3-18.伝えたい気持ち
応接室でマスターを待つ間、会話を主導してくれたのはヨハンさんだった。
最近読んだ本の話とか、図書館の造りが珍しいとか、彼らしい話題のチョイスにほっとしてしまう。先程のエミルとのやり取りに触れないでいてくれるのは、気遣いなのだろうと思う。
わたしはエミルに言われた言葉が棘となってちくちく痛むし、ノアの機嫌は悪いままだ。
ノアが不機嫌になったのも、間違いなくエミルのせいではあるのだけど……わたしに責任がないともいえなくて、申し訳なさで胸が苦しい。
気まずさから零れそうになる溜息を飲み込むのが、もう何度目かも分からなくなってしまった。
「大丈夫か? 顔色が悪い」
掛けられた声に顔を上げると、隣に座っているノアがわたしの事を見つめていた。
心配そうなその声に、何だか泣きたくなってしまう。気を悪くさせてしまったのに、それでも優しいこの人はわたしを思いやってくれるのだ。
「ええ、大丈夫。……でも、後でちょっと話がしたいわ」
「俺も」
先程よりもノアの声が柔らかいように思う。それだけで張り詰めていた空気感が崩れていくようだった。
ノアがわたしの手を握り、自分の膝の上に乗せる。いつもと変わらない温もりに安心してしまう。
話をしよう。今までだってそう。何があっても、気持ちを伝えあってきたじゃない。
わたしが不安になったなら、それをノアに伝えるべきだ。一人で抱えてもいい事はないって、わたしは充分に知っているはず。
そう気持ちを切り替えた。
まだ胸に刺さった棘は抜けそうにないけれど、いつまでもこんなものに苛まれているわけにはいかないもの。
そんな事を考えていたら、扉が開いた。
走ってきたのかマスターの額には薄く汗が光っている。呼吸を整えようとしてか、一度大きく息を吐き出してからマスターはわたし達と向かい合う位置のソファーに座った。
入れ替わるようにヨハンさんは一人掛けのソファーから立ち上がる。
「ヨハン殿、居てくれて構わない。君達にも感謝しているんだ」
「いえ、僕は何もしていないんですが、お言葉に甘えます。ジェイド様に聞かれたらうまく言っておいて下さい」
いつもと変わらないヨハンさんの様子に笑みが漏れる。
ジェイド殿下はきっと、ヨハンさんが何をしているか全部分かっていそうだけど。
わたしはバッグから一通の手紙を取り出して、テーブルの上に置いた。エマさんからの手紙だと気付いたマスターが目を瞠っている。
「マスター、急に訪ねてごめんなさい。手紙を預かってきたの」
「こんなに早く返事が来ると思わなかったな。まだ俺の手紙も届いていないと思ったのに。……ブルーム商会にも無理をさせてしまったんじゃないだろうか」
「ルガリザンド行きの便に一緒に載せて貰えたから大丈夫。向こうから届く荷物もあったそうだから、商会の事は気にしないで」
「恩にきる」
マスターはそう言いながら、手紙を受け取って封を開いた。
少し厚みのある手紙にはエマさんの心がたくさん綴られているのだろう。手紙を読むマスターの表情は、あまりりす亭を思い出させる程に優しいものだった。
紙が擦れる音だけが響く。
指先で文字をなぞったマスターが深い息を吐いた。安心したというように、温かいものだった。
「届けてくれてありがとう。ブルーム家でも良くして貰っていると書いてあった」
「エマさんが元気に過ごせているなら、わたしも嬉しい」
あまりりす亭の前で会ったエマさんの姿を思い出す。
窶れてしまって、不安に瞳を揺らしていたあの姿はもう見たくないと思う。もしあの日あの時にあまりりす亭を訪ねていなかったら、エマさんに会う事が出来なかったらと思うと偶然に感謝したかった。
「リガス殿下、陛下のご容体はいかがですか」
「快復に向かっているが、まだ執務に戻れる程ではないんだ。病の原因も分かっていないから、無理をさせるわけにもいかなくてな。ジェイド殿下にも君にも迷惑をかけているが……」
「リガス殿下と王妃殿下のおかげで、条約の締結に向けて話は進んでいますから。それに僕はまだこの国の本を読んでいたいので、まだ時間が掛かっても問題ないです。ロサ・イブリットの生原稿も見せて貰う約束をしているんですよ」
丸眼鏡の向こうで目を輝かせているヨハンさんは、相変わらずブレない人だと思う。ノアもマスターも苦笑いをしているけれど、わたしは何だか安心してしまうのだ。
それに……ロサ・イブリットの生原稿はわたしも見たいと思ってしまう。
「マスター、陛下の病は原因不明なのか?」
「ああ。お前達が口外するとは思わんから言ってしまうが……俺がこの城を訪れた夜に、急に倒れたんだ。それまで元気だったというから、毒の可能性もある。それもあって俺はこの城を出る事が出来ないでいる」
ノアの問いにマスターが答えるけれど、それはあまりにも重すぎる話だった。
目を丸くしてしまったのは、わたしだけではなかった。ヨハンさんは何か知っていたのかもしれないけれど、思わず顔を見合わせたわたしとノアは、お互いが驚きを隠せないでいる。
「待ってくれ。それじゃ……まるで、マスターが──」
「疑われているという事だ。誓って俺は何もしていないが、それを証明する事も出来ないからな。兄がすぐに意識を取り戻した事と、義姉上の口添えもあって拘束されてはいないのは幸いだが」
「それは門兵達が俺達を入城させたがらないのも納得だ」
「すまないな。近い内に解決させるが、その後が色々面倒になりそうで色々動いている最中というわけだ」
「そうか……。出来る事があれば、言ってくれ」
「ありがとう」
マスターの口振りだと、もう毒を盛った犯人が分かっているようだけれど。どこまで首を突っ込んでいいのかも分からずに、わたしはノアとマスターの話を聞いている事しか出来なかった。
「お前達に危害が加えられる事はないと思うが……重々気を付けて欲しい。ノアが居るから大丈夫だとは思うがな。お前達に近付く奴がいたら教えてくれ」
マスターの言葉にエミルの顔が思い浮かぶ。
ううん、エミルはたまたま会っただけで……彼は元々エストラーダの出身だし。
そう思いながらも、わたしは口を開いていた。
手紙を取り出すのに一度離していた手が、またノアに捉えられる。それに背を押して貰っているような気がした。
「あのね……文官で出仕している人に、わたしの幼馴染がいるの。名前はエミル・ヴェヒター。宰相閣下の部下みたいだったけれど」
マスターは一瞬眉を寄せてから、ソファーに深く背を預けた。
薄オレンジの瞳が警戒するように眇められる。
「俺とエマを別れさせようとしているのは、スカビオサだ。アリシアの幼馴染はそれには関係ないと思うが……警戒はしておいて欲しい」
「ええ、分かった」
マスターに伝えて良かったと、わたしは胸を撫で下ろした。
そうだ、些細な事でもいいから伝えた方がいい事もあるのだ。
わたしは手を返して、自分からもノアの手を握った。
このあと、ちゃんと話そうと心に決めて。




