第5章
1
それから一週間後、夏の暑さがついに本格的に始動してきた頃。四季家ではいつもと変わらぬ朝を迎えていた。
「ハル、今日の仕事ですが」
「何ー? 俺今日フットサルしに行くから暇じゃないんだけど」
その春一の言を無視し、夏輝は内容を説明した。
「最近、この辺りを徘徊している妖怪がいるそうです。夜遅くに現れ、人間に襲い掛かり、金銭や金目のものを強奪していると。昨日、ハルがフットサルをしに行っている間に初の目撃者となった方が見えられました」
「何ですぐに言わなかった?」
「携帯の電池が切れていたようですし、帰ってくるなりすぐに寝られたので」
「あっそ」
言い返せないため、春一はその場凌ぎでトマトを飲み込んだ。
「じゃ、調査だな。とりあえず、公園に来る連中に聞き込みはしとく。夏は夢亜にメール。情報もらって」
「わかりました。本日も被害者の方が見えられて詳しい話を伺う予定です」
「りょーかい。何時?」
「まだそこまでは。お客様の都合がまだわからないので。わかり次第連絡が入ることにはなっています」
「おっけー」
春一はオレンジジュースを一息に飲み干し、出かける準備を進めた。
2
「おはよー。あれ? アッキー今日来てないの?」
春一がフットサルをするいつもの公園に行くと、同じ高校の仲間が四人集まっていた。いつもは大学生の彰人も来るのだが、今日はまだ来ていない。
「アッキー、大学が一限からなんだって。だから昼くらいに来るって」
仲間の内一人が返事をする。
「そっか。最近通り魔出てるって噂聞いたから心配したよ」
それとなく情報を集めてみる。案の定、周りの仲間たちはのっかってきた。
「そういや出てるらしいな、通り魔」
「そうそう。神出鬼没で、老若男女問わず襲い掛かってるって」
「襲われた人は、あっという間すぎて犯人の顔とか全然覚えてないんだって。で、金目の物を奪われて、その犯行現場には『もうやめろ』という紙切れがいつも置かれている」
「へぇー」
ネットのニュースで見た、と自信ありげに報告する友人を他の友人が「信憑性ねぇじゃん」とからかう。春一は適当に相槌を打って話を流した。
「奇数になっちゃったからミニゲームできねえな。誰か一人抜けないと。誰抜ける?」
「じゃあ俺抜ける。ちょっと電話してくる」
春一は一人輪の中から抜け、携帯を持ってそこから歩いて離れた。かけるのは夏輝のところだ。夢亜は基本的にいつでもすぐメールを返してくるので、もう情報が入っている筈だ。
「もしもし」
『ハル。どうされました?』
「もう夢亜からメール来た?」
『ええ。事細かに記されています。今連絡をつけようかと思っていた所でした』
カチカチというパソコンのマウスをクリックする音が聞えてくる。恐らくメールフォルダを開いているのだろう。
「そりゃよかった。詳細教えて」
『わかりました。まず、妖怪の種類はわかっていません。姿形は二十代後半の男性。中肉中背というのが目撃者の方からの証言です。被害場所と被害者は一定性がありません。今それらをまとめたファイルを作成中です。メールは、人間に有害な妖怪の仕業、そう締め括られています』
夏輝が報告を終える。春一はそれらの一つひとつを噛み砕くように飲み込み、頭の中にインプットした。
「わかった。目撃者はいつ来るかわかったか?」
『午後の二時にお見えになる予定です』
「俺も出る」
『了承しました』
「じゃ、また後で」
春一は夏輝の返事を待たずして電話を一方的に切った。
(この妖怪、駆除の必要は少ないな。不満が原因かな)
妖怪にも事情というものがある。共存することを知っている身としては、それらを慮って解決策を講じたいものだ。その方が問題なく生活できる。お互いにだ。
(目撃者と会って話を聞いて、次どこに出没するか割れれば話は早い。とりあえず、妖怪に会うことを第一目標として動きますか)
春一は足元に転がってきた野球のボールを持ち主である少年へ投げて返し、再びフットサルコートへと戻った。
3
目撃者の名前を、悠遠恰助という。初めて現場を目撃した大学一期生で、四季文房具店にはネットの噂を利用してやってきた。
