プロローグ バブみの覚醒
いつからだろうか。周りの敬いの目が恐怖に変わったのは。
いつからだろうか。周りの畏怖に快感を覚え始めたのは。
いつからだろうか。裏切られるのに、傷つけられるのに慣れ始めたのは。
いつからだろうか。何かが物足りない事に気が付いたのは。
曇天から降り注ぐ激しい雨がコンクリートを叩き、轟々と排水口に流れ落ちていく。流れ落ちていく水の中にはかすかに赤が入り混じっていた。排水口から少しばかり離れたところに数人、人が倒れていた。数にして五人。揃って黒い学ランを羽織っていた。胸元にはここら辺では名高い不良高校の校章がついている。おまけに髪色も赤や紫等変わった色合いのものばかりである。
その中心に一際大きな体躯の男が立っていた。身長は二メートルを超える日本人離れした体格。ブレザー越しにも分かる筋肉量、短く切りそろえられた黒髪にはわずかにツーブロックが入っていた。顔立ちはまだ若くあどけなさが垣間見えるが男らしい面持ちである。
その男は繁吹く灰色の空を開口し、呆然と仰いでいた。まるで天啓でも乞う様に。
やがて静止を振り切るように男は歩き始めた。打ち付ける雨など気にもせず、天を仰ぎながら。何かに縋るように。空は変わらず曇天越しに雷を轟かせていた。
「……ただいま」
返答は返ってこない。虚しく沈黙に飲み込まれた。ため息混じりに靴を脱ぎ捨てる。濡れた髪をタオルで拭き、タオルを洗濯機に投げ入れ髪を掻き揚げる。リビングに入るとテーブルにある置手紙が目に映った。手紙には今日も遅くなるという旨が綴られていた。そばには三千円程お金がおかれていた。
お札を握り、何気なく壁に掛かった賞状を見る。それは数十枚と壁に貼られていた。競技は空手、ボクシング、キックボクシング、テコンドー様々である。下の戸棚の上にはトロフィーも数多く並んでいる。どの賞状も部門も年齢層も階級も大きさも異なるものばかりだったが、唯一〝赤司剛〟という名前だけが統一されていた。
「……くっだんねぇ」
剛はそう吐き捨てると目を反らしお札をポケットへ突っ込んだ。ブレザーを脱ぎ捨て、代わりにパーカーを羽織り、わずかにさび付いたビニール傘を広げ、家を出る。
「行ってきます」
そういってドアがギィィィ……と音を立てゆっくりと閉まる。その声には無論返答はなかった。
外は先ほどよりも小雨になっていた。水溜まりなどモノともせず剛は歩みを進める。行先はいつものコンビニ。父親と二人暮らしの剛は夕飯はいつもコンビニと決まっている。コンビニに入ると塩ネギ豚弁当とカップの豚汁、烏龍茶を買い、店を出る。いつもとなんら変わらない。剛にとってはありふれたつまらない一日になるはずだった。
(ん……なんだ?)
その異変はコンビニを出てしばらくの時であった。
「へへへッ……いいだろう、お嬢ちゃん……ニチャァ」
「こ、こんなところで、こ、困ります」
それは人気がない路地での事であった。小学生、いや見方によっては中学生ぐらいの女子と中年の男が話していたが、しかし様子が異様だ。
女子が壁を背にし、中年の男が女子を追い詰め見下ろす形で会話をしていた。男は明らかに興奮していた。顔は剛の位置からでも僅かに高揚により赤くなっている様子が見て取れ、その吐息も粗々しい。それに対し女子は困った様子で僅かに膝を震わせていた。
(一体何してるんだ)
近くにあった電柱を背に顔を僅かに出し、様子をうかがう。
「わ、わかりましたから、すこし離れてください」
「え、えへへッ。んじゃこっち……ニチャァ」
ほころんだ男の表情には口越しにはねばつく唾液が見て取れる。
僅か女児が顔を傾ける。彼の吐く吐息が鼻に触ったか。
動きがあったのはすぐのことであった。男と女子が人気がない裏路地へと入っていくのが見える。
(誘拐……とみていいのか。いやしかし、まだ証拠を見たわけではない。少し様子を見てみよう)
考えを巡らせつつ後ろつける。女子と男は裏路地を抜けて、二車線の道路を渡った先にある竹藪に入っていた。
(まずいか?)
林に入ったところを見て、道路に駆け出したときに大きくクラクションが鳴り響く。
「ッ!?」
その場に一瞬硬直した剛に迫る車は衝突する寸での所で僅かに車体を傾け、剛を避ける。
「アッぶねぇだろうが!?」
その場にへたりと座り込んだ剛の元に車の運転手が怒りの表情を浮かべ迫ってくる。
「……すみません」
剛はその場に立ちあがる。剛の人間離れした巨躯を見上げる運転手は一瞬にして青ざめた。「わかったならいんだよ。き、きをつけろよな!」といってそそくさと車に戻っていった。
車が通り過ぎたのを見送り、我に返り道路を跨ぎ竹藪に走った。
竹藪をかき分けながら剛は女子の無事を祈った。何も無いことを願いながらかき分ける藪は剛を阻むように草木が茂っていた。僅かに少女の姿を視界がとらえたときに目の前に広がった光景に剛はあっけにとられ唖然とする。
(な、なんだこれ)
そこにはおしゃぶりを加えてパンツ一丁になった中年の男が先ほど一緒にいた女子に膝枕されてあやされていた。男はまるで赤子のようにぐずり女子の太ももに頭を擦り付ける。
「バブッ、バブバブバブッ!!」
「よしよーしいいこでちゅねー」
女子のほうも男を受け入れ半ば禿げかけの頭皮をなでる。「ばぶぅー」と気持ちよさそうに男は一回りも歳の離れている女子に甘える。まるで犬と飼い主のようであった。
「おい、おい……」
その光景は高校生の剛にはあまりにも衝撃的な光景であった。目が離せない。きっと竹の中からかぐや姫を見つけた翁はこんな気持ちだったのかと感慨に浸ってしまった。
不思議と剛にとってその光景は下品なものには見えなかった。何か神聖な何か、自身が忘れてしまった大切なもののような気がして思わずその光景に見入ってしまった。故に気が付かなかったのだ。背後に何者かが迫っていることに。
「ッ!?」
痛みが全身を駆け抜けた。頭部に強い衝撃。それとともにその場に倒れ伏せる。突然の事で何が起こったのか理解が追い付かなかった。
遠のく意識。その中で最後に視界に映ったのはひょっとこの仮面をつけた女の姿であった。その女子が来ているTシャツは何処かで見覚えがあった。
(あのTシャツどこかで……)
思考を完結させる前に彼の意識は暗闇に落ちていった。
その女性のTシャツにはこう書かれていた。『オギャり王選手権』と。
かつて神童と謳われた青年の人生はここから大きく歯車を狂わせていくのであった。




