第3話
康大は崖にへばりつきながら、ほぼ透明な縄の上を曲芸師のような気持ちで歩く。
縄から地上までの高さはおよそ10メートルほど。
その距離から分かるように、まだ登り始めてから10分も経っていない。
「・・・・・・」
しかしその高さは康大の足をすくませるには充分であった。
そもそも10メートルと言えば、およそ一般的なマンションで4階程度の高さである。そんなところを命綱もなしにいるのに、平然としていられるわけがない。
「・・・・・・」
康大はなるべく下を見ないようにした。
しかし、次の一歩を踏み出そうとした瞬間、それが大きな間違いだと気付く。
何故なら自分が今渡っている縄はほぼ不可視で、康大の視力ではよく見ないと踏み外す可能性が高いのだ。怖いと分かっていながらも、足元を見なければ進むことは出来なかった。
「康大殿、大丈夫でござるか?」
圭阿が少し不安そうに康大に言った。
一向に進まない康大の姿を見て、ようやく自分がどれほど無茶を言ったのか圭阿にも理解できたようだった。
事実、現在康大が先頭でその後ろに圭阿が続いているのだが、その歩みは遅々として進まない。
10分も経っていないとはいえ、出だしから思いきり計画が狂っていることは明らかだった。
「だから言ったじゃねえか! 無理だって!」
康大は後ろを振り返らずに怒鳴る。
振り返れば、その首を回すという動作だけで落ちそうな気がした。
「とにかく今なら引き返せる。やっぱりお前だけ行くべきだ」
なりふり構っていられなくなった康大は、最後の説得とばかりに言った。
自分の能力が圭阿の想像より張るかに劣っていたことは、男として情けない。だが、それでも止める理由になるというのなら、我慢も出来た。
しかし、圭阿はそれでも頑として首を縦には振らなかった。
「確かに康大殿は拙者の予想よりはるかに遅いでござる。然れども、それもまた想定内、どんなに遅くとも、この山越えが一ヶ月もかかることはござらぬ。ここまで来た以上、もはや引き返す道などありませぬ!」
圭阿は強い眼差しで言った。
その口調からも計画変更の余地は一切感じられない。
そこまで覚悟してしまった以上、もう足を踏み外して物理的にいけなくなるぐらいのことをしなければ、中止にはしないだろう。
そんな真似絶対にしたくないが、事ここに至――、
(いや……)
――ろうが、その程度のミスぐらいで中止にするとは思えない。
もはや戻る道など無いことを、康大は改めて思い知らされた。
(こうなったら覚悟を決めるか……)
止まっていたその重い足を康大は無理矢理動かす。
今までは引き返すことも考えて、慎重の上に慎重を重ねわざとゆっくり進んでいた。
けれども、もう後戻りは出来ないと確定してしまった以上、逆になるべく早く終わらせるより他ない。この場所にいる時間が長ければ長いほど、命が危険にさらされる時間も長くなるのだ。
「康大殿その意気でござる!」
康大の捨て鉢なやる気は圭阿にも伝わり、圭阿はより強く康大を鼓舞した。
少しでもやる気が芽生えたのならそれを消してはいけない――そう判断したのだろう。
その一方で、やる気に水を差すことを全く厭わない人間もいた。
「なんか色々やってるみたいだが、随分遅いぞ。あまり時間がかかるようなら私が前にでた方がいいのではないか?」
空気が読めないザルマが先頭の康大に向かって言った。
現在の隊列は康大と圭阿の後ろに、ハイアサース、最後尾にザルマと続いている。
ほとんど進まない先頭にザルマはずっと不満を抱き、それをそのまま口に出した。
康大の元から無かったやる気が、すぐにしぼんでいく。
「やっぱり恥をかいても止めた方が……」と言う呟きが圭阿の耳に届いたあたりで、圭阿が動く。
「貴様は口を動かす前に周囲に気を配っていろ!」
「へげっ!?」
崖にあった岩を、あまり手加減せずにザルマに投げつける。
ハイアサースの脇を見事にすり抜けた岩は、ザルマの脇腹に過たず命中した。
強烈な一撃を受けたザルマは、それでも崖にしがみつき、落下に耐える。
手加減の見られない一撃だった。
「康大殿、問題はどれだけ早く進むかではありませぬ。ただ確実に進むことなのです。それさえ続ければ、いずれ目的は達成されます!」
圭阿は力強く言った。
「・・・・・・」
その程度の正論で気持ちが立て直せるほど、康大の精神も単純ではない。
ただ、あまりに眩しすぎる圭阿の目が、死んでも引き返すことを許さないと、これ以上ないほど語っていた。
つまり、やる気があろうがなかろうが、やるしかないのだ。
「はああああああ……」
康大は大きくため息を吐いた。
そして黙って次の一歩を踏み出す。
この地獄の行軍も、終われば良い思い出になると現実逃避しながら。
そしてさらに1時間の時が流れた――。
「……やばい」
高さはすでに100メートルを超えている。