「コースケさん、ね。にしても珍しい名字だな」
夏輝が調書をまとめたものを春一に渡すと、まずそう言った。確かにそうである。
そして二枚目を見る。二枚目には、被害者の名前、年齢、性別、職業と補足事項がリストにされていた。
大石析奈 二十四歳 女 会社員 帰宅途中に襲われる。午後八時頃。七月三十一日。
難波流依 三十五歳 男 大工 出勤途中に襲われる。午前七時頃。八月五日。
園山良穂 七十二歳 男 無職 散歩途中に襲われる。午後二時半頃。八月六日。
広原真希 十八歳 女 大学生 帰宅途中に襲われる。午後四時頃。八月十三日。
以上四人が被害者だ。共通していることは、暴行されたわけではないが、とにかく襲われた、ということ。
四人目の被害者が恰助の友達で、一緒に帰り、別れた後に恰助がノートを借りて返すのを忘れていたことを思い出し、急いで真希を追いかけた時に犯人を目撃したということだ。
「共通してるのは、ただ漠然と『襲われた』ということと、外に出ている時だということ。そして、犯行カードが置かれていて金目のものを盗られてるってことかぁ。日付、時間、性別、職業はまちまち。年齢もバラバラだなぁ・・・・・・」
春一は独り言をつぶやいて、棒付きの丸い飴を口の中で回転させた。彼が集中するときのクセで、彼に言わせればこの飴はコーラ味が最高、他は邪道らしい。
「次はどこに出るか、が問題だな。共通点がないんじゃこっちが囮になって誘き出すこともできない」
困ったように唸る春一の隣で、夏輝はパソコンを使って情報収集をしていた。今回は警察が取り合っておらず、場所もここ数珠市以外では起こっていないため、市内だけの噂となっている。噂は尾ひれのついているものが多く、信憑性に欠ける。収集はいつもよりやりにくい。
「夏、どう?」
「信頼はできないものが多いです。被害者達は襲われた自覚はあるものの、何をされたかまでは覚えていないため、そちらも。夢亜さんに更なる情報を願うメールを出しましたが、情報が入り次第連絡するという通信以降、音沙汰ありません」
「メンドクセェことになったな。・・・・・・考えててもしょうがねぇや。夏、メシ」
「もう十二時でしたか。すぐ作ります」
4
恰助から得られた情報に特筆すべき点はなかった。既に手元にあるものの裏付け程度だ。
彼は最後に、友人を助けて欲しいと頼んで帰った。
「行き止まり、か」
「残念ながら」
一階の文房具店舗で春一が伸びをして、参ったという風に言った。夏輝は隣に座り、紙を整えながら同意した。
「しょうがねえ。ちょっと出てくる」
「どちらへ?」
「呱々(ここ)の所」
「わかりました。いってらっしゃい」
夏輝の挨拶に手を上げて答え、春一は店を出た。彼がこれから訪ねる『呱々』というのは妖怪の一種で、以前人間との諍いが起こりそうになった時、春一が止めに入って以来彼に全面的協力を申し出ている義理堅い種族だ。同じ妖怪の情報を持っていて欲しいという希望だけで動いたわけだが、春一にしては珍しいことで、彼がどれだけ行き詰っているかということがわかる行動である。
彼は自転車に乗って隣町の住宅街を目指した。その一角にあるアパートに、呱々の一部が共同生活をしている。
ピンポーン
春一がチャイムを鳴らすと、すぐに中で動く音がした。留守を避けられたことに安堵していると、彼よりも二、三歳年上と見られる青年が出てきた。呱々の佐伊である。
「おっ、春一さんじゃないスか! どうしたんです?」
「ハルでいいって。敬語もいらない。俺の方が年下だし。ちょっと聞きたいことがあって来た」
「汚くて良ければ上がってください。お役に立てるかわかんないですけど」
敬語はもうクセのようなものなのだろう。春一はそれ以上何も言わずに「お邪魔します」とだけ言って靴を脱いだ。
「今、お茶淹れますね」
「お構いなく。・・・・・・佐伊だけ?」
「はい。助基は部活で、汐は仕事です」
佐伊はお茶を淹れながら同居人の名前を挙げた。春一は適当に机の近くに座った。
「どうぞ。夏輝さんみたいにこだわれなくてすみません」
「ありがとう。いただきます」
出されたアイスティーを飲んでのどを潤し、一息つくと春一は本題に入った。
「あのさ、佐伊。通り魔の噂知ってる?」
彼は口の中のアイスティーを飲み込んで、大きく何度も頷いた。
「知ってます知ってます。あれ、タイアーの仕業っすよ!」
「タイアー? ・・・・・・って、森に棲むあれか。何でまた?」
「ほら、今、隣町の山が崩されそうになってるじゃないですか。ゴルフ場作るとかで」
その話ならば、春一も聞いたことがある。近隣のゴルファー達が喜びの声を上げているらしい。ならば。
「その山に住んでるタイアーが、自分の場所を壊されないように守ってる・・・・・・」
「そうです。本当は害意なんてなくて、カードも脅しだって言ってました」
「会ったのか?」
「この間。でも、ゴルフ場の建設計画が続く限りはやめないって」
微妙な所である。彼らにしてみたら自主防衛手段であるが、それは人間には受け容れられない。
タイアーは森林や山に棲む妖怪で、きれいな空気だけを吸うことができる。しかし、この御時世、そういう場所もなかなかと見つけ辛くなっているのが現状だ。春一も何度か他のタイアーに棲む場所を教えたこともある。折角見つかった場所を壊されてしまうのは確かに辛い。
「そうか・・・・・・。佐伊、タイアーが今どこにいるか知ってる?」
「さぁ・・・・・・。俺もそれは知らないです」
「だよな」
タイアーは基本的に常々棲む場所を変える。一つの山といっても山は山、広い。
「そっか。じゃあ後はこっちで探して何とかする。随分な進展だった。サンキューな、佐伊。助基と汐にもよろしく言っといて。今度メシでも食いに行こう」
「はい。春一さんのお役に立てて嬉しいです。またあいつらがいる時に遊びに来てくださいね」
「ぜひ。お邪魔しました」
彼はアイスティーをぐいっと一口で飲み、立ち上がって靴を履いた。
5
佐伊の家から出た春一は、自転車に乗る前に電話をかけた。自宅だ。
『もしもし』
「夏、今パソコン近くにある?」
『せめて名乗られてはいかがです? ええ、あります』
「じゃあ、被害者にゴルフという共通点があるか調べてくれ。もちろん、夢亜も使ってだ」
春一は名乗りを上げなかったことをスルーして、夏輝に佐伊から聞いた情報を話した。夏輝はすぐに調べると言ってキーボードを打った。
しばしの沈黙が流れ、春一がスタンドを立てた自転車を漕いでいると、電話の向こうで受話器を持ち直す音が聞えた。
『お待たせいたしました』
「どう?」
『当たりです。被害者全員ゴルフを趣味にしており、腕もあります。ゴルフ場主催程度の小さな大会で優勝経験があり、大きめの大会でも成績を残しています。・・・・・・今度できるゴルフ場に関係が?』
「タイアーの仕業だ」
『成る程。少々お待ちください』
再びキーボードを打つ音がする。
『ハル、情報が入りました。被害者全員、ゴルフ場新設地の近くに住んでいます。ゴルフ場ができたら必ず常連になるでしょう。・・・・・・今夢亜さんからメールが届きました。大会常連で成績を残し、尚且つ数珠市に住んでいる人間は何人かいますが、特に出場回数が多く上位の者は限定されます。次に狙われるのは、小島冴と思われます』
「今日は火曜日・・・・・・仕事とかに出てるか?」
『職場は駅です。帰宅するとしたら職員入り口からだろうと。ハルの携帯に写真を送ります』
質問を先回りして答えると、夏輝は電話の向こうで何回かクリックした。
「すぐに行く。夏は追加情報があればメールで送ってくれ」
『わかりました』
春一は電話を切った。すると、すぐにメールが届いた。開くと、二十代前半ほどと思われる女性の写真が添付されていた。全くもって夢亜の情報量には驚かされる。しかし、それにいちいち感動している時間も惜しいので、自転車のスタンドを上げる。定時が五時で終わるとしたら、急いでギリギリくらいだろう。春一は携帯をポケットにしまい、ペダルを踏む足に力を入れた。
6
駅に着くと、腕時計の針は五時ちょうどを指していた。終業して帰り支度をしていればもう十分や二十分かかるだろう。
市の中心となる駅だが、市自体が小さいため、それに比例して駅も小さい。駅の外に自転車置き場とキヨスクがあり、構内は狭い。改札機も入る側と出る側、二つずつだ。辛うじてある電光掲示板がどこか不似合いだ。早い話、田舎である。
春一は自転車を停めた。ここに乗り捨てて歩いて尾行するつもりだ。今から襲われるタイミングとしたら可能性が一番高いのは帰宅途中。帰宅途中に襲われるのならば、徒歩で帰るということだ。冴が襲われそうになったら、すぐに出て行くつもりでいた。
キヨスクで商品を悩むフリをしながら職員用出口に気を配る。
出口のドアが開いた。そこには、春一が一方的に見知った冴の姿があった。春一は手近にあったジュースのペットボトルを手早く買い、冴を極遠くから尾けた。
携帯を片手にただの通行人を装いつつ、気は常に冴の方に向いている、道を幾つか曲がると、人気のない路地に出た。他に通行人もなく、閑散としている。徒歩で帰れる圏内で人気のないポイントはここしかない。タイアーが出るとしたら、ここ以外には考えにくい。春一は気を張り詰めた。
(あいつか・・・・・・)
冴がこの道に入ってから三十二歩目を踏み出したとき、電柱の影から一人の男が姿を現した。妖怪の気が出ている。
彼は冴と春一の真ん中ほどに位置して、周りを伺っている。いつでも襲いかかれるような体勢だ。
男が襲えると判断し、足を速めようとした時には既に一切の気配を絶った春一が背後まで迫っていた。
「!」
男の息が一瞬詰まる。何かに引っ張られているとわかって後ろを振り向くと、そこには満面の笑みを湛えた春一の顔があった。子供らしい可愛い笑顔だが、纏っている空気は北極よりも冷たい。
男の襟を引っ掴んで自分の方へ引き寄せる―というよりかは引き摺る。
「痛い目見たくなかったら静かにしててよ、おにーさん」
絶対零度の台詞が、男の鼓膜に突き刺さる。春一は涼やかな顔で脅迫を終えると、妖怪男の腕を捻って体を電柱に押し付けた。彼の唸り声が聞えたが、春一としては一切合切無視の方向で行くらしい。
やがて冴の姿が見えなくなると、春一は妖怪男から手を離した。彼は春一から飛び退って身構えた。
「大丈夫、何もしやしねえよ」
「さっきまでしてただろうが」
「そうだっけ? 記憶力に自信があるわけじゃないんだ」
「なら、相当な馬鹿だな、お前」
「記憶力が悪いイコール馬鹿と見なすのは些か短絡的だと思うけど? もしかしてテストの点だけでその人の頭を決め付ける系? 哀しいね」
「何がだ」
「視野が狭くて可哀想って言ってんの。自分から見えるものを制限してるようじゃ、利口とは言いにくいな」
男を遠回しに馬鹿と言い、それに気付いた男が春一に飛びかかろうとした瞬間、
「タイアーでしょ?」
全く不意打ちのストレートが男の顎を砕いた。
「何で・・・・・・それを」
「俺名刺持ってないから説明長くなると思うけど」
何のことかと男が首を捻ると、春一が面倒臭そうに口を開いた。
「四季春一。善良な数珠市民。妖万屋」
善良な、を強く言った後で一番肝心な部分を告げる。男は全て察したようで、真正面から春一を見た。
「お前、俺を殺しに来たのか」
「やっぱりアンタ短絡的だね」
カッとなって春一に掴みかかろうとする男に、
「殺すわけないじゃん。共存してる仲間だよ?」
やはり不意打ちのフック。これだけ貶された後に仲間というのは反則だ。
「俺はあくまで話し合いに来たの。平和的解決。ラヴアンドピース。Okay?」
渋々男が構えを解くと、春一はにっこり笑ってガムを差し出した。
「毒なんて入ってないから安心して。シトラス大丈夫?」
「・・・・・・ああ」
若干戸惑いながら男が手を伸ばしてガムを受け取る。春一も自分の口に同じものを放り込む。少し噛んで柔らかくなった所で、春一が話を切り出した。
「つまりね、おにーさんのしてることは人間界じゃ受け入れにくい行為なんだよ」
「けど俺は! 自分の住処を・・・・・・」
「でも俺はおにーさんが優しいってことは知ってる」
この少年はどれだけ不意打ちを食らわせれば気が済むのか。呆けた男に春一は更に追い討ちをかけた。
「だって、そうでしょ? 害を加えることが目的ではない。若干対象違いにしろ、正当防衛だ」
春一はガムで風船を作り、パンとはぜたガムを口に戻しながら言った。男は不覚にも少し良い気分になった。自分のしたことを認められるのに悪い気はなしない。
「でもね、残念ながら今の世界ではその理屈は通じない。というかそもそも、妖怪の存在なんてみんな信じてないんだよ」
その言葉に、男が黙る。事実だが、真っ直ぐ言われると流石にショックだ。
「だから、救いもある」
俯いた男の顔がばっと上がる。春一は先程と変わらぬ笑顔で、続きを話した。
「妖なんているわけがない。いたとしても自分の周りにいるはずない、そう思い込んでいるからこそ、妖怪たちは人間に紛れて暮らせる。少し信じていたら、紛れて暮らせないことは考えれば想像がつく」
言われてみればそうだ。ある種、芸能人と似ているかもしれない。こんな所にいるはずないという思い込みから、本物だとしても素通りしてしまう。恐らく芸能人がスーツを着て普通の会社でコーヒーを淹れていたとしたら、ただのサラリーマンにしか見えないだろう。
「要は考え方さ。おにーさん、考えてみてよ。おにーさんは正当防衛だよ? それは良い。けどさ、それは人間には受け入れられず、このまま被害が続けば捕まるかもしれない。そんなの馬鹿らしくない? 正しいことをして痛い目を見るほど下らないことはないよ」
「じゃあどうすれば・・・・・・」
「俺が新しく住めるトコ探すよ。だから、襲うのはもうやめなよ」
「どうしてそこまでする?」
いぶかしむ男の疑問は尤もだ。春一には義理なんてないし、協力する理由も思いつかない。
「言ったじゃん。『共存する仲間』だって。困ったときはお互い様、譲り合いありがとう精神だよ。・・・・・・っていう理由だけで動けるほど偽善者ではないよ。早い話、利己的な考えさ。アンタらが人間と問題を起こせば当然俺らにも火の粉が降りかかる。火は種の内に消しておく性分でね。自己犠牲という言葉を使えば大層に聞えるけど、そういうことだ。つまりは、自分達が安全且つ幸せに暮らしたい。俺は偶々妖怪と関わることができる力を持っていたからそれを行使しているだけ。もし知らないのならその頭に追加しておくと良い。人間は自己中心的な自愛に満ちた生き物だと」
一息にほぼ自虐的な言葉を吐き出し、春一は自嘲するように笑った。
彼はまだ味の残るガムを包み紙に吐き出し、丸めてポケットに仕舞った。
「・・・・・・そうか。わかった。そういう理由なら納得がいく。じゃあ、頼んでも良いか?」
「承りました」
「何が欲しい?」
「まぁ、それなりの金銭は頂くよ。そうだなぁ・・・・・・」
春一はバッグから先程キヨスクでもらったレシートを取り出し、裏にペンで数字を書いた。
「これだけは頂きますよ。こっちも商売なんで」
「・・・・・・これだけで良いのか?」
提示された金額は、時雨のものと比べると雲泥の差だった。男は驚きに満ちた顔を上げた。
「殆どボランティアじゃないか」
「あれ? 言いませんでした? 『善良な市民』だって。ボランティア活動も『善良な市民』の仕事です。まぁ、チップはちゃっかりもらうということで」
意地悪く春一が笑うと、男はようやっと頬の筋肉を緩めた。
「四季文房具店。百円のシャープペンシルからウン万円の万年筆まで取り揃えております。御入用の方はいつでもどうぞ。但し、水曜定休ですのであしからず。店員一同心よりお待ち申し上げております」
「数日後に寄らせてもらう。被害者に盗んだものを返したらな」
「極上の物件をそろえてお待ちしています」
「文房具屋だろ」
「物件も取り扱う文房具屋で御座います」
「そいつは恐れ入った」
「じゃ、またね、おにーさん」
春一はいつもの口調に戻って、子供のように手を振った。男が手を上げて答えると、走って駅の方へ行ってしまった。
数日後、春一が紹介した数珠市内の山に移り住んだタイアーの男は、約束通り金を支払った。被害者達に盗んだものを返し、恐い目に遭わせたことを謝罪したらしい。恰助にも金銭的負担はかからなかった。
タイアーの男は山の綺麗な空気の中で、頭の中に項目を追加した。
人間―自己中心的で自愛に満ちた、善良な生き物。