第3章
1
「ふわぁ・・・・・・」
大きな欠伸をしながら、春一はダイニングに入った。夏輝が目玉焼きを焼いている所だった。
「ハル、おはようございます」
「おはよー。あぁ、眠ぃ」
再び欠伸をして椅子に座って新聞を広げる。真っ先に見るのはスポーツ欄だ。よし、贔屓の野球チームは快勝だ。
「そういえばハル、今日はお得意様が見えられる予定です」
「お得意様ぁ? ・・・・・・ゲッ! それってまさか時雨のおっさんじゃないだろうな!」
「正解です。しかし、お得意様をおっさん呼ばわりはいけませんね」
「どうだっていい。やだね、俺は何もしない」
「収入ストップしますよ」
「夏、お前やれ」
「私は文房具屋を経営いたしませんと、それこそ収入がなくなります」
表向きの商売である文房具屋を経営するのは夏輝で、春一は手伝い(手伝うことは極稀だが)になる。裏稼業である妖万屋の責任者は春一であり、妖関係になると、主人春一、助手夏輝という形になる。
「あのおっさん話が通じないんだよなぁ。話しててイライラする」
「お客様なんですから、ちゃんと応対してくださいね」
「俺が不満を表立って態度に出すような間抜けだと思ってるのか?」
「いいえ、全く」
「なら心配するな」
「では、お任せしてよろしいですね?」
「・・・・・・嵌めやがったな」
「何のことでしょう?」
「の野郎」
春一は観念したように溜息をひとつついて、新聞を畳んだ。
「あのおっさん俺にビビって声震えるからさ、何言ってるかわかんないんだよ」
「その容貌がいけないんですよ。髪を染めて片耳ピアスの高校生を世間一般で不良と言うんですよ」
夏輝がそう言うと、春一は彼を睨んで真っ向から反対した。
「俺のどこが不良だ。こんな善良な市民珍しいぞ」
どこが善良だ、と口に出すのを抑えて、夏輝は春一の前に皿を出した。
「さぁ、朝食を取って準備してください。八時には来ますよ」
「あと三十分じゃねぇかっ」
春一は急いでトーストと目玉焼きを掻き込んだ。自由奔放なくせに時間厳守で礼儀正しい所が彼の不可解な所其の一だ。
さっさと朝食を済ませ、清潔に身なりを整えて階下へと向かう。ワイシャツに黒のズボン、そしてネクタイ。それだけならば一端の社会人に見えなくもないが、相変わらずワイシャツの裾を出し、今日は赤と黒のチェックという礼服売り場ではまずお目にかかれないネクタイ。例の如く、緩くだらけているため、どこかパンキーな様態だ。
「八時ジャスト」
春一は携帯電話を開いて秒がゼロになったところで声に出して時間を自身に告げた。そして、それと同時に扉がノックされる。
「時間厳守の度が過ぎるだろ」
カウンターの奥にある椅子から身を離し、扉を開けて客を出迎える。先程までの仏頂面とは違って皮肉なほどににこやかな笑顔だ。
現れたのは五十の半ばを過ぎたと思わせる、白髪混じりの男性だった。弱そうな笑顔を春一に向ける。眼鏡の奥の両眼は今にも閉じてしまいそうだ。
「どうも、お久しぶりです」
「お久しぶりです。お待ちしておりました。さぁ、どうぞ掛けてください」
春一は嘘を平気で言ってのけ、彼をカウンターの後ろにある応接スペースへと誘導して椅子を勧めた。彼が座ったのを見届けてから自分も腰を下ろす。すぐに卓上に置かれている電話の受話器を手に取り、内線を使って二階へと繋ぐ。
「夏、お客様がお見えだ。コーヒーを」
『わかりました』
「すみません」
「いいえ。安物ですが、召し上がってください」
春一はやはりにこやかに返事をしてコーヒーの到来を待った。程なくして、夏輝が二人分のコーヒーを盆に載せて持ってきた。客用のコーヒーカップを時雨の前に出し、春一愛用のマグカップを彼の前に置いた。
「ありがとうございます」
「いえ、どうぞごゆっくり」
春一が「ごゆっくりなんてとてもじゃない」という表情を一瞬見せたが、夏輝はそれを無視して階上に戻った。
「それで、ご用件は?」
時雨がコーヒーを飲んで一息ついたのを見逃さず、春一は問うた。
「私は以前からその・・・・・・妖怪に好かれる体質でして」
そんなことは知っている、と言わんばかりに春一は無言を続きの催促とした。それが恐かったのか、時雨は少し体を震わせてから続きを話した。
「今回は、随分強力なのです。助けてくださいっ。私は夜も眠れず・・・・・・」
春一はだんだんイライラが募ってきた自分を理性で抑えながら、先を話さない時雨についに言葉に出して続きを促した。
「詳細をお話願えますか?」
十代後半という見た目に違い、大人びた言葉を使う春一に時雨はやはり体をびくりと震わせた。今日二回目だ。
「子供の妖怪が私の周りをうろついて離れないのです。手持ち無沙汰で、その、変な話遊んでほしいようなのですが」
「その話を聞く限り、遊んであげれば問題は解決する可能性があるように思えるのですが?」
「そんなの恐ろしくてできませんよ!」
