第6章
1
夏輝がリビングの扉を開けると、ユニフォームやタオルなどなど、散らばっていた。視線をソファへ転じると、春一が片足を落としへそを出した状態で眠っていた。確か昨日はサッカーの試合を見に行き、帰ってきた時間は知らない。夏輝が寝静まった後だろう。
テレビがついているから、深夜のサッカー番組を観てそのまま寝入ってしまったのだろう。よくあることだった。
彼はサッカーと野球にそれぞれご贔屓のチームがあり、試合があるとその勝敗によって機嫌が左右される。野球とサッカーで試合日程が被り、両方とも負けた日には部屋から引きずり出すのも一苦労である。
夏輝は取ってきた朝刊のスポーツ欄を開き、昨日のゲームについての記事を読んだ。春一が応援しているチームは三対〇で快勝していた。勝利したのなら文句はない。それならば機嫌は良いはずだ。
「ハル、夏とはいえ風邪引きますよ」
「うー」
彼が右へと寝返りを打った。しかし、そこにソファはもうなく、春一は見事にソファから転げ落ちた。しかも、近くにあったテーブルに後頭部をぶつけるというオマケつきだ。
「いってー・・・・・・」
頭の後ろをさすりながら、ソファに手をついて起き上がった春一は、夏輝を睨み上げた後洗面所に行ってしまった。ここで文句が一つも出ないのは相当機嫌が良い証拠だ。夏輝はキッチンには行ってフライパンを火にかけた。
少しすると春一が横にやってきて、冷蔵庫からジュースを取り出した。夏輝は鍋を取ろうと屈み、再び腰を上げた。
ゴンッ!
「いっ・・・・・・ッ!」
途中から声にならない。後ろを振り返ると、春一がしたり顔でにやにや笑っている。機嫌が良すぎると思った。
「頭突きはやめてください」
「別に突いてないさ。俺の頭があるところにお前の頭がぶつかった。それだけだ」
口笛など吹いている春一は、夏輝の頭上に自分の頭を突き出して、彼が立ち上がるとぶつかるように待ち構えていた。春一の頭の固さは尋常ではない。石頭というか、石だ。多分本気で頭突きされたら意識が飛ぶ。
「夏、目玉焼き焦げるぞ」
鋭く指摘する春一といつものように会話をする気にもなれず、目玉焼きを皿に分けたら、春一は笑いながらテーブルに戻った。全く、この人は。
2
ガララ
夏輝がカウンターの奥にある椅子に座って本を読んでいると、文房具店の扉が開いた。入ってきたのは、二十代と見られる女性だ。茶色の紙をカールさせ、今時の女子大生といった感じだ。
「あ、あの・・・・・・万屋さんって、ここですよね?」
「いらっしゃいませ」
夏輝が挨拶するのと同時に、春一は階段を上って上の階へと消えた。彼は、誓約書を書かせるまで二階で盗み聞きをする。子供には話したくない、や、信用の置けないものに同席されたくないという依頼主を気遣ってのことでもある。
夏輝がティーポットから紅茶を入れて彼女の前に差し出す。アッサム独特の良い香りが脳の神経を休める。
「どのようなご用件で?」
彼女は俯いていた顔を上げ、手を軽く握った。
「私は、数珠大学三年生、茶野真衣です。ネットで噂を聞いて来ました。私、近くのアパートで一人暮らしをしているのですが、最近・・・・・・ストーカー被害に遭っていまして。ドアをドンドン叩かれて出てみると誰もいなかったり、どこからか見られている感じがしたり、電気のメーターを止めて、私の部屋だけ停電させたり・・・・・・・。被害は後を絶ちません」
「しかし・・・・・・それだけで妖と決め付けるには早くありませんか?」
夏輝がそう言った瞬間彼女が震えだした。
「そっ・・・・・・それはこの間・・・・・・」
「落ち着いてください」
優しく言われ、紅茶を出されたのでそれを飲んで幾分落ち着きを取り戻した彼女は、一回深呼吸をして話し始めた。
「この間、私の彼氏を部屋に呼んだんです。恐くて仕方なかったから。そうして、彼が部屋に上がった瞬間、容貌を変えて恐ろしい怪物になったんです。まるで、絵本に出てくるモンスターみたいに姿形を変えて・・・・・・。そんなこと、人間にはできないでしょう?」
「成る程。その時は何か直接的な被害に遭われましたか?」
「いえ。怖くて目をじっと瞑っていたら消えていました。その後で本当の彼氏が来て、聞いたら何も知らないと・・・・・・」
「よくわかりました。こちらで調査をしますので、住所と電話番号をお願いします。あと、家にいる時間帯も」
紙とペンを差し出すと、そこに丸い文字でそれらが書かれた。
その後に例の誓約書が出てきて、彼女はそれにもサインした。
「早速捜査を始めますので、いつか家にお邪魔するかもしれません。勿論、玄関口で済ませますが。よろしくお願い致します」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
彼女は礼儀正しく頭を下げて、店を出て行った。それと同時に春一が階段から下りてくる。
「変化の妖か。種類に幾つか心当たりはあるが・・・・・・まぁ、身辺調査かな」
春一は彼女が書き残した紙片を手に取った。それを携帯のメモ帳に書き込む。
「ここなら自転車で十分・・・・・・いや、五分か。俺今から行ってくるから、夏はまた夢亜にメールして」
「変化をする妖に目立った動きはないか、ですね」
「頼んだ」
彼は近くに置いてあった財布と持っている携帯をポケットに突っ込み、店の角にある自転車の鍵を持って出た。
(暑っちー・・・・・・。こうも暑いとやる気が起こんねぇ。誰か太陽の力弱めてくれ。そしたら俺が褒め称えるから)
下らないことを頭の中で回転させ、ジュースを一口飲む。スポーツドリンクが体の隅々まで行き渡る感じがした。
あまりの暑さに負け、自転車を停めて自動販売機の前に座り込んだ春一は、項垂れて溜息をついた。八月の猛暑は強烈で、じわりじわりと体力を奪う。もう夜も近いのにすごい暑さだ。
(っつーか有益な情報がないってどういうことだ? 面倒臭ぇったらありゃしねぇ)
春一はこの自販機にたどり着く前に、調査をしていた。真衣の身近な人間というよりは、同じアパートの人間や、公園で世間話をする奥様方の話に混じっただけだが、普段ならばこの程度で情報は集まる。噂というのは一日で広まるものだ。しかし、今回はそれがない。考えられることは、真衣が周りと交友がないか、若しくは彼女が意図的に情報をストップさせているかだ。聞かれたくない話をわざわざすることはない。何か隠しているのか。
春一はもう一度溜息をついて、スポーツドリンクのペットボトルにキャップをした。足に力を込め、立ち上がると額から汗が一滴落ちた。
再び自転車を漕ぎ、彼女の大学へと向かう。着いて携帯を開くとメールが一件入っていた。夢亜からで、真衣の友人の写真と、彼女がバス通学であることとバスの時間が記されていた。
春一は大学の中へは入らず、門の近くにあるバス停でバスを待つフリをして情報を探った。
他愛もない話が次々と耳に入ってくる。教授の悪口、恋人の惚気話、実家の話。真衣の友人である彼女が現れるのを待つ。
(そろそろか・・・・・・)
春一が門を見遣ると、写真で一方的に見知った顔があった。隣には知らない女性。恐らく別の友人だろう。
「実はさ、私の友達がストーカーの被害受けてるらしいんだよね」
「えっ、ストーカー? 何それ」
「本当本当。ほら、時々話す、児童心理学で一緒の子。被害すごいんだって」
「恐いね。その子大丈夫なの?」
「今の所は大丈夫らしいよ。私も直接聞いたわけじゃないんだ。噂で聞いて、確認したら大したことないって・・・・・・」
「本当に大丈夫なのかなぁ?」
「わかんない・・・・・・。だから、いつでも力になるとは言ってるんだけど」
「そうだね。いざとなれば私も援助するからね!」
「ありがとう、言っとくよ」
彼女達はそんな話をして、来たバスに乗ってどこかへ行った。春一はそこから静かに去った。
3
真衣の彼氏である孝也は、恋人の被害を聞いて、いてもたってもいられなくなった。愛する女性がストーカー被害を受けていると聞いて怒りを覚えない彼氏はいないだろう。
腕っ節に自信はないが、いざとなったら自分が彼女を守る。そう決意していた。
今日も彼女を一人にはさせておけないと、彼女のアパートに向かっている所だ。この間自分の顔をした化け物に襲われたと言っていた。許せない。今度会ったらただじゃおかないぞと思いながら、歩を進める。
一応彼女が住むアパート周辺を見回って、怪しい人影がいないか確認する。
(あれ・・・・・・?)
何か不審な影がある。アパートの周りをうろうろしては立ち止まり、彼女の部屋を覗いては立ち去る。
(絶っ対怪しい!)
孝也は勇を鼓してその影に近付くことを決めた。そのまま忍び足でその影に向かう。途中で電柱の陰に隠れる。まるで尾行している探偵みたいだ。
そのまま後をつけていくと、影は急に立ち止まった。孝也も止まる。その瞬間、後頭部に衝撃が走った。
一瞬目の前が真っ暗になって、その場に倒れる。後頭部が脈打って痛い。何か硬いもので殴られたらしい。痛みで手足すら動かせない中、何とか首だけは動かすと、もう一人男がいて、金属バットを持っている。それで殴られたのか。道理で痛いわけだ。
だがそう思っている余裕はないようだった。その男がバットを振りかぶっている。このままだと、再び自分の頭にバットが振り下ろされる。動きたいが脳の命令とは裏腹に筋肉が動かない。これは、ピンチというやつだ。
しまった。ここで死ぬなら先に真衣に会ってからの方が良かった。いつも自分は無計画だ。無計画さ故に真衣を怒らせてしまうのもよくある話だった。以前クリスマスを何のサプライズもなく過ごしていたら、「もうちょっと計画してくれてもいいのに」と言われた。その反省を踏まえ、今回は密かにプレゼントを買った。夜には花束が届けられる予定になっている。今日は付き合い始めて始めて二年目の記念日だ。
・・・・・・でも、一緒に過ごせそうにない。
諦めて体の力を抜いた孝也にバットが勢いよく振り下ろされ、鈍い音がする。
ゴン!
「誰だお前!?」
覚悟した痛みがやって来ないのを不審に思い、孝也が目を開けた。そこには、一人の少年が立っていた。
(誰だこの不良)
同じことを思っているのか、バットの男は現れた少年に目を丸くしている。それに加え、現状にも理解が追いついていないようだった。それはそうだろう。突然孝也を庇いに入って、尚且つ倒れない。思い切り金属バットで殴りつけたにも拘らず。
「えぇっ!」
男が驚いたという悲鳴を上げる。その視線を辿って孝也も驚きのあまり目を瞠った。金属バットがグニャリと曲がっている。
その現状を作った張本人は一言、
「痛ぇなこの野郎!」
叫んで男に頭突きを食らわせた。
4
異常事態にもう一人の、孝也が追っていた男が引き返してくる。帽子でよく見えないが、かなりの形相で怒っている。
こちらに来る歩を早め、走りながら春一に襲いかかろうとする。警官が持っているような警棒を右手に持っている。
「オイ」
そんな男の前に春一が立ちはだかり、睨みつけている。普段夏輝といるからわからないが、彼も長身だ。見下ろされている男のことを「蛇に睨まれた蛙」というのだろう。具体例だ。
「倒れた仲間に言っとけ。バットは野球をするためにある。野球少年の夢を汚すな。そして、野球ファンに謝れ!」
怒鳴りつけながら再び頭突きをすると、男は脆くもそこに崩れ落ちた。白目をむいて気絶している。切ったであろう額からは血が一筋流れていて、恐い。
「あ、あの、誰か知らないけど大丈夫ですか?」
「何が?」
恐ろしいことに彼の頭には傷一つついていなかった。どうやら大丈夫らしい。
「アンタこそ大丈夫? 血、ついてるよ」
孝也が頭の後ろを触ると、ぬるっとした嫌な感触が手にまとわりついた。見てみると血だ。
「うわっ!」
自分の血を見て驚く。どうしよう。
「見せて。・・・・・・ああ、大丈夫。傷口は小さいから、押さえとけば止まるよ。でもバッドで殴られたんだし、病院は行った方がいいね」
あなたもさっき殴られていませんでした?
そんな孝也の気持ちなどさておき、春一は二人の手を電柱の後ろに回してガムテープで巻きつけた。本人は自分の行動などそ知らぬように一一〇番通報している。
孝也は融通が効くようになった体を起こした。まだ少しフラフラする。視線をめぐらすと、派手に倒れている春一の自転車があった。彼は飛ぶようにして自転車を降り、自分を助けに来てくれたのだ。
「あんだけ派手にブッ倒されて無傷なんて、最近の自転車は頑丈だな」
自転車を起こしながら、春一はブレーキやスタンドを点検した。
「あなたは・・・・・・?」
孝也が当たり前な質問をすると、春一は「ああ」と言って頭を掻いた。
「失礼しました。自己紹介がまだでしたね。俺は春一。お宅の彼女から相談を受けた、何て言うか、まぁ雑務屋です」
説明が面倒になり色々とはしょったが、孝也は納得してくれたらしい。
春一は孝也を引き起こして、自分のハンカチを彼の傷口にあてがった。もう血も止まりかけている。
「じゃあ、俺は行くよ。そのハンカチはあげる。同じの持ってるし」
孝也がハンカチを見ると、あるプロ野球チームのチームカラーの生地にチーム名が刺繍されていた。野球ファンだからあんなに怒ったのか。
「彼女を大事にね」
春一はそう言ってさっさと踵を返してしまった。自転車に跨ってどこかへと行ってしまう。
お礼も言えないまま立ち去ってしまった少年に関することも気になるが、とにかく今は真衣だ。今すぐに安心させたい。だって今日は二周年記念日だ。
5
家に帰ってきた春一は濡らしたタオルを額に載せてソファで寝ていた。
「風邪ですか?」
ソファを覗き込んで夏輝が言った。今朝の寝相が原因か。
「いや、バッドで殴られちゃってさぁ」
「・・・・・・」
夏輝は次に続く言葉を見つけられず、沈黙した。
「最初は痛いところ冷やしてたんだけど、俺発見してさ。頭冷やすと気持ち良いんだよ」
「・・・・・・はぁ」
どうやら春一はこの暑さに耐えかねて冷却マクラの要領でタオルを使っているらしい。
「さ、夏メシ」
がばっと起き上がった春一からタオルを受け取りつつ、夏輝は夕飯の支度を始めた。
「何があったんですか?」
夕飯を食べながら夏輝が聞くと、春一が一連の流れを話した。その話を聞いて夏輝は安心や心配というより、嘆息した。
「夢亜からメールが入ってさ、依頼主の言ってた妖と連絡が取れたって。そいつの話によると、そいつはほんの悪戯のつもりで彼女を脅かした。彼氏からモンスターへと変化してな。ただ、それだけだ。つまり、妖怪は彼女がストーカー被害に遭っていることを知らないで、ちょうど見かけたという理由だけで悪戯をしかけたんだ。大きな悪意はなかった。それどころか、出来心ってやつだ」
「じゃあ、今回の事件は・・・・・・」
「偶然妖怪が間に入っちまった。それで彼女が一連の犯人を妖怪だと思い込み、話がややこしくなったんだ」
「あの人達は結局何だったんです? 本当のストーカーってことですか?」
「まぁ、そんなとこだ。っつーよりかはただのチンピラだな。前に依頼主にナンパして、勿論振られた。公衆の面前で恥をかかされたって、嫌がらせをしてたらしい。だから今日も来るかと思って周辺を徘徊してたら、彼氏がピンチで助けに入ったってワケだ」
「そうだったんですか・・・・・・」
それなら納得が行く。だが、気になることが一つだけあった。
「でも、依頼主さんはあの人達がやってるって思わなかったんでしょうか? 妖怪が出てきたからその妖怪の仕業にできますけど、妖が出てくる前に警察に行っても良さそうなのに。それに、ハルはどこであの人達が犯人だという情報を手に入れられたんですか? 普通に考えたら妖怪が関係ないってところで行き詰まりですよ」
「その二つの質問は一度に答えられる。俺さ、どうしても彼女から違和感が拭えなかったんだよ」
「違和感?」
違和感なんてあっただろうか。彼女はどこにでもいる今時の女子大生にしか見えなかった。
「店に来た時、まずおかしいと思った。髪の色や髪型、服装は今時のギャルっぽいのに、爪にはネイルアートどころか普通のマニキュアですらしてなかった。化粧もナチュラルメイクだったしな。上で話を聞いても、言葉遣いは丁寧だし、礼儀もなってる。メモは一見可愛い丸い字に見えるが、よく見ると所々書道の心得がある。ありゃあ結構育ちの良いお嬢さんだぜ」
夏輝は珍しく感心した。そんなこと、まるで気にしていなかった。春一に言われてもそこまで細部を思い出せない。
「彼女の周辺の人物、近所の人から友達までも被害の詳細を知らなかった。彼女は被害のことを話していなかったんだ。それはつまり、できる限り隠したかったことがあるってことだ。ただのストーカー被害ならすぐに警察に相談すれば良い。それができなかったのは、報復を恐れたからじゃないかと考えた。すると、依頼主は犯人の顔を知っているか、少なくとも心当たりや面識があるんじゃないかってことになる。そこで体裁を気にして隠し事をするような対象といったら、あいつらみたいなチンピラで、そいつらと揉め事を起こしたんじゃないかって推察したんだ。想像の域を出ないが、調べてみる価値はあると思った。そんで調べを依頼したら、ビンゴで揉め事の真相がわかったから、徘徊してたってワケよ。次の被害が出る前でよかった。
春一は安心したように笑って、「これうまいな」とスープを飲んでいる。夏輝は驚くばかりだ。そんなことがあったのならば、妖怪が出た時に全てを妖怪の仕業だと思い込んでしまっても不思議ではない。
「珍しくあなたのことを尊敬しました」
「あれ、四六時中してるんじゃないの?」
「それはありません」
「失礼なやつだな。もっと礼儀を重んじろよ」
「ハルに言われたくありませんね」
「俺は超礼儀正しいよ。マナーブックが丸々頭の中に入ってる」
「実践している所をあまり見ませんが」
「お前の目が節穴だからだよ」
全く、この人は。