親切なインド人とやばい幼馴染
「ボク、ヤヨイって子と付き合ってた! ヨコハマで、2年!」
アシムが朗らかに言う。
……爆音のタクシーの中で。
22時、コルカタ。
ぼくらを乗せたタクシーはすさまじく大音量のクラクションが暴れまわる街中を進んでいた。
「ブアーッッ!」
「ビーッビビーッッ!!」
「静かになったら死ぬ」とばかりにクラクションは前後左右のあらゆる車が1秒おきに鳴らし続け、ぼくらの耳に順調にダメージを与えていた。
「ははは! うるさすぎるな音也先輩!」
「ん? 何だって?」
「都合の悪いことは聞こえない主人公系レスポンスはやめるんだ先輩」
「ん? 何だって?」
「あーインドってぶっ飛んでるな! 音也先輩! 私は楽しくなってきたぞ!」
優奈がやたらハイテンションに大声を張り上げる。
「そういえば凛! 具合悪そうだけど大丈夫か!」
死んだ目でぐったりしている凛を、優奈が揺する。
「ううう……うるさい暑い臭い気持ち悪い……」
「あはは! 確かに!」
「優奈センパイは……元気……ですね……」
「あはははは!」
クスリでもキメてんのかってくらい優奈はエネルギッシュだ。
対して凛は今にも涅槃に旅立ちそう。
「凛、大丈夫か」
「音也……」
凛は中学3年生。
ぼくより2歳年下だが、幼馴染の期間が長いので敬語での会話にはなったことがない。
昔は体が弱かったので今も何かと心配だ。
「……耳も痛いけど、それ以上にノドが痛いわ」
「ああ。空気悪いもんな」
もう臭いがすごい。
ただ街中をタクシーで走らせてるってだけなのに、夏場に2週間くらい放置した生ゴミの腐敗臭みたいなすさまじい悪臭が全方向から襲いかかってくる。
それに加えて、車の排気ガスがエグい。
道路中にドス黒い排気ガスが蔓延しており、身を低くして口をハンカチで覆ってその場から退避しないといけないレベルの化学的悪臭が以下略。
「……それにしてもこのタクシー、いつの時代のものなの?」
「んー。40年くらい走ってそうだよね」
「……悪夢ね」
タクシーはとにかくボロい。
どれくらいボロいかっていうと、世界史の教科書で見た「自動車が発明された時代のモデルの車」かってくらい。
サビ、塗装ハゲ、不穏な駆動音をすべて兼ね備えており、一言で言うと「動くスクラップ」。
それがもうもうと黒い排気ガスを出しまくっているが、ぼくらの前後左右の車も似たようなものだから逃げ場がない。
「……だいたい何で片側3車線の道路なのに車が4台並んで走ってるのよ」
「ちがうぞ凛、自転車と原付も並列してるから実質5台だ」
「……とんでもない異世界ね、ここは」
いやーすごいなー。ルールとか完全無視だもんなー。
「俺の方が大きい音を出せる」とばかりに毎秒打ち鳴らされるクラクション、35度を超える暑さ、道路の悪臭。
頭がクラクラしてきた。
「オトヤ、もうすぐゲストハウスだよ」
「そうか! ありがとうアシム。何てお礼を言ったらいいか……」
「イイよ。ボク、日本にいるときトテモ親切にしてもらった。ダカラ今度はボクが返す番ね」
「アシム……!」
空港で出会ったアシムは、「ボクの家もソッチ方面だから」とのことで宿までの案内をしてくれている。
なんて親切なんだ。
それから5分くらいして、タクシーは今夜の宿であるゲストハウスに着いた。
ぼくはアシムにお礼を言い100ルピーを渡そうとしたのだが、彼に断られた。
「ノー、オトヤ。そのマニーは受け取れない。ボクのはただの気持ちだから。親切にマニーはかけちゃダメ。ボクは英語も日本語もベンガル語もしゃべれるし、マニーもあるし寝る家だってある。ボクは恵まれているから、そのマニーはもっとたくさんいる貧乏な人にアゲテほしい」
こんなに良い人がいるなんて……!