この人は何故か妖怪に好かれる体質のため、前にも数多の妖怪と関わっている。その中で、ひょんな痴話喧嘩が原因で彼に危害を加えようとした妖怪がいたため、以来及び腰になっているのだ。何故妖怪に好かれ、妖怪を呼ぶのかと聞かれても、それは「体質」としか答えようがなく、春一もわかっていない。因みに、時雨が危害を加えられそうになったときに助けたのが春一であり、以来の仲である。
「早くなんとかしてくださいっ!」
「何度かお話していますが、妖怪にもタイプが幾つかあります。まずは話してみないことにはわかりません。その妖怪に会わせてください」
「あの、実はその・・・・・・・今表にいるんです」
「表に?」
「ええ。今日私が出かけると知ってついてきたんです。一応表に待たせてはいますが、いつ入ってくるかヒヤヒヤして・・・・・・」
「おーい、入って来なよ」
「えっ!」
慌てふためく時雨を余所に、春一は扉の向こうに話しかけた。控えめに扉が開き、そこから小学校一年生くらいの男の子の体をした妖怪が顔を覗かせた。春一は手招きして、彼を中に入れた。
「おじちゃん、遊んでくれるの?」
「いや・・・・・・そういうわけではなくて・・・・・・」
困ったように汗を拭う時雨に対し、春一は気付かれないように嘆息した。
「坊や、何て名前だ?」
「お兄ちゃん、だぁれ?」
「俺はおじちゃんの友達だ」
言っていて吐き気がする。それを抑えて、春一は手を少年の頭に載せた。
「何て名だ? 少年」
「風乃。みんな『う』を抜かしてフーノって呼ぶよ」
「よろしくな、フーノ。俺は春一。ハルでいい。フーノ、何でそんなにおじちゃんが好きなんだ?」
「一目見ればわかるよ! このおじちゃんは優しい良い人なんだ。それに、他の妖怪からも評判は聞いてるしね」
「そうか。でも、このおじちゃんは遊んでくれなかったんだな?」
春一は遠回し且つ直接的に時雨を非難した。当の時雨は春一のそんな皮肉にも気付かず、どうしていいか分かっていない風だった。
「うん・・・・・・。僕、遊んでほしいだけなのに」
泣きそうな顔をして俯くフーノの頭を春一は優しく撫ぜてから、優しい声を掛けた。
「なぁ、兄ちゃんと遊ぶか?」
「いいの?」
「当たり前だ」
「遊ぶっ!」
文字通り輝くような笑顔を弾けさせ、フーノは飛び跳ねた。
「時雨さん、ということです」
「いやしかし私は・・・・・・」
「いいですね?」
強い有無を言わさぬ口調でそう言い、顔も無表情にすると、時雨は今日三回目の身震いをしてから何度も頷いた。
2
それから仕事が終わった(というか終わらせた)夏輝を含めた五人で公園へ行った。鬼ごっこは色鬼や警ドロなど知り得る全ての種類を網羅して、疲れた後は店の中で絵本の読み聞かせをした。話し手は春一だったのだが、彼の話し上手に時雨は勿論夏輝も驚いた。幼稚園の先生や、図書館での読み聞かせイベントなどをしているプロにも負けないほどの上手さだった。いつもは言葉に感情など殆ど含めないが、いざ喋りの上手さが問われるととても器用に話してみせるのが春一の不可解な所其の二だ。
「楽しかったか? フーノ」
「うん! すっごい楽しかった。もう今日は帰らないといけないなんて嫌だよ」
「なら、友達紹介してやるよ」
「友達?」
「おう。今度から新町の図書館の横にある公園に行ってみな。そこにスラックっていうフーノくらいの妖怪がいるんだ。一緒に遊んだらきっと楽しいぞ」
「本当? じゃあ僕行ってみる! 友達になれるかなぁ?」
「きっとなれるさ。二人とも良い子だからな」
「お兄ちゃん、ありがとう! おじちゃんも、遊んでくれてありがとう。もう迷惑掛けないからね。僕、帰るね。じゃあね!」
大きく手を振って店から出て行ったフーノに、春一は手を振り返した。彼は生来子供が好きなのだ。
「良かったですね、時雨さん」
見送りも終わり、春一は時雨に向き直った。彼は力の抜けた体をへなへなと折りながら、床にぺたんと座った。
「料金、よろしくお願いしますね」
春一は金額の書いた紙片を時雨の手に握らせた。彼はそれを見て、更に力が抜けた。高すぎる。
春一に言わせれば、これは厄介払いのためだけに付き合っていた時雨に対する懲らしめであり、フーノが帰った時に心から安堵し、自分のことしか考えていない彼に対する怒りを込めた金額であった。春一が時雨のことを嫌う所以である。
「そ、そんな・・・・・・」
「おや、もう五時ですか。申し訳ありませんが店仕舞いです。お引取り願えます?」
力が抜けて立てない時雨を、夏輝が半ば引きずるようにして出口へと押しやる。一応、自分の過ちに気付いてほしいという行為である。
「どうもありがとうございました。今後ともよろしくお願いします」
春一が慇懃無礼とも取れる態度で礼をする。最上級の笑顔と、心にもない言葉を前面に出し、夏輝に追い出された時雨にもう一度深々と頭を下げた。それを合図に、夏輝が無情にドアを閉めた。中から鍵を掛けるというオマケ付きで。
ここまで来るとさすがに少しは同情した夏輝だったが、特に何を言い出せるわけでもなく、泣く泣く帰るガラスの向こうの時雨を見送った。