世界一周の理由
「音也先輩……助けて」
身長181cmの高みから声が降ってくる。
黒いパーカーをかぶった長身のイケメンにしか見えない優奈は、今や涙声だった。
「店員さんの英語が全然わからないの……」
普段は美青年と見間違えるくらいの凛々しさなのに、泣きそうな顔になると一気に年相応の女の子っぽさが増す。ついでに言葉も女子っぽくなる。
本人は「かっこいい大人の女性」を目指してるらしいので、「かわいい」「女の子っぽい」と伝えてしまうと不機嫌になるのが惜しいが。
「助けて……」
「やれやれしかたないな」
「助けて英語の語学留学で発音のクラスだけはAだった音也先輩……」
「はは、恣意的な何かを感じるがぼくは気にしないぞ?」
優奈とバトンタッチして店員に向かい合う。
まったく、サンドイッチの具を選ぶだけなのによくもうちの後輩を10分も拘束してくれましたね。
ぼくが教えてやろう……本当の英語というものを。
そして見ていろ優奈、これが本場アメリカ仕込みの流暢な発音によるコミュニケーションというものだ!
* * *
「いやー1ミリも通じなかったわぼくの英語」
むしゃむしゃとサンドイッチを頬張りながらつぶやく。
「だけど正直に言っていい? インド英語って死ぬほど聞き取りづらい」
「わかる!」
だん、と優奈がテーブルに拳を叩きつけ、周囲の反応を気にして縮こまる。
「私も最初は思ったんだ。『どうして英語で話しかけてるのによく分からない言語で返されるんだろう』って」
「そうなんだよ。何をどう聞いても英語じゃない、これもう絶対にヒンディー語だろって思って聞いてると……」
「文章の3%くらいの割合に英語っぽい単語が出てきて、それでようやく『もしかして英語なのかも?』って思って聞いてみたら……」
「やっぱりほとんど聞き取れない言語なんだよな、インド訛りの英語って」
はあ、とお互いため息をつく。
店員がしゃべっていた未知の言語は、ものすごくなまってて原型が消し飛んで別言語になりかけていた英語だったのだ。
「まあインド英語は地方によってかなり内容が異なるらしいし、今回は運が悪かったよ音也先輩」
「いやだいたいさ、英語ならもうちょっと英語っぽい発音とか文法にしてほしいよ。インドでも通じなさそうなめちゃくちゃな英語使っといて『なんでお前ら英語できないの?』みたいなすごい高飛車な態度とってくるあの店員ほんとあいつほんと」
「落ち着いてくれ先輩」
「だめだ。世はグローバル社会だぞ。英語が通じない店なんて存在してもいいのだろうか? もうちょっとインドの人には考えて欲しいものだ」
「音也先輩がご実家でバイトしてたときに外国語のお客さんがきたら必ず『なんで日本に来て英語を話すんだよ日本に来たなら日本語を話せファッキン』と言っていたという情報が」
「ヒンディー語を話せないぼくに救いの手を差し伸べてくれてありがとうございますインドの店員さん!」
* * *
コルカタ滞在2日目、サンドイッチで満腹になったぼくと優奈は2人で「死を待つ人の家」へ向かった。
「マザーハウス」とも呼ばれるその建物は、あのマザー・テレサが50年近く修道女の1人として精力的に活動し、そして永眠した場所である。
かなり騒々しい大通りに面しているものの、敷地に一歩足を踏み入れると急に静謐な雰囲気になるのが印象的だった。
「そういえば優奈はさ、」
どうして世界一周に行こうと思ったの——そう聞こうと思ったけど、優奈の厳粛な眼差しを追い、ぼくは押し黙った。
優奈の目線の先には、マザーテレサが眠る棺にキスする欧米系の女性観光客がいた。その人は涙を流しながら何事かを唱え、固く目を閉じ、あふれ出す感情を押しとどめるようにじっとうつむき続けていた。
きっとあの人にとってここは神聖な空間で、それを不用意に汚すことはぼくらにはできなくて、だからずっとぼくたちは沈黙を守った。
その人が立ち去るまで、ぼくら2人はずっとその様子を見ていた。
「……なんとなく、かな」
世界一周をするのが、と優奈がぽつりと漏らす。
マザーハウスの中庭をゆっくり歩きながら、優奈が「世界一周に来た理由」を語ってくれているのだと悟る。
「私は将来やりたいこととか、絶対に叶いたい夢とか、特にないんだ」
「今やってるモデルの仕事は?」
圧倒的高身長、小顔、眉目秀麗でスタイル良しの優奈には国内外からモデルのオファーが殺到しており、業界ではかなりの有名人だ。
一説によるとあのヴィクシーモデルへの打診もあるとかで、近い将来アジアを代表するスーパーモデルになるのではと噂されている。
「うーん……モデルは、まだちょっとよく分からない。ずっとやりたいかって言われても、はっきりとは答えられない」
「そうなんだ。てっきりモデルの道に進むのかと思ってたよ」
「優先度で言うなら……お嫁さん、の、方が、その……」
ちらちらとこちらを窺うような目線の優奈。
おいやめろ。ぼくみたいな女性経験皆無の高校生にその仕草は反則だ。
「この子……まさかぼくのことを好きなのでは!」って壮大に勘違いして自分の中ではもう付き合った気になってた清純派の長峰さんが翌週クラス1乱暴なヤンキー樺島くんとお泊りデートしたことが発覚して壮絶にぼくの恋心が破れて1週間不登校になった中学2年生時代のぼくを思い出すだろやめろやめろやめるんだ!