もはや康大がいる位置より背の高い木は、辺りには存在しない。
眼下に見えるのは緑色の絨毯。
落ちれば死ぬ。
ゾンビだろうが、確実に無事ではいられない高さだった。
肌で感じる風も、少し前より冷たい気がした。
冷や汗に関しては、最初からずっと流れ続けているが。
また、恐怖を覚えたのは康大だけではなかった。
「……死ぬ」
ハイアサースが青い……を通り過ぎたゾンビの顔で呟いた。
田舎育ちではあるものの、彼女の故郷はそこまで標高は高くはない。……というより、こんな山に登ったのは康大同様生まれて初めてだった。
せいぜい常識的な坂道を、山菜採りのために登る程度の経験だ。
怖いと思わないはずがない。
この辺りから、ハイアサースも目に見えて進む速度が遅くなっていた。
変わらないのは圭阿と、そして基礎能力だけは高い上に、無駄に高所適正のあるザルマだけだ。
「……もう少し、いや、なんでもない」
ザルマは言いかけて口をつぐむ。おそらくまた急かそうとしたのだろう。
さすがにこの状況で圭阿にどつかれれば、ただでは済まない。
それはザルマでも理解出来るほど当然のことだった。
しばらくの間、4人は無言で縄を渡る。
高所の景色を楽しむ余裕など欠片もない。そもそも、景色は恐怖の対象に過ぎず、安全の為に見たくもないのに見せられている。
さらに1時間ほど経ったところで、
「ここで休憩にしましょう」
珍しく圭阿から切り出した。
もちろん人が通れないような山に、上等な休憩小屋があるわけではない。
未だ崖を伝って縄を歩いているので、休憩するのは自然に出来た場所でということになる。
今回使ったのは、崖の途中に自然に作られた凹みのような狭い空間で、4人の人間が座るどころか立ちながら出なければ、収まりきらない場所だった。
それでもいつ切れるか分からない縄の上よりは遙かにマシだ。
康大は大きく息を吐き、ハイアサースはタイミングを見計らって回復魔法を使いゾンビ化を治す。
「……それで、この現状を見ても未だ本気で登り切れると?」
しばらく康大は黙ってハイアサースの呪文を聞いていたが、やおら口を開いて言った。
今回の抗議は完全な当てつけだ。ここまで登って、やっぱり帰ろうと言われればそれはそれで腹が立つ。
ただ嫌みの1つでも言わなければ気が済まなかった。
圭阿が肩を狭くする。
康大に対してはあくまで彼女なりに下手である。
元から小柄の少女が、さらに小さくなった。
「おいお前! 言いすぎだぞ!」
ザルマが圭阿の肩を持つ。
康大やハイアサースと違い、ここまで登ってもまだそこまでの疲れは見られない。
これは持って生まれた才能だけでなく、日頃の圭阿によるしごきも関係しているのだろう。
そう思わせる適応能力だ。
「・・・・・・」
呪文を唱え終えたハイアサースは、否定の肯定もしなかった。
康大がただ八つ当たりをしていると分かっていても、圭阿が舌先三寸で無理矢理連れてきた理不尽さも理解出来る。
どちらにも非がある以上、何も言えない。
康大も、自分の意地の悪さは理解していたので、ことさらザルマに食いかかったりはしなかった。
けれど。
「お前は黙っていろ!」
「ほげぇ!」
ザルマは味方のはずの圭阿にいつものようにどつかれる。
これにはさすがに康大も同情した。
ただ圭阿も状況を弁え、そこまで強烈な攻撃はしなかった。
だが先ほどの岩による攻撃を踏まえると、10メートル程度の高さなら、落ちても何とかなると思っていたようだ。
どちらがゾンビか分からない頑丈さである。
「で、ですが康大殿! この崖登りはもうしばらくしたら終わるでござる! その後はそこまで厳しい道程ではないでござるよ!」
「・・・・・・」
圭阿の取り繕うように言った言葉は、とても信用出来るものではなかった。康大はハイアサースのように素直に「それは良かった」などと言うことはできない。
それでも一縷の望みにかけて、これ以上文句を言うのを止めた。言ったところでどうなるものでもないし、空気が険悪になるだけだ。
それなら見せかけの希望に騙されて足を進めた方が、よっぽどマシである。
何より本当に文句を言いたいのは、人間ではない。
「痛っ! ちょ、ゾンビは景色の一部になるんじゃないのかよ!」
縄を渡ることさらに一時間。
足だけでなく、崖を掴んでいる肉球も痛み出した頃、康大はさらなる試練に襲われる。
「わっ、ちょ、映画じゃないんだからさあ!」
康大は自分の頭に群がろうとする鳥の集団を、片手でずっと振り払いつづけていた。
そう、高さが200メートルを超えたあたりから、康大達は鳥の群に襲われるようになったのだ。
――いや、達という言い方は語弊がある。
襲われていたのは、あくまで康大だけだった。
実は鳥の襲来も予想して、圭阿は事前に鳥避けの香を焚いていた。
しかし、それが康大にだけは何故か効果が無く、一人集中砲火を受け続けているのである。
「どうしてこうなった!? ゾンビのスルースキルはどこいった!?」
「そ、それは拙者にもなんとも……」
「いや、大体想像がつくぞ」
ハイアサースが真面目な顔で答える。
どうせ碌でもないことを言うのだろうと康大は思っていたが、今回はそうでもなかった。
「その鳥はおそらく死体をむさぼる鳥だ。生きた人間には見えない分、餌に見えているんじゃないのか?」
尤も、禄でもないを通り越した、身も蓋もない話であったが。
「マジかよ!? ていうか未だ名目上は生きてるんですけど!?」
「はっはっは、滑稽な奴だ!」
ザルマが腹を抱えながら笑う。
康大と違い、体力的にも精神的にも未だかなり余裕があるようだった。
「・・・・・・」
圭阿はザルマを無言で軽くどつく。
ただ、ダメージ慣れしているせいか、その程度の攻撃ではザルマは大した反応も見せなかった。
馬耳東風……というより、蚊に刺されたとでも思ったのか、周囲をきょろきょろと伺う。
そんな2人をよそに、いよいよ康大を取り巻く状況は冗談では済まされなくなってきた。
「痛い痛い! つっつくな! ていうかマジ落ちる! ムリムリ! やっぱ来るんじゃなかった! 異世界来ての死因が滑落死とか斬新すぎだぞ!」
「むむ、これは些かまずい状況」
圭阿も事態の深刻さに気付いたのか、ザルマから視線を外し鳥達を睨む。
「なるべく温和に済ませたかったのでござるが、そういうわけにもいかない様子――」
そう言って圭阿は胸元に手を差し込み、懐から苦無を取り出す。
その様子をザルマは文字通り目を皿のようにして見ていた。
「・・・・・・」
「ぐはぁ!」
無言で放たれた圭阿の目つぶしが、見開かれたザルマの両目に突き刺さる。
もちろん苦無を持っていない方の手による攻撃だが、それでもザルマは縄から落ちそうなほどのダメージを受けた。
その影響を受け縄が揺られ、「うわっ!?」とハイアサースまで落ちそうになる。
ただ2人ともバランス感覚が優れているのか、それとも鎧の重さが逆に良かったのか落ちるまでには至らなかった。
問題は現在進行形で鳥に襲われていた康大だ。
「あ――」
――と一瞬声を上げ、呆気なく足を滑らせ縄を踏み外す。
後はそのまま自由落下。
地面に打ち付けられ、赤くグロい大輪の花を咲かすことになるだろう。
康大の頭の中でしょぼい走馬燈と共に、その光景が浮かぶ。
(思えば碌でもない人生だった……)
大して長くも生きていないので、これといった思い出もない。
青春を謳歌出来るような友人もおらず、学校も小学校中学校は公立で、高校は本命が落ちた滑り止めだ。思い入れはほとんどない。
何か成し遂げられたことがあるかと振り返ってみても、特に何もなく、ただサブカルにひたりながら漫然と生きてきた。
唯一誇れることといえば、美人で巨乳の婚約者が出来、その胸を揉みしだけたことか。
(あ、でもそう考えると悪くは無かったのかな)
現実セカイではしようと思っても、ほんの一握りの人間しか出来ないだろう。
それが高校生のうちに出来たのだから、平均的に見て意義のある人生だったのかもしれない。
康大がそこまで思ったとき。
「うお!?」
突然胃のあたりを思い切り押さえつけられる。
見れば知らぬ間にどうに縄のような者が巻き付いていた。
自由落下中の人間にこんなマネができる者など、康大の知る限り1人しかない。
康大は振り返りその人間の顔を見た。
「間一髪でござるな……」
そこには冷や汗をかき、渡っている縄とは別の縄を伸ばしている圭阿がいた。
その縄の先には康大の身体があり、これが康大の胃を押していたわけである。
「とりあえず引っ張り上げるでござるよ」
「いや……」
康大は胴体に巻き付いた縄をより強く身体に巻き付けながら言った。
「このままお前が運んでくれた方が楽だし安全だ。責任とって連れてってくれ」
「お前なあ……」
ザルマより先に、ハイアサースが婚約者のだらしなさに呆れる。
しかし、今さっきに死にかけた康大には、もはや恥も外聞もない。
また綱渡りをさせられ、転落するぐらいなら、プライドだろうがなんでも捨てられた。
圭阿は少し悩んでいたが、結局「分かり申した」と康大の提案を受け入れた。
「しかしこれだと急な敵襲に対処が出来ず、うまく康大殿を守れない可能性が……」
「すでに急な敵襲を防げてないんだから意味ねーよ!」
「くそっ! 圭阿卿に縄で身体を締め付けてもらえるなどなんて羨ましい!」
「・・・・・・」
珍しくハイアサースだけがこの状況に呆れる。
ただし、康大の情けない提案はそれなりの効果はあった。
圭阿が康大を引っ張りながら移動したことで進行スピードは一気に倍になり、康大も落ちることを気にせず集中して鳥を追い払えた。
「痛い痛い!」
とはいえ、啄まれるものは啄まれるし、痛いものは痛い。
結局康大はこの崖を登り切るころには、ぼろ雑巾のようになっていた……。