やっぱりインドの前情報はアテにならない。
明日いっしょにチャイを飲む約束をして、アシムとは一旦別れる。
ぼくらは手早くチェックインをすませ、ゲストハウスの4人部屋に入った。
「あー疲れたー!」
シャワーを浴び終えた優奈がベッドに倒れこむ。
上はTシャツ一枚、下は下着のみ。ここは自宅だと言わんばかりの軽装である。
「優奈センパイ……そんな薄着だと童貞の音也が興奮するからやめてください」
「なあ凛、ぼくが童貞というキミの勝手な想像で」
「童貞でしょ?」
「だからそうとは限ら」
「童貞」
「……はい」
くそぅ。何でインドにまで来て屈辱的ないじめを受けなければいけないんだ。
「別にいいじゃないか。今さらだろう。なあ音也先輩?」
「どどどどういう意味かな優奈」
「いや、他の女性バックパッカーもそうだったし」
「あー。まあ確かに」
通常だったら今夜みたいな「1部屋に4つのベッド」「男1人で女3人が同じ部屋で寝る」という状況は18歳未満閲覧禁止な楽園イベントなわけだけど、バックパッカーにとってはちがう。
「同じ部屋で言葉の通じない人間同士が寝る」というのは、安宿で頻繁に起こるただのイベントだ。
男女同士が1部屋で寝る機会はそう多くないけど、たまによくある。
「あ。ちなみに音也先輩、私は寝るときノーブラだから」
「……ほう……? それは大変興味深い痛い痛い蹴らないで凛」
「音也……この猿が……」
げしげしとダメージを与えてくる凛。
なんで最近こんなに冷たいんだろう。
「もう凛……昔のおまえはもっとさあ……!」
「えっ? 何、やめて音也……あはははははくすぐったいあははははやめてやめてやめて」
「ん? 聞こえないなあ」
フランス人形みたいに可愛くて、寒気がするほど目鼻立ちがよくて、おっぱ……胸を盛り上げるそのサイズも旅メンバーでは最大な凛の弱点。
それは敏感すぎること。
子供時代みたいにわきの下をくすぐってやれば身をよじって笑いが止まらなくなる。
「や……やめて音也……ぅぅぅああ……んっ」
「おやおや、聞こえませんなあ」
「お、音也ぁ……お願い……」
呼吸困難になりながら涙目で見上げてくる凛。
やばい。何かゾクゾクする。普段あれだけ攻撃的な凛が、今ではぼくの指先のなすがまま……。
まずいな。
興奮してきた。
「さあ、何をやめてほしいのか言ってごらん」
「だからぁぁ……ああああお、音也の、ゆ、指があ、あっ」
「ん?」
「ぅぅ……んんんそこっほんと、だめ、やめてっ」
「ん? 具体的にぼくの指が凛のどこをどんな風にまさぐブゲァッ」
側頭部に強烈な衝撃を感知した瞬間、ぼくの体はベッドの端まで吹っ飛んだ。
「あ、ごめんね? 凛ちゃんが変質者に襲われてるのかと思った」
大重量のバックパックをぼくのこめかみにぶつけたのであろう、星宮凪沙はちょっと申し訳なさそうに頭を下げた。
「でもダメだよ音也くん? いくら凛ちゃんのこと好きだからってこんなところで押し倒しちゃ。そういうのは2人きりの部屋でやらないと」
「ちがうんだ誤解なんだ」
「それに、優奈ちゃんだって音也くんのこと大好きなのに……優奈ちゃんの目の前でそういうことするのはデリカシーに欠けるよ」
「大丈夫だ凪沙先輩、私はいざとなったら混ざるつもりだった」
「あ、そうなんだ。じゃあ大丈夫……かな?」
何に混ざるつもりだったのか、とぼくが優奈に聞くことはできなかった。
薄暗い部屋の中で、紅く光る双眸がぼくを捉えたからだ。
「音也……覚悟は……できてる……?」
「どうしたんだ凛。そんなに怖い怖い怖い怖いよ落ち着けおちつけけけけかかかかかがああああ」
「一晩中……しつけてあげる……この駄犬……オス豚……」
「あわわわわやめてくれトラウマがトラウマが」
「大丈夫……ゆっくり……優しくして……あげるから……」
「ごめんなさいすみません調子乗りましたもう二度と」
「目を閉じて……? その方が……効くから……」
「あああああああ助けてええええ」
ぼふり。
ぼくのベッドに入ってきた凛によって暗闇と静寂が訪れた。
「な、凪沙先輩、あれは何が起きているんだ」
「うん。凛ちゃんが音也くんと一緒のベッドに入って、何をしてるかここからは分からないね」
「いやいやいや! どう考えたってあんなことやこんなことやってるだろう! 私たちまだ18歳未満だぞ! というか凛ちゃんは中学生だし早く止めないと」
「大丈夫だよ」
「え?」
「あれはね、拷問だから大丈夫」
「ほ、ほう?」
「えっとねー」
星宮ののんびりとした声が解説を始めるのを、意識の遠くから聞こえてきた。
「つまりね、音也くんは当代随一のヘタレだから、ものすごくやわらかくて良い香りのする凛ちゃんがずっと密着しててもまったく手を出せなくて凛ちゃんを意識の外から追い出してとにかく寝ようとするんだけど、凛ちゃんは肌をすり合わせたり息をふきかけたり小声でささやいたりすることによって音也くんの自制心を崩壊させようとして、でも音也くんは逮捕のリスクを第一に考えて何もできないから一晩で三徹くらいの疲労感と無力感が」
「助けてえええええ」
「音也……こっち見て……?」
「ひいいいいいい」
ちゅっ、と首筋が吸われて電撃が走る。
こいつまだ中学生なのに……こんな技いったいどこで……!
「そ、そうか。一見すると音也先輩が襲われているようにしか見えないが、凪沙先輩が言うならそうなんだろう。よし寝よう」
「お前はもうちょっとがんばって止めに来いよ優奈!」
だめだ。四面楚歌だ。
手を出したら犯罪、触れたら犯罪、応えたら犯罪……。
寝よう寝るんだ。気絶したように!
「音也ぁ……」
「ヒィッ」
するりとした手がぼくの両頬をなぞる。
あばばばばば理性が。
「ねえ……いいんだよ……?」
寝る! 寝るしかない!
「音也はいい子だね……えらいね……」
不意になでなでされる。
あ、もう凛の子になってもいいかも。
母親に包まれるような安心感から、急に眠気が襲ってくる
「音也は絶対手を出さないんだもんね……えらいえらいね……こんなことしてもね……」
突然、凛の脚がぼくの右足にからみつく。
女性の柔らかさと体温が、生き物のようにぼくの肌を蹂躙していく。
一気に目が覚めた。
「ぜっっっっっったいに手を出さない音也は……えらいね……」
ぬああああ手を出しちゃダメだ手を出しちゃダメだ。
朝までもってくれよ理性。
ぼくが犯罪者にならないように。
声も出せないインドの夜は更けていった。
一睡もできなかったのは言うまでもない。