「そんなことがあったのか……」
ちょっと引き気味の優奈。
はっ。まずい。心情描写が口から漏れてた。
「ま、まあそれはともかく。結局、優奈の世界一周の目的って?」
「うーん……」
優奈はフードを目深にかぶる。
それは彼女が、漠然とした自分の気持ちの中から、なるべく正確に言葉を探り出そうとするときのクセなのだと最近分かってきた。
「…………自分探し、かな」
「自分探しかー。わかる」
「あはは。凪沙先輩や凛に比べるとあまり大層な理由じゃないけど」
「いや、世界一周なんてそんなもんだろ」
実際、ぼくが世界一周に出た理由もざっくり言っちゃえば「自分探し」だ。
それくらいならまだしっかりしてる方で、東南アジアで会った欧米系のバックパッカーなんかほとんどが「なんかヒマだから」「なんか時間が余ったから」「なんか若いうちだから」とか相当テキトーな理由で世界一周してる人たちばかりだ。だけどみんな、やたら楽しそうな人たちだった。
「でも私には、『どうしても世界一周しなくちゃいけない』っていう強い想いはなかったんだ。たまたま。運とタイミングがよかったってだけで、何となくでここまで来てしまった」
「……うん」
「別にそれは恥じてないし、実際に旅の途中でいろいろなことを学べたし、後悔は全然していないんだけど、……それでも焦るんだ。ただ逃げてるだけなんじゃないかって。世界一周は、現実逃避のための言い訳なんじゃないかって。やるべきことを見つけようともしない堕落者の、時間のムダづかいなんじゃないかって。……さっきみたいな、マザーの棺に傅く経験なキリスト教徒の人とか、そういう人を見るたびに思うんだ」
覇気のない瞳で優奈は続ける。
「私はこのまま人生を見つけらないんじゃないかって」
乾いた風が吹いた。
砂が舞って、どこか遠くで街中のクラクションが鳴る。
ぼくはというと、唐突に始まったシリアス展開に完全にフリーズしていた。
え? これどうすればいいの?
なんて返せばいいのか全くわからない。
よしんば「人生? あるじゃないか、ぼくの妻という道が。その長い足で毎日ぼくを踏みつけたり高い位置から蔑んだ目で見下したりぼくの両手を片手でつかんで壁に押しつけて『ほら……音也先輩はこうすれば何もできないよね? 暴れても動けないよね?』って言いながら強引に唇とか下半身の一部とかめちゃくちゃに奪ったりアレしたりするっていう輝かしい未来が!」とか欲望を100%ぶちまけちゃったらマザーが眠るその横に新たな棺がひとつ誕生することになるだろう。
あわあわしていたら優奈がくすっと笑ってぼくの腕に自分の腕をからめてくる。
「すまない先輩。返答に困るようなことを言ってしまって」
あああ後輩に気を遣わせてしまっている現実。申し訳ないし恥ずかしいして穴があったら入りたい。
「世界一周が終わるまでは……今がずっと続いてほしい」
どこか陶酔めいた色をその声に含ませて優奈が囁く。
こつん、とフード越しに頭と頭がくっつく。
い、いったい何があったんだろう。こんなに女性っぽい振る舞いを見せる優奈は風呂上がりくらいしかなかったのに。
何かよく分からないドキドキを抱えたままこの日は終了した。
世界一周の理由、か。
ぼくの理由が割とガチで「幼馴染でロリ顔で巨乳で清楚で制服姿でミニスカートで黒ストッキングで前世からの因縁で結ばれてる現役高校生の超絶美少女と巡り合って一夜を共にして結ばれる」という理想の嫁探しであることはさすがに言えなかった。