■ 前 編
差し出されたハヤトの手の平の上に乗った ”真鍮ニッケルメッキ ”のそれに
ミノリが俯いてじっと目を落とす。
そして、静かに目線を移動し顔を上げハヤトを見た。
『・・・なに、ニヤニヤしてるの・・・?』
ハヤトから差し出されたハヤト自宅の合鍵に、あからさまに不審な目を向ける。
『べ、べつに・・・ ニヤニヤなんかしてない、けど・・・。』
そう口ごもる口許がもうふるふる震えて、それを誤魔化そうと唇に力を入れて
いるハヤト。 唇に連動して頬がキュっと緊張し強張っている。
『ねぇ、いつその話したの・・・?』 ミノリが目を眇めハヤトを覗き込むと
『えーっと・・・昨日の夜・・・』 ぼそりとバツが悪そうにひとこと返した。
キャリアウーマンであるハヤトの母サキが更に出世をし、仕事の関係で海外に
赴任することが決まったのは昨夜。 念の為、息子ハヤトについて来るか訊くも
やはりそれは何をどう考えても、愚問。 彼女にぞっこんの一人息子がミノリと
遠く離れるなんて選択肢を選ぶはずもなく、その問題はゴトウ親子の中で一も
二も無く決着がついたのだった。
『・・・合鍵なんて、要る・・・?』
眉根をひそめハヤトを睨むミノリ。
昨夜した話なのに、もう翌朝ミノリと顔を合わせた段階で合鍵を準備している
その行動力の俊敏さに呆れてものが言えない。
しかもまだ母サキは日本を発ってもいないというのに。
きっとなんの躊躇もなく母をひとりで海外に行かせる決断をしたのだろうと、
母サキを思ってミノリは少し胸が痛んだ。
しかしハヤトは頬を高揚させ、嬉しさを隠せない面持ちで必死に言い訳を繕う。
『だってさ・・・ ほら、あのー・・・
俺が病気とかになったら、ほら・・・
母さんも誰もいないから・・・
だから、えーぇと・・・ 緊急用に・・・
そう、緊急用! ただの、緊急用ー・・・
・・・な? 緊急用だから・・・。』
コメカミをぽりぽりと指先で掻きながら、慌ててまくし立てるその横顔。
自分の口から出た ”巧い言い訳 ”にまるで自分で納得するかのように、
うんうんとひとり頷いて。
『ふ~ぅん・・・。』 どこか納得いかない顔で唇を尖らせ、ミノリが半ば呆れ
気味に笑いを堪えると、手の平に押し付けられた合鍵にそっと目を落とし照れく
さそうに本当は少し嬉しいのをひた隠しにして、ぎゅっとその手に握りしめた。
女子短大の昼時の混雑したテラスに、ミノリとナナがふたり。
昼時のそこは早目に席を確保しておかないと座れないくらい、女子学生でごった
返す。 雑誌とハンカチで事前に席を取っていたふたりは、高校を卒業後地元の
同じ短大に進学していた。
味はそこそこなやたら安い学食の食べ掛けのカレーライスが乗ったトレイを
少し前にずらしてテーブルに肘をつき、ナナがケータイを両手で掴んで指先で
ポチポチと入力している。 ミノリは持参した手作り弁当を食べ終わり、再び
チェックのハンカチで小さな弁当箱を包みながら、どこか投げやりな感じにも
見て取れるナナに首を傾げた。
『あー・・・ んもぉ、キリがないわっ!!』
高校時代から付き合っているタケルからの連続ライン攻撃に、ナナはしかめっ面
をして面倒くさそうに返信している。
『ストーカーかっ!!』 ぶつぶつ文句を言いながらも、ナナの顔はやはり
どこか嬉しそうにも見えた。
すると、『ねぇ。』 ナナが素っ気ない一文をタケルに送信し、ケータイを
テーブルに放るように置いてミノリをじっと見つめる。
『ミノリ、心配じゃないの・・・?
ゴトウ君、イケメンだから大学でもモッテモテでしょ~?
あたし達は女子短大だけどさー・・・
向こうは共学でしょ~? 可愛い子、いっっっぱいいるよ~・・・?』
からかうように肩をすくめて身を乗り出すナナは、ハヤトとミノリの絆の深さを
重々知っての上で、敢えて悪戯にニヤリ問い掛けている。
『べっつに~ぃ・・・。』 そう涼しい顔でミノリは返したが、その瞬間ナナの
ケータイから響いたチロリンというタケルからのライン受信音に、そっと視線を
ずらした。 同じくテーブルに置いたミノリのケータイは、ここ最近あまり反応
が無い。 大学入学前まではタケル・ナナ同様、引っ切り無しに音を立てていた
そのケータイがなんだか静かに黙りこくって死んでいるみたいで。
ミノリがメッセージを送信するもそれは中々既読にならず、暫し放置される事が
増えていた。
『別に・・・。』 ナナが再びケータイを掴み文字を紡ぎはじめたその姿を
ミノリは物寂しげに、どこか羨ましげに見つめ呟いた。
こっそりテーブルの下にケータイを掴んだ手を移動すると、指先を動かす。
”今、なにしてるの? ”
そのメッセージは、その夜遅くまで既読にならなかった。
休日の午後のこと。
ふたりはハヤト自宅のリビングで、のんびりとした時間を過ごしていた。
もうハヤト母サキは海外赴任をはじめていて、静かなリビングにふたりきり。
ハヤトはソファーにごろんと寝転がり、付けっ放しにしていたテレビから流れる
再放送のバラエティ番組を見ている。
ミノリはそんなハヤトに背をもたれ、床のラグにぺたんこ座りをして雑誌に目を
落としていた。 本当はハヤトに聞きたい事が山ほどあったけれど、実際ふたり
きりでいるこの休日の穏やかな時間に、やはり自分の気にしすぎだと小さく息を
つき納得する。
たまに思い出したようにハヤトの指先がミノリの髪の毛を撫でる。
高校時代はショートヘアだったミノリは、少し髪が伸びてショートボブになっていた。
髪に触れられどこかくすぐったそうにミノリが振り返ると、その瞬間ハヤトが
大きなくしゃみをした。 腕で鼻のあたりを抑えると、一度発したら止まらなく
なったかのように、何度も何度も連発する。 ぐしゅぐしゅと鼻をすすり、目も
赤くして痒そうに堪らなそうに眇めている。
『どうしたの・・・? 風邪ひいた?』 ミノリが身を乗り出してハヤトの額に
手を当てるも熱はなさそうだ。
『いや・・・タブン、猫アレルギーだ・・・。』 きまり悪そうに小さく小さく
呟いたそれ。 一人言のように発せられたがミノリにはしっかり聴こえていた。
『猫・・・? 猫なんかどこにいるの??』 ハヤトへ問い掛けた瞬間、
リビングテーブルの上に置くハヤトのケータイがけたたましく着信のメロディを
奏でた。
そっと手を伸ばしそれを掴んで着信相手の名前を見るなり、慌ててソファーから
身を起こしリビングを出て廊下に飛び出したハヤト。 まるで隠れてこそこそ話
をするように、片手を口許に当てその相手と会話をしている姿が、リビングドア
の擦り硝子にぼんやり映っている。
その時、一瞬聴こえたその一言。
『今日はカノジョがいるから・・・ 明日なら・・・。』
ミノリは擦り硝子に映るそのシルエットを、瞬きもせずに見つめていた。
一度ミノリの心に浮かんだ小さな疑いの火は些細なことでどんどん大きくなる。
ハヤトを信じている。
信じてはいるけれど・・・
高校時代と違って今は別々の大学に通い、当たり前に日中のその様子はうかがい
知る事は出来ない。 ミノリと違って共学のハヤトの4大。 高校の時はハヤト
とミノリが付き合っていることは周囲に知れ渡っていた為、横槍が入ることなど
無かったし横恋慕など考えたこともなかった。
しかし実際に学校が離れた今、ハヤトは電話をしても留守が多くメッセージを
送っても中々返事は来ない。
そして先日洩れ聴こえたハヤトの電話の遣り取り。
どんどん不安は募り、執拗にハヤトに電話をかけるようになったミノリ。
しかしケータイ越しに流れる冷たい留守電の機械音メッセージに、俯き溜息を
落として哀しげに目を伏せた。
居ても立ってもいられなくなり、ミノリはとある夜にハヤトの自宅を訪ねた。
突然連絡もなくやって来たミノリに、ハヤトは嬉しそうに顔を綻ばす。
『ミノリ・・・ どしたの~?』 その顔を見たらやはりミノリの杞憂に過ぎ
なかったのだとほっと胸を撫で下ろし、突然押し掛けてしまった言い訳を必死に
考えあぐねながら照れくさそうにリビングに足を踏み入れた。
他愛ない話をしながら暫し穏やかな時間を過ごしていた、ふたり。
空になったマグカップをふたつ掴んでキッチンに向かい、ミノリがお茶を淹れて
リビングに戻るとテーブルに突っ伏してハヤトがウトウトと居眠りをしている。
静かにテーブルにマグカップを置くと、眠りこけるハヤトの横に座り愛おしそう
にその寝顔を見つめたミノリ。 テレビの電源をリモコンでオフにして小さく
寝息を立て呼吸に合わせて上下している大きな背中に微笑んだ。
最近どことなく日焼けしたように見えるその顔。 元々キレイな顔立ちのそれが
更に格好良く見えて、見慣れているはずのミノリの目をも惹いて止まない。
しかしなんだか疲れているように見えるその顔にそっと指を伸ばして触れようと
したその瞬間、ハヤトのケータイにライン受信のメロディが鳴った。
くぐもって小さく響くそのメロディ。
ハヤトはそれに気付かない様で硬いテーブルに突っ伏し眠り続けている。
ミノリがキョロキョロあたりを見回すと、ソファーのクッションの陰に隠れて
いたケータイを発見した。
”今日はカノジョがいるから・・・ 明日なら・・・。”
ふと、先日のあの一言が頭をよぎった。
すると頭で考えるよりも先に、ミノリの指はハヤトのケータイを掴む。
してはいけない事だと分かってはいるのに、焦燥感が募る気持ちに抗えない。
震える指先で画面に触れると、そのメッセージが見えた。
プロフィール画像には、凛とした黒猫の写真が載っている。
名前は ”アオイ ”
そしてミノリの目に入った一文。
”着替えのシャツ忘れて帰ってるよ ”
じっと見つめるミノリの目は瞬きという行為を忘れたかのように見開いたまま。
静かに静かに震える肩で息をする。 口をぎゅっとつぐみ、信じたくないとでも
いう様にひとり大きくかぶりを振った。
(ちがう・・・ こんなの、嘘に決まってる・・・。)
ハヤトを信じていると心の中で何度も何度も繰り返しつつも、ケータイを掴む
その手はガタガタと震えはじめ、次第に視界が滲み始めていた。
ミノリの目から大粒の涙がこぼれた瞬間、カバンを引っ掴み荒々しくリビング
ドアを飛び出して行ったその哀しみに暮れた背中にも、疲れて眠り続けるハヤト
には気付けるはずもなかった。