
「……いた」
後ろに撫でつけられた髪はまだ濡れているようにも見える。
ドアノブに手を掛けたまま、ノアは小さく呟いてから深くて長い溜息を吐いた。
「ノア?」
「お前なぁ……」
ドアを開けたままでノアがソファーへと近付いてくる。その足取りはいつもよりも性急で、足音だって大きく聞こえる。
怒っているわけではないだろうけど、一体どうしたというのか。不思議に思ったわたしが首を傾げると、ノアの手が頭に乗る。髪をわしわしと手荒く乱されてしまって、わたしは頭に触れる手を両手で掴んだ。
「どうしたの?」
「寝室にいねぇから……どこにいるかと思った」
「探してくれたの?」
「心配にもなるだろ。屋敷から出たとは思ってねぇけど、お前もだいぶ酔ってたし。どっかで行き倒れてたら、風邪でも引くかもしんねぇしさ」
「ふふ、ありがとう」
そんなに心配されるほど酔っていただろうかと考えて……確かに、いつもより酔っていたかもしれないと申し訳なくなった。
お店では平気だったのに、迎えの馬車に乗ったら何だか眠くなってしまって。隣に座るノアに凭れ掛かって、うたた寝をしてしまった。お店からお屋敷まで、そんなに遠くないにもかかわらずだ。
楽しくて飲み過ぎてしまったけれど、気を付けないといけないかもしれない。
そろそろ部屋に戻ろうか。そう思って立ち上がり、掴んでいた手を片方握った。
「喉が渇いたから水差しを取りに来たの。そのついでにちょっと寄りたくなっちゃって」
「俺に言えば取ってきてやったのに」
「ノアもお風呂に入ってたでしょ。……まだ髪が濡れてるわ」
空いた逆手でノアの髪に触れてみる。
水が滴るほどではないけれど、まだちゃんとは乾いていない。開けたままのドアからは廊下の明かりが差し込んでいる。濡れた黒髪がその明かりを映していた。
わたしが握った手を、指先絡めて繋ぎ直してくれる。逆の手ではわたしが置きっぱなしにしていた水差しを持ってくれた。
「部屋で拭いてもらうか」
「いいわよ。エストラーダで買ってきた香油をつけてもいい?」
そんな事を話しながら、廊下に出る。後ろ手にドアを閉めるわたしの髪に鼻を寄せたノアはふっと優しく微笑んだ。
「この匂い?」
「そう。薔薇園で買ったやつ」
「いいぞ。ラルスに自慢してやるか」
「ええ? 自慢になるの?」
「なるだろ。奥さんが乾かして香油をつけてくれたって言えば」
「わざわざ言わなくたっていいのに」
こんな事を言っているけれど、ラルスさんと仲がいいのは分かっている。
エストラーダでもラルスさんへのお土産を楽しそうに選んでいたのを見ているもの。何を選べば喜んでくれるか、何が使いやすいのか、色々考えているのが伝わってくるほどだった。
手を繋いだままで寝室へとやってきた。
ウィスキーが入っている棚からグラスを持ってきたノアが、お水を注いでくれた。そのグラスを受け取って、お水を飲む。一口でいいと思っていたのに、美味しくて一気に飲み干してしまった。
空いたグラスに、またお水が注がれる。それはノアが飲むようだ。
その間に髪を拭いてあげようと思ったのに、わたしの腰を抱いたノアがソファーへと腰を下ろす。
お水を一口飲んで、ノアがグラスをテーブルに置いた。
「髪を拭いてあげようと思ったのに」
「頼むけど、でも今はこっち」
悪戯に笑って、ノアがわたしの体を抱き上げる。
そのままノアの膝の上に横向きに座らされた。別に初めてなわけではないのだけど、まだ慣れない。距離の近さというよりも、この姿勢が恥ずかしくなってしまうのだ。
それを分かっていながら、ノアがわたしの肩に額を押し付ける。
「今日も楽しかったな」
下ろして欲しいと言いたかったのに、ぽつりとそんな事を呟かれるから頷く以外に出来なかった。
いつもよりも柔らかな、わたしだけが知っている声。
「ええ、楽しかった。ご飯もお酒も美味しかったし」
「飲んだワイン以外にもマスターが屋敷に送ってくれてたんだけど、どれもとんでもないものばかりだったぞ」
「希少なもの?」
「そう。手に入れるには苦労するか、手に入れる事さえできないものばっか」
「いいのかしら」
「褒賞って事らしいからな。有難くいただこうぜ」
確かに、褒美として貰ったものを返すわけにはいかないだろう。
それなら有難く頂戴して、美味しく飲ませてもらうのが一番なのかもしれない。
美味しいって事しか分からないけれど、ノアが色々教えてくれるだろう。それも楽しみだ。
そんな事を思いながら、ノアの首に両腕を絡ませる。顔を寄せたノアが啄むような口付けをくれるから、擽ったくて笑みが零れた。
「明日の休みは何をしようか」
「そうねぇ……」
「家でのんびり本を読んでてもいいし、カフェに行ってもいいし」
「あ、それならカフェに行きたいわ。期間限定のケーキがあるはずなの」
「よし、決まり。その後はのんびり散歩でもするか」
「いいわね」
特別な事があるわけじゃない。
明日も、その先も。穏やかな日常を繰り返していくのだ。
でも、その日常が大切だって分かっている。
大切に日々を過ごそうと思うのは──ノアと一緒だから。
「ねぇ、ノア」
「ん?」
「愛してる」
「俺も。愛してる」
睦言をくれる時の声が、甘くなるのが好きだ
わたしを見つめる夕星が色を濃くして輝いている。
なんだか胸の奥が切なくなって、ぎゅっとノアに抱き着いた。
そんなわたしをノアは受け止めてくれる。それも嬉しくて、幸せだと思う。
これからもわたし達は、こんな毎日を過ごすのだろう。
かけがえのない、愛しい日々を。
唯一の人と、心を繋げながら。




