3-35.過去よりも未来を
今日はとってもいい天気。
陽射しも強く、屋根からの垂り雪が軒下へと積み上がっていく。つららは溶けて水滴を垂らし、それに穿たれた氷面に水が溜まっている。その水には陽の光が煌めいて眩いくらいだった。
そんな様子を、わたしは旧市街のお店に併設されているサロンの窓から眺めていた。
屋根から滴る水が、まるで雨を思わせる。外を歩いている時も少し汗ばむほどの陽気だった。
まだ冬も最中だというのに、春を思わせるくらいに。
「お待たせしました」
掛けられた声に、窓から視線を外す。
店員さんが持ってきてくれたのは、チョコレートケーキとコーヒー。わたしとノアの前にそれぞれ置かれたケーキには、お砂糖で出来た花弁が散らされている。色とりどりの花弁が見た目にも美しいケーキだった。
「とっても綺麗ね」
「ああ。砂糖でこんなに薄い花弁を作れるんだな」
「すごく繊細だわ。食べるのが勿体ないくらい」
「でも?」
「食べるけど」
食べてなくなってしまうのが勿体ないとは思うけど、食べないという選択肢はないのだ。ノアもそれを分かっていて、おかしそうに笑っている。
そんなノアにわたしも笑って見せながら、フォークを手に取った。
丸い形をしたケーキには、とろりとしたチョコレートを垂らして固めたようだ。キャンドルを思わせるようなその形が何とも可愛らしい。
半分に割ってみると、中からはベリーソースが溢れ出てくる。黒にも似た濃い茶色のチョコレートと、深い赤のソースが色鮮やかだ。
一口大に切り分けたケーキにソースを絡めて食べてみる。
甘いチョコレートに酸味の強いソースがよく合っている。プラリネも練り込まれているのか、独特の食感がアクセントになっていて美味しい。
お砂糖の花弁を口に入れると、ほろほろとほどけて消えていく。溶けるというより消えるという表現がぴったりな程に儚かった。
「美味しい。濃厚なのに食べやすいのはベリーソースのおかげかしら」
「ソースも果肉が大きくて美味いな。この後にコーヒーを飲んだら、コーヒーがもっと美味く感じるぞ」
本当に?
そう思いながらカップを口に寄せてコーヒーを飲んだ。
その瞬間、わたしは目を丸くしていたと思う。それくらいに驚いてしまったのだ。
フルーティーな酸味を感じるコーヒーが、ケーキの甘さを緩和させている。
豊かなコクは苦味となって余韻を残すけれど、すっと消えて口の中をさっぱりとさせてくれた。そうなるとまたケーキが食べたくなるのだから、これはこのケーキの為に淹れられたコーヒーだ。
「美味しい……」
「いい店を教えて貰ったな」
このお店は昨日、カミラ王女がおすすめしてくれたチョコレートの専門店だ。併設されているサロンで食べられるというケーキが気になって、早速やってきてしまったのだけど、それは間違いではなかったと思う。
チョコレート好きなカミラ王女がおすすめしてくれるだけあって、店舗は美しいチョコレートに溢れていた。
チョコレートボンボンも、オランジェットも、テリーヌだって美味しそう。
宿で食べようと思って、ナッツとドライフルーツの混ぜ込まれたチョコレートバーも買ってしまった。本当は全部試したいくらいなのだけど。
「……カミラ殿下は変わったな」
ぽつりとそんな言葉をノアが零す。
その言葉に頷きながら、またケーキを口に運んだ。ソースが多かったのか、さっきよりも酸味が強い気がする。
「もう関わる事もないと思ってた。離宮に幽閉されて過ごすもんだと思ってたしな。でも今回再会して、謝罪を受けて……こうして助けて貰って。自分で思っていたよりも、あの件は過去の事になっていたんだなって自覚した。……辛くて、苦しかったはずなのにな」
苦々し気にノアがそんな事を口にする。
カミラ王女への苦い気持ちが薄れていく事を、過去の自分が許せないと思うのかもしれない。そんな気持ちがわたしにはわかるような気がした。
あの時辛かった気持ちが、昇華されていくことを認めていいのかと思ってしまうのだ。
でもこれは、受け入れていくべき想いなのだろう。
「終わった事だって、そう思えているのよ。ノアも、わたしも。過去を引き摺って、恨み続けていくのは、過去を受け入れるよりずっと辛くて惨めな事だと思うわ」
「アリシアも、俺と同じ思い?」
「ええ。……あの事を過去の事だと受け入れられているのは、今が幸せだからだと思うの。ノアと過ごす今が幸せで、楽しくて、嬉しくて。過去に思いを残す事が出来ないんだわ」
「そうか。……そうだな」
わたしの言葉にほっとしたようにノアが頷く。
あの件で、わたしとノアが引き離されるような事があったら。わたし達の間に亀裂が入っていたら。わたし達が──お別れをしていたら。
きっとわたしは今も過去に囚われていた。
ノアへの想いを引き摺って、カミラ王女を恨んで、全てを憎んで生きていたかもしれない。
でもそんな未来は訪れなかったのだ。
だからわたしはもう、終わった事だと受け入れている。今、わたしの目の前にはノアが居てくれる、わたしを愛しているとその瞳が、触れる熱が、囁く声が、伝えてくれているから。
わたしは前を向いていられるのだ。
「もう、終わった事だな」
「そうよ。終わった事に意識なんて残さないで。これからのわたし達の未来だけを、見つめていけたらいいなってそう思うわ」
わたしの言葉にノアが嬉しそうに笑う。
フォークを握るわたしの手に、ノアの手が重なった。
「アリシア」
「なぁに?」
「愛してる」
不意に紡がれた言葉に目を瞬いた。
その言葉を理解すると、顔に熱が集まっていくのが分かる。絶対に顔が赤くなっている。
おろした前髪で、ノアの瞳はよく見えないけれど。でもその瞳が優しく細められているというのは想像出来る。
口元は幸せそうに弧を描き、囁く声には熱が籠められていた。
「……わたしもよ」
何とかその言葉だけを絞り出すと、ノアは嬉しそうに笑った。
そんなノアの事が愛しくて堪らないと思う。
だから、想いのままに言葉を紡いだ。
「ノアの事を愛してる。わたし、幸せよ」
わたしの言葉に、ノアが息を飲んだのが分かった。
触れてくれる手にぎゅっと力が籠もる。フォークはとうにお皿の上に離してしまった。
テーブルの上で、指を絡めて手を握り合った。
前髪と眼鏡の奥、夕星がわたしを真っ直ぐに見つめていた